118話 口の悪い少年
ぱちくり、とライルは目を丸くした。
少年による突然の罵倒を、脳みそが処理しきれなかったのである。
それは他の面々も同様で、思わぬ剛速球の悪態に呆気に取られていた。
と、にわかに路地の奥からバタバタと騒がしい足音が聞えてくる。
ライルたちが我に返りそちらへ目を向ければ、ガタイの良い男が2人、刃物を片手に走って来ていた。
「クソガキ、待ちやがれえ!」
「ぶっ殺してやらあ!」
持っている物が物騒なら、発する言葉も物騒だ。
彼らが何に怒っているのかはわからないが、まずもって会話で穏便に済ませられる事態ではないだろう。
「チッ……どけ、邪魔だ!」
少年は男たちを一瞥し、ライルたちを押し退けて大通りの方へと駆け出そうとする。
どうやら追われている「クソガキ」とは彼のことらしい。
子ども相手に罵詈雑言を吐きながら凶器を持って迫りくる大人からは、確かに逃げるに限る。
少年の選択は適切だと言えよう。
だがしかし、彼が踏み出さんとした1歩は、地につくことなく宙に浮いた。
ライルが彼を担ぎ上げたのである。
「は!?」
少年は素っ頓狂な声を上げた。
が、彼の反応などお構いなしに、ライルと他の面々は回れ右をする。
「よし、逃げるぞみんな!」
「おー!」
そう言って、彼らは元気よく走り出した。
「おい何してんだよ! 離せ! はーなーせ!! 聞いてんのかクソ野郎! お前らなんか頼りになんねえよ!」
「まーまー、大丈夫だから黙ってろ」
ライルの腕から逃れようと暴れる少年に、隣を走るフゲンが軽い調子で声をかける。
少年は親の仇を見るような目でフゲンを睨みつけた。
それから「ふざけんなクソが!」とまた吠え、届くはずもない腕をぶんぶんと振り回す。
彼の様子はさながら、誰も彼もに威嚇する子犬のようだった。
一行は背後の男たちを窺いつつ、彼らを最も撒けそうな道を選んでどんどん進んで行く。
しばらくの間、少年は悪態をつき続けていたが、やがて諦めたように黙りこくった。
男たちの気配は次第に遠ざかり、さあこれで完全に振り切れるだろう、とライルたちは裏路地に続く角を曲がる。
すると。
「へへっ。ここは俺たちのシマだ。そう簡単に逃がすかよ」
ざっと30人ほどの男たちが、がらくた置き場のような空き地で待ち構えていた。
どう見ても、先ほどの2人の仲間である。
「だから言ったんだ馬鹿どもが……!」
もぞりと身じろぎをし、少年が忌々しげに吐き捨てた。
もうどうにでもなれ、という自暴自棄な口ぶりだったが、それも仕方がない。
何せこちらは女子ども含めて7人、対してあちらは荒事慣れした男が約30人。
袋叩きにされるのがオチである。
……一般的に考えるならば。
「よし、これで全員か」
「物足りねえなあ」
秒を数えて100もいかないくらいの時が経った後、空き地に立っているのはライルたちだけだった。
男たちは全員もれなく地に倒れ伏し、死屍累々の有様だ。
軍人でも執行団でもないチンピラなど、2桁集まったくらいではライルたちの相手にならない。
加えて今は何の条件にも縛られず、味方全員が万全の状態であるのだからなおさらだ。
実のところは、暴れられると大喜びしたフゲンがほとんど1人でやったのだけれども。
「騒ぎにならないうちに行きましょう。僕たち、あんまり目立たない方が良いですし……」
「だな」
憲兵でも駆け付けて来て、冒険者であることがバレたら面倒だ。
セツヨウがやったように賄賂を用いれば切り抜けられるかもしれないが、少なくともライルたちにとっては極力遠慮したい手段だった。
彼らは踵を返し、早々に立ち去ろうとする。
しかしその足が通りに出る前に、まばらな足音と共に彼らの行く手を阻む者があった。
いかつい男たちの集団――またもや、である。
「お! まだいるじゃねえか!」
その数は今しがた倒した男たちのそれよりも多く、しかもいつの間にやら背後にまで回られていた。
フゲンは目を輝かせるが、状況が悪化したのは火を見るよりも明らかだ。
「クソッ!」
少年は隙を突いてライルから逃れ、地面に降り立つと一目散に走り出す。
「あっ、どこ行くんだ?!」
彼の小柄な体はするすると男たちの間をすり抜けて、右へ左へ上手く躱して進んでいく。
対するライルたちは、正面から最小限の人数だけを蹴散らして男たちの包囲に穴を開けながら、少年を追った。
「なんっっでついて来るんだよ!!」
「だって子ども1人じゃ危ないだろ」
「ガキ扱いするんじゃねえ! っああもう、勝手にしろ馬鹿!」
やいのやいのと言いつつも、ライルたちと少年は走り、背後の男たちを少し伸して、また走る。
それをいくらか繰り返したのち、彼らは路地裏の空き家に駆け込んだ。
「はあ、はあ……やっと撒いたか……」
男たちの怒号を遠くに聞きながら、少年は砂や埃の積もった床にへたりこむ。
ライルも外を見、誰も追って来ていないのを確認するとホッとひと息ついた。
「いやあ、けっこう疲れたな」
「オレは戦っても良かったぜ」
「これ以上、大きな騒ぎは起こせないでしょう。……まあ手遅れかもしれないけど」
「あはは……。それにしても、驚きましたね。あんなに増援が来るなんて」
口々に言う彼らをじろりと睨み、少年は大きく溜め息を吐いた。
「お前ら、なんにも知らねえのな。余所者か? よくもまあわざわざこんなところに来たな」
「あいつらのこと、知ってるのか?」
「当然。大した悪党じゃねえけど、デカい組織の傘下に居る奴らだ。弱そうな奴相手にカツアゲしたりリンチしたり、イキり散らかしてる……虎の威借りて調子乗ってんだよ」
「それで、あなたもさっき絡まれたけど、頑張って逃げて来たのね」
「勘違いすんな、おれは弱くねえ。あの2人に一発ずつくれてやったし、おれ1人なら囲まれる前に逃げ切れたんだ。まあ全部水の泡だけどな」
少年は苛立たしげに頭を掻きむしる。
「ああクソ、お前らのせいだぞ! こうなっちまったらどう足掻いても目ぇ付けられる。もし後ろの組織が出てきたら……」
そう、最大の問題はそこだ。
少年曰く「デカい組織」が背後にいる以上、仮にあの男たちを全員叩きのめしても解決するどころか、より大きな脅威に狙われる危険性が増すだけ。
あの30人ほどと道中で何人かを倒してしまったのはもう仕方がないとして、海底国で活動をするなら、これから先は最大限穏便に済ませなければならない。
間違っても、「デカい組織」の人間を呼ばれて顔を覚えられる、などということは避けなくてはならないのだ。
「おいお前ら、一番マシな方法で逃げたきゃおれを手伝え」
少々考え込んでいた少年は、ふっと顔を上げてライルたちに言う。
「手伝うって?」
「おれが囮になるから、先に行って関所の役人に金渡してこい。あいつらに追われてるのを勘付かれないうちにな」
「それじゃあお前が危ないだろ! 囮なら俺が代わりにやるよ」
ライルは慌てて彼を制止した。
これだけ他に年長者がいて、わざわざ幼い子どもを囮にするなどできるはずもない。
当たり前のことである。
が、少年はライルの返答が不服であったらしく、口をへの字に曲げた。
「……じゃあいい。おれは1人で逃げる。お前らも勝手に逃げろ」
言いながら、立ち上がって空き家の玄関へ足を向ける。
ライルはその背中に、傷だらけの諦念を見た。
自分の言葉を撤回すべきかとも思ったが、しかし普通の人間の子どもを危険に晒すことは、やはり看過できない。
彼は言葉を選びかねて、息だけを吸い込み、吐き出す。
「待ってくれ」
と、そこで少年を呼び止める声があった。
シュリだ。
「あなたは、それができるのか」
ゆっくりと発話し、シュリは少年を見据える。
少年は振り返り、眉間に皺を寄せながら淀みなく頷いた。
「できるさ。お前らには信じられねえみたいだけど」
「信じよう」
シュリは即答する。
布で隠れた口元がはっきりと動いた。
驚き、目を見開く少年に、彼は続けて話す。
「あなたはこの土地に詳しいようだ。身のこなしが軽やかで、動きに慣れたところがある。体の芯が丈夫だ。初めの2人からも十分に逃げられていた。加えて自信もあるのなら、自分は、あなたにはできると思う。……囮役を任せても良いか」
相変わらず会話があまり得意でないシュリは、ひたすら慎重に、かつ真摯に言葉を並べた。
何も知らない第三者が聞けば眠たくなるやもしれぬ、抑揚や面白味に欠けた語り。
けれども語りかけられた少年には、彼の一語一句が染み渡るように伝わった、ようだった。
「……!!」
少年の口角が上がる。
瞳には輝くものが灯り、背中に重くのしかかる諦念は見る見る晴れていった。
「ふ、ふん、そこまで言うならやってやるよ。お前らもちゃんとやることやれよな!」
すっかり機嫌を良くした彼は、「ほら、さっさとやるぞ!」と空き家を飛び出す。
「行こう。彼の頑張りに応えなくては」
「……ああ!」
ライルたちもまた、少年に続いて空き家を出た。