104話 良い、悪い、悪い
シン、と部屋が静まり返る。
誰のともつかない微かな呼吸音だけが響いていた。
が、その静謐を破ったのは、荒々しいジュンルの声だった。
「っ信じられるか、そんなこと!」
彼は言う。
言いながらも、瞳は揺れていた。
「お前たちも奴の息がかかった人間だろう! 私を言いくるめようなど無駄だ!」
偏った言葉が、全てを拒絶するように吐き散らされる。
ジュンルが必死であることは、誰の目にも明らかだ。
既にシュリの説得が腹に落ちていながら、彼はそれを懸命に追い出そうとしていた。
認めたくない、認めてはならない、と。
「ジュンル」
そんな彼の名を、ライルはゆっくりと呼ぶ。
「お前はスアンニーのことが憎くて許せない。それと同時にお前は市民を守るべき憲兵だ」
わかったこと。
理解できたこと。
そこから見えたジュンルという人間の心。
ライルはこれらをしかと踏まえ、自分の意志を確認し、かけるべき言葉を選んで発して行く。
「個人に対する感情と憲兵の職務遂行は同時に存在し得る。でもお前は今、そうなっていない。感情を優先して憲兵としての役割を放棄している。……良くないだろ、それは」
怒るでもなく、哀れむでもなく、彼は淡々と語った。
あるのはかすかな、共感。
「お前は選ばなきゃいけない。公私混同は許されない。憲兵としてのさだめに従うか、憲兵を辞めて自由に生きるか。お前は好きな方を選べるだろう。だったらどっちか決めろ」
ジュンルは黙って聞いていた。
死に物狂いで心を閉ざそうとしていたその手から、するりするりと力が抜けていくがごとく。
彼はライルの言葉を受け入れていた。
「どっちつかずは、みんな苦しいだけだ」
ライルが最後にそう言い、部屋にはまた静謐が戻る。
数秒か十数秒かそれ以上か、しばらくの間が生じた。
そののちに、ジュンルは項垂れるように頷く。
「……わかった。私は、憲兵としての役割を全うしよう」
発された彼の声からは、もう焼け付くような憎悪は感じられなかった。
* * *
「ってわけで! この町にも憲兵置いてもらえるようになったぜ!」
皆で無事孤児院に戻り、ライルは弾けんばかりの笑顔でスアンニーに報告した。
その表情は達成感だけでなく、失敗から挽回できたからだろう、清々しい安堵混じりだ。
「本当に説得して来るとはな……。いや、ありがとう。お前たちのおかげで、また平和に暮らせそうだ」
言って、スアンニーは窓の外へと視線をやった。
そこに見える庭では、フアクの部下たちとムーファたち3人が和気あいあいと遊んでいる。
彼は頬を緩めて目を細め、またライルたちの方へと目を移した。
「シュリのことも褒めてやってくれ! 大活躍だったからな」
「じ、自分は別に……」
「今までにないくらい、すっごく沢山喋ってたのよ」
「ほう? それは少し気になるな」
「スアンニー……!」
謙遜するシュリを囲み、彼らはわちゃわちゃとじゃれ合う。
中々の人口密度だ。
「ま、これで一件落着だな。ライルたちはこれからどうすんだ? 俺様はとりあえず怪我治したら、親父を探しに行くけどよ」
体のあちこちに巻かれた包帯を示しつつ、フアクが訪ねる。
「俺たちは……」
ライルは答えを言い淀み、「今どのくらいお金貯まってたっけ?」と隣にいたモンシュに尋ねた。
「目標額まであと少しです。単純計算で、あと4日働けば船を調達できると思いますよ」
「じゃ、まだもうちょっとこの町に居る感じだな」
と、返答したところで、ライルの頭にふと疑問が浮かぶ。
彼は何の気なしに、その素朴な疑問を口に出してみた。
「そう言えばフアク、お前なんで盗賊団辞めたんだ?」
「ああそれ、私も気になってたわ。たまたまスアンニーがこの町に居たから?」
重ねてカシャも尋ねる。
フアクがスアンニーを慕っていたのはわかったが、それと離反行為が結び付くのか、付かないなら何が離反の理由なのか、といったあたりのことをライルたちはまだ知らないのだ。
皆の視線を一身に受け、フアクは少々悩む素振りを見せつつ答えた。
「んー、まあ話せば長いんだが……端的に言うと、親父の元にいたんじゃ俺様の目指す悪党になれないと思ったから、だな」
「目指す悪党……?」
ライルたちは揃って首を傾げる。
確かに彼は初めの頃の言動こそ不良らしかったものの、実態は悪党とはほど遠い。
いったいどういうことかと皆が解答を待っていると、フアクは平然と頷いた。
「ああ。例えば重い荷物持った奴がいたらそれを代わりに運んでやったり、困ってる奴がいたら声掛けて手伝ってやったり、そういう悪事をはたらく悪党だな」
ちょっとした沈黙が流れる。
のち、カシャが言う。
「……それの、どのあたりが悪事?」
「は? こんなわかりやすい悪事、説明不要だろ?」
彼女はわけがわからないから尋ねたのに、フアクの方もまたわけがわからないという顔をした。
誰彼からも疑問符が浮かび、部屋中を飛び交う。
何かが、決定的に行き違っている。
そう判断したライルは、すぐさま次の質問を飛ばした。
「フアク、それ誰から教わった?」
「親父」
「あー……」
何となく事態を察し、彼は何とも言えない声を漏らす。
「どんな感じで教わったんだ?」
再び問うと、フアクは「ちょこっとややこしいぜ」と前置きをしてから話し始めた。
「親父は昔から俺様に『こういうのは悪いことだからするな』って言い聞かせてきたんだ。逆に、『盗賊がやってるのは良いことだから積極的にしろ』ともな。でも俺様も馬鹿じゃねえ。成長していくにつれ、周りの反応で盗賊のやってることも悪事だって気付いていったんだ」
「なるほどな」
ライルはうんうんと頷く。
すなわち彼は、父親から誤った認識を植え付けられていたということだ。
いやしかし、誤認識が解消されたならなぜ今も……と次の疑問が浮かぶと同時に、フアクが続きの言葉を紡ぎ出す。
「つまり、この世の悪事には種類があるのに、親父は自分のやる悪事を『良いこと』だって嘘ついてたんだよ。まったく自分勝手だよな。自分に都合のいい悪だけ人に押し付けようとするなんて。とまあ、そこで俺様は決意した。親父の言いなりになるんじゃなくて、自分の好きな悪事をはたらく、理想の悪党になろうってな」
「……なるほど?」
ライルは言いながら、フゲンの方を見る。
彼は「情報処理中」の顔をしていた。
モンシュ、カシャ、クオウの方も見てみる。
揃って「なぜ?」の顔をしていた。
スアンニーは眉間を押さえ、シュリはとても困った顔をしていた。
混乱する彼らをよそに、フアクはさらに続ける。
「それで賛同してくれる部下……キャットは利害の一致ってやつだったが、まあ、あいつらと一緒に離反の計画を立ててたんだ。この町で計画を実行したのはたまたまだな。スアンニーさんがいるとは思ってなかった」
最後に疑問の一方は綺麗に解消したのがせめてもの救いか。
ライルは落ち着いて、フアクの言い分を咀嚼する。
――要するに、彼の中では「良いこと」が「悪いこと①」で、「悪いこと」が「悪いこと②」となっていて、彼は「良いこと」もとい「悪いこと①」を行いたいと思っている……といった感じか。
「ええと、じゃあ……『良いこと』ってなあに?」
同じくフアクの認識を理解しようと頑張っているのだろう、クオウが彼に訊く。
「変なこと聞くなあ、お前ら。そりゃあアレだろ」
彼はやはり、「当たり前のこと」を問われることを訝しむ様子でありつつ、はっきりと答えた。
「他人を守ること! この世にある『良いこと』って言やあこれだけって決まってんだろ?」