後編
翌朝。空も白まぬうちに支度を済ませ、剛佐と弟は宿を出た。二人の間に言葉はなかった。
やがて日が昇り、空が白く輝いた頃。以前立ち合った、街道脇の山道に童は待っていた。道端の岩に腰かけ、手持ちぶさたにか脇差をもてあそびながら。
腰かけたまま、頭をかきながら童が言う。
「来たかおっさん。銭は――」
「取れい」
懐から出した巾着を放る。童が受けたそれは、重く銭の音を立てた。
「何も先に渡さんでも」
「よい、三途の渡し賃と思え」
言いながらも剛佐の顔はこわばっていた。ああ、さっきの隙、巾着を受け止めた隙に斬りかかっていれば。殺せていたかも知れないのに。
「それじゃまあ、遠慮のう。ときに今日は助太刀付きか」
「これはただの立ち会い人、手出しはさせぬ。うぬも、こやつに手出しはしてくれるな」
童は立ち上がりながら言う。
「そらぁ構わんが……そうじゃ、先に銭もらうて悪いけぇの。これだけでも返しとくわ、そら」
腰に差した何本もの脇差、そこから一つを鞘ごと抜いて放る。見覚えのあるそれは剛佐の脇差だった。
両手を伸ばし、受け止めたそのとき。獣の速さで走り込んだ童が、その抜き放った刃が。剛佐の目の前にあった。
「もう死んだぞ。……命は返したる、刀置いて去ね」
手にした脇差を取り落とし、剛佐は笑った。笑っていた、息をこぼし、肩を揺すり、腹の奥から声を漏らして。
握った、突きつけられた刃の峰を。もう片方の手で拳固をくれた、あっけにとられたような童の顔に。
「ふざけるな。これでも死んだか、わしが死んでおるか!」
跳び退き、刀を抜き放つ。三歩の運足、全身の力で振り下ろす刀。
斬壺の型で放ったそれはしかし、受け止められていた。童が構えた二本の脇差で、挟むように。片方の脇差で刀を押さえたまま、もう一本を童は横へ抜いた。そして剛佐の胴を払う。どうにか退いてかわせたが、着物の前が裂けていた。
舌打ちした童が構え直す。
剛佐は間合いを取りながら下段へ構える。飛び込んできたなら刀を上げて脇差を払い、その隙に斬り込む――そのつもりだったが。先に弾かれたのは剛佐の刀だった。もう一本の脇差が斬りかかってくる寸前、何とか跳び退く。刃にさらわれた髭が、何本か宙を舞った。
歯を噛み締めて斬り返す。童の手にした脇差、その一方を手から弾き飛ばした。が、その手応えはあまりに軽かった。童は表情も変えず、残った脇差で刀を押さえた。空いた手で腰から別の脇差を抜き、斬りかかってくる。剛佐の目の前を刃が過ぎる。斬られていた、ほんの少し脇差が長ければ。いや、まともに踏み込まれていれば。
その後も同じだった、斬りかかっては返され、返しかけては斬りかかられ。防ぎ、かわすのがやっとであった。
どれほどそうしていた頃か。自らでも一足には跳べないほど間合いを取り、童は口を開いた。構えを解き、柄で頭をかきながら。
「おっさん、腕ぇ上げたか。前よりゃだいぶやるやないか」
構えを崩さず、流れ落ちる汗も拭わず剛佐は言う。
「……手心か」
童は笑った。何とも、晴れた空のような笑みだった。
「何のことやら」
剛佐は長く息をついた。長く長く息をついた。それはため息ではなく、紙風船がしぼむような、そんな息だった。
どうしたのだろうか、あの技は。若き日、溶けそうなほど汗にまみれて覚えた技の数々は。それらは確かに今も、拭い去れぬほど体に染みついているというのに。そして、手心か。
「ふ……ふふ。はは、くっははは」
笑っていた。童と同じ顔で。見上げた空は青かった。日はその光に黄色みを帯びて、山の上で輝いていた。
剛佐は刀を地に突き立て、その場に座した。背筋を伸ばし、手を地につけて。平伏した。
「お見事。お見事なり」
童が手を下ろしたのか、脇差の鞘が、からり、と鳴った。
伏したまま剛佐は言う。
「貴殿、既にして剣の達者なり。見込んで御願いがあり申す、二つ」
顔を上げて続ける。
「一つ。貴殿に習い覚えた流派はなかろう、しからば。我が流派、八島払心流に加わられたい」
「兄上?」
弟の声が飛んだが、剛佐の表情は変わらなかった。
「貴殿の才に我が流派の術理加われば。必ずや天下に恥じぬ名人となろう、斬り剥ぎなどでなく」
童はただ口を開け、目を瞬かせているばかりだった。
構わず剛佐は再び伏す。額まで地につけて。
「二つ。拙者と立ち合いを。真に真剣の立ち合いを」
「兄上!」
「黙りおれ! ……立ち合いを、所望いたす」
風が吹いた。木々がざわめく。剛佐の頬から汗が滴った。
「おっさん。……顔上げてくれ」
童は脇差を納めていた。頭をかきながら言う。
「よう分からんが。わしゃ武士やない、あんたのことも斬りとうはない。お断りじゃ」
「ならば……賭けぬか」
剛佐は立ち上がり、刀を手にする。
「貴殿がどうあろうと、拙者は斬りかかる。貴殿が立ち合うまで何度でも。それで貴殿が勝てば、三十……いや、五十両差し上げ申そう」
「兄上、何を……」
弟が駆け寄るが、剛佐はその手を払いのけた。
「黙れ。借財しても構わん、そのときは何としても用意いたせ」
童の方へ向き直って続ける。
「その代わり。拙者が勝てば、我らが門下に加わっていただく」
何度も目を瞬かせた後、声をこぼして童は笑う。
「おっさん、そりゃ話がおかしかろ。わしが勝ったときゃええが、おっさんが勝ったときゃあ。わしゃ斬られて命がなかろ、どないして弟子入りせえ言うんじゃ」
剛佐は円く口を開けた。ふ、と息をついて笑う。
「そうか。そうじゃの、可笑しいの。ま、忘れてくれても構わん」
土を払い、刀身を拭う。構えた。
「参るぞ。……抜けい」
童が脇差を抜くのを見てから、剛佐は駆けた。
汗に重く濡れたはずの体は軽かった、羽根でも生えたように。腕も同様だった。刀の重みはまるでなく、まるで掌から柄が、刀が生えているようだった。自然と姿勢は八双の構え、斬壺の構えとなっていた。
駆け、踏み出す一足ごとに、剛佐の体は軽くなった。一足に継ぐ一足、そのたび剛佐は速くなった。地の堅さ砂利の硬さ、足裏の足指の骨の軋み肉の張り、血の巡り。一足ごとにそれが分かった。
駆け来る童の刃が迫る。
最後の三歩を剛佐は駆けた。腰から背骨、肩から腕、肘。手首から十指、柄から刀身。今や剛佐の体には、重みも力みも一切無かった。それらはすでに一点、切先へと伝えられていた。
童が突き出す脇差、今の剛佐にはそれらが遅く見えた。まるでぼた雪が降るように、ゆるりと出される二本の刃。その間を流星のように、剛佐の刀が過ぎる。
童の体へと当たる瞬間。剛佐の十指がかすかに動き、手の内を、握りを決める。自在に緩め、的確に締め、振り抜く。剛佐の刀は確かに、童の体の上を走った。最初に触れたものを、何の抵抗もなく斬り裂きながら。
その後で。ゆるりゆるりと、剛佐の体に脇差が突き立つ。
脇差を握った両の手を突き出したまま、童は立ち尽くしていた。
確かに。確かに、自分は斬られていた。全力で突いたはずの脇差がまるで敵わないほどの速さで。
なのにどこにも傷はなかった。傷があるのは相手の方だった。刀を振り下ろした姿のまま、喉を貫かれ胸をえぐられ、息絶えていた。
風が吹いた。流れ落ちる血が香った。そのままの姿勢で二人はいた。
目を瞬かせ、口を開けたまま、童は両の脇差を抜いた。支えを失い、相手の体は、どう、と地に伏す。
そのとき。走った、傷口が。童の体の上を。
ぴりり、と着物の前が裂け、帯が二つに斬り落とされた。がらりがらりと音を立て、腰の鞘が、脇差が、落ちた。腹にも、胸にも傷はなかった。
風が吹いた。
童は変わらず立ち尽くした。木々が鳴る中、立ち会い人が駆け寄る音が聞こえた。
相手の目は。額を土に汚し、刀を握ったまま伏した、その口の端は。笑っていた。
八島払心流五代宗家、八島剛佐衛門紘忠、旅先にて没する。その後、弟である紘孝が六代を継いだ。
その後にすぐ、六代は養子を取った。養子は名を改めて、剛四郎紘忠といった。
剛四郎は後に、小太刀を取っては当世無双と謳われる名人となった。しかし、秘太刀“斬壺”は隠居の後、晩年に一度、成功したのみだったという。
(了)