前編
八島剛佐は信じていたのに。己の剣技を信じていたのに。今や目の前の一切が、剛佐にとって信じられなかった。
大上段に構えた刀を、一気呵成に振り下ろす――かわされる。下段に構え直すと同時、みぞおち目がけて突きを放つ――弾かれる、相手が手にした脇差に。
剛佐の顔は、白いものも混じる顎鬚は、洗ったように濡れていた。なのに目の前の賊は汗一つかいていない。剛佐の半分にも満たぬ齢格好の童は。
童はあくびを一つして、脇差の背で肩を叩く。もう片方の手で別の脇差をもてあそびながら。腰にずらりと吊るされた幾本もの脇差が、揺れて、からりと音を立てた。
「おっさん、ぼちぼち気ぃすんだか? 命までは取りゃあせん、銭も何も置いていけ」
山道に風が吹き、辺りの木がざわめく。剛佐は何も答えなかった。構える刀の切先が、絞るように震えていた。
踏み込む。同時、上段から振り下ろす。面打ちと見せて、刀を横へ回し腰を落とし、脛を断ち斬る――つもりであった。
脇差に、刀は押さえられていた。脛どころか、自分の顔の高ささえ通り過ぎないうちに。そしてもう一本の脇差は、剛佐の喉元に突きつけられていた。
童が笑う。
「おっさん置いてけ、全部置いてけ。銭も刀もなんもかも。命と身ぃだけ持って去ね」
歯ぎしりの後、震える手で刀を納め。ようやく剛佐は口を開いた。
「拙者、八島払心流――」
五代宗家、という言葉は、口の中で噛み潰した。
「――八島剛佐衛門紘忠。……お見それした、何流か」
ふ、と童が鼻で息をつく。
「よう聞かれるが。何流も糞もない、何とは無しにかわして斬って、それだけよ」
剛佐は口を開いたが、言葉は何も出てこなかった。
童が言う。
「わしにしてみりゃ全然分からん。太刀行きにしろ脚にしろ、何で皆そんなにのろいか。そののんびりした太刀を、何で、さっとかわせんのか。そんで何で、さっさと斬らんか。何で出来んのかが分からん」
開いたままの剛佐の口に、汗が一筋流れ落ちた。
背筋を伸ばし、胸を張り、剛佐は宿へと帰りついた。顔は固く、表情はなく、腰に大小の刀はなかった。
宿の者が声をかける。
「お武家様。遭えましたので、噂の賊――“刀狩り”には」
ぐ、と息を飲み込んで、剛佐は笑ってみせた。
「いや、とうとう遭えずじまいであった。出てこようなら成敗してくれたものを」
左様で、と笑う宿の者は、じっ、と剛佐の腰を見ていた。
剛佐は部屋に上がり、残していた荷物から硯一式を出す。文机の前に座し、姿勢を正して墨を磨った。銭と刀を送るよう、家族へ宛てて簡潔にしたためる。文を乾かし、丁寧に折り、封をした後で。
気づけば、握り潰していた。畳へ投げつけた文が、ぺちり、と間抜けな音を立てた。立ち上がりざま文机を蹴る。吹っ飛んだ硯が障子を破り、畳に壁に墨が散った。蹴った、壁を、殴った、畳を。額を柱に叩きつけた。目をつむった闇の中、歯ぎしりの音を聞いた。
「何故出来ぬのかが分からぬ」
――かつて。腹の底から息をつき、肩を落としてそう言ったのだ、父は。八島払心流四代宗家は。倒れた剛佐を見下ろすその目はまるで、不治の病にある者を見るかのようだった。三十年ほど前のことであった。
道場の床板の上、汗だまりに突っ伏して、剛佐は目だけ上げていた。口を開いても、かすれた息が漏れるだけで言葉は出なかった。それ以前に、何を言うつもりであるかも分からなかった。
弟、紘孝が進み出る。
「父上、左様におっしゃられずとも。兄上ならきっと、この技もいつか必ず習得なさいましょう」
差し伸べられた手につかまり、身を起こしながら。剛佐は見た、優しげに微笑む弟を。その目の奥を。
握り潰したかった、その手を。けれども指は震えただけで、剛佐は力なく弟にもたれた。もうそうしたことは幾度目か分からなかった。そして、父がこう言うのも。
「この程度の技でその様では、到底宗家を継ぐことはなるまい。無論、修めることもできまいぞ。秘太刀“斬壺”をの」
斬壺。八島払心流初代宗家が編み出した奥義である。初代をして生涯五度しか成功しなかったというその秘太刀は、術理のみ伝わるも、使い手は絶えて久しかった――
部屋に残していた銭から代金を叩きつけるように渡し、文を出すよう宿の者にことづけた後。
八島剛佐は駆けていた。宿場の人の間を縫い、肩がぶつかるのも構わず駆けていた。夜が青黒く覆いかぶさる空の中、行く手に沈む日だけが赤々と燃えていた。
人影のない町外れ、道から外れた草むらで。剛佐は腰に手をやった。手が空をつかんだところで、刀がないことをようやく思い出す。顔を歪ませたまま、辺りの木立から枯れ枝を拾う。枝葉を払い、木刀のように構え、振った。打ち据えるように。
何故だ。
剛佐はそう問うた。何故だ、何故だ、と、そう問うた。
頭の内に童の顔が浮かぶ。歯を見せて笑った顔、そこに父の、弟の顔が重なる。
まとめて打ち払うように、剛佐は強く枝を振った。
何故だ。越えたはずなのに、なぜまた嘲笑われねばならん。何故だ、何故だ。
そう、越えたはずであった、父のことも弟も。秘太刀“斬壺”の会得を以て。
――その夜の剛佐も今と似ていた。父になじられ弟にかばわれた稽古が終わり、気絶するように眠った後。一人庭に出、腰の刀を近くに置き、木刀を手に素振りをしていた。打ち据えるように何度も何度も。打ち据えたかったのは父か、弟か、それとも己かは分からなかった。
素振りの後、その日教えられた技をさらい、型をなぞる。いつしかその動きは教えられたものではなく、父が稽古していたのを見た“斬壺”の型になっていた。
伝によれば。初代宗家はその技を以て、壺を斬ることが出来たという。無論、壺など割ることは誰にでも出来る。初代はそれを、斬った。生涯のうちに壺を二度、漬物石を二度。いずれも、下に据えた台には傷もつけずに。五度の秘太刀のうち最後の一度、それは墓石に、己の墓に据えるための石に、ずか、と切れ込みを入れたという。
斬壺の術理、その骨子は二つ。太刀行きと手の内である。太刀行きとは、すなわち剣速。常の技のような一歩の踏み込みではない、三歩の助走。その勢いを足裏から足首、足首から脛、脛から膝。腰、背骨の一節一節、肩。腕、肘、手首、手指、柄、刀身、そしてようやく切先へと余すことなく、加速しながら伝える。これにより生まれる神速の太刀行きが、切先に限界まで破壊力を与える。
その破壊力を切断力へと変えるのが手の内、すなわち柄の握りである。太刀を振るう向きによって握りを変えるのが常の剣術であったが、斬壺はそれに留まらなかった。太刀が当たった瞬間、その感触に応じて、斬りながらも自在に握りを締め、あるいは緩める。それにより刃は物体に抵抗することなく滑り、食い込み、撫で切り、断ち斬る。脆い壺を砕くことなく、硬い石に刃を折ることなく。
両手で持った木刀を、剛佐は右肩の前で立てた。左足を半歩前に出す、八双の構え。三歩踏み込み、振るう。再び構え、踏み込み、振るう。重く夜気を裂くその音は、どうにもいつも通りだった。
「兄上、精が出ますな。秘太刀の稽古にござりますか」
弟が庭に下りていた。手には二振り、袋竹刀――割竹を細長い袋に入れたもの――を提げている。
「しかし兄上。お言葉ですが、別の稽古をなさった方がよろしいのでは」
「……どういう意味だ」
剛佐の視線を避けるように、弟は首を横に振る。笑って。
「いえ、言葉どおりにござります。我らが流派の秘伝とはいえ、誰も使い手のおらぬ技。実在すら怪しいのではないかと……正直、左様に思いますので」
剛佐は表情を変えなかった。強く握る手に、だらりと下げていた木刀の先が上を向いた。
「嘘ごとと、そう申すか。我らが剣が、その最奥が」
弟は変わらず笑っていた。
「いえいえ、仮の話にござります。それより一つ、竹刀稽古でもいかが」
弟が差し出す竹刀を、何も言わずに取った。一礼の後、互いに構える。
いつもの稽古と同じだった。剛佐の竹刀が当たる前に、弟のそれが剛佐を打った。振り上げる出がかりを抑えられ、振り下ろしたところを弾かれ、その隙を打たれ。三本に一本取り返せればよい方だった。
最後、苦し紛れながら全力を込めた、斬壺の型は。あっさりとかわされ、胴を打たれた。
「よい稽古になりました。ありがとうございます、兄上」
額の汗を拭う弟は、変わらず笑っていた。
剛佐に表情はなかった。汗も拭わず、あいまいにうなずいて立ち尽くしていた。
弟が部屋へと戻ってしばらくの後。剛佐は立てかけていた刀を取った。鞘を放り捨て、構えるのももどかしく振るう。柄を絞り折るような力を腕に込めて。砕くように歯を噛み締めながら。己の腕を千切ろうとするかのように、剛佐は剣を振るい続けた。
どれほどの時が経ったであろうか。気づけば空が白んでいた。荒かった息はかすれ、途切れ途切れにさえなっていた。汗に濡れそぼった着物は外気と同じ温度をしていた。疲れ切ったはずの腕は、何故だか刀の重みを感じなかった。指も柄から離れようとしなかった、まるで、ぴたりと吸いついたように。刀の一部になったかのように。
剛佐は口を開けていた。空が白いと、ただそう思った。それ以外の思考はなかった。空を映す刀身のように。
ふらり、と刀が動いた、気がした。その切先の方を見れば、庭石があった。肩ほどの高さがある庭石。斬れそうだな、と、そう思った。口を開けたまま。
気づいたときには構えていた。八双の構えだった。考えたわけでもなく距離を取る。岩へ向かって三歩の間合い。
駆けていた。地を蹴る堅い反動が、足の裏から土踏まずへ走る。足首へ巡り、骨を伝い肉を駆ける。腰のひねり、背骨のしなり、腕の力がそれに加わる。斬り下ろす刀が庭石に触れた瞬間、勝手に左手が締まり、右手は緩まっていた。手に感触はなかった。わずかにかち合う音だけが聞こえた。気づけば庭石の頭に、ずかりと刀が食い込んでいた。
未だ柄から手が離れぬまま、どうやって刀を抜いたものかと考え始めたとき。寝間着の父が、裸足のまま駆けてくるのが見えた。
その朝の内に、剛佐は壺を両断した。父と弟、幾人かの直弟子の前で。初代の伝にあるとおり、据えた台には傷一つつけず――
今。剛佐は枝を手に、斬壺の構えを取る。何度も繰り返した動き。三歩の運足、地を蹴る勢いを刀に込め、振り下ろす。空を裂く音はどうにも重かった。もう一度繰り返しても、音は変わらず重かった。
振り下ろした姿勢のまま、剛佐は身じろぎもせずにいたが。やがて息をつき、肩を落とす。
「こんな枝ではどうにもならぬか」
分かっていた。木刀で素振ろうが、刀で試し斬りしようが。斬壺を使えたことは、若き日の二度だけであったことを。どうしてそれが出来たのか、自分にも分からないことを。
いくらか残った小枝を丁寧に払い、再び振ったが。やはり、音は変わらなかった。