へたくそ
あの休業日以降、誠二は再び連勤の日々を送るのだった。早朝に家を出て、深夜に家に帰る。いつも通り、ダブルスタンダードな上司に不当に叱られながら、精神をすり減らしていく。
休業日のある日のことを、たった数日しか経っていないのに誠二は懐かしむようになっていた。
あの時、あの瞬間に見て、感じて得られた何かが、今誠二は心から欲していたのだ。
しかし、大人になると無鉄砲な行動も思わず慎んでしまうもの。それは何故なら、大人は子供と違って、自分の責任は自分で取らないといけないからだった。
だからこそ誠二は、今日も遅い時間まで自分の仕事に当たる。
だからこそ周囲は、誠二の手伝いなどして痛い目に遭わないようにと、自己保身のように彼に救い舟を渡さない。
それがこの会社の縮図。
そう言って、何ら差支えはなかった。
この日、早朝からいつも通り誠二は出社をした。夏場ではあるものの、早朝のこの時間はまだ少しだけ冷える。
ただ誠二は、冷房の電源を付ける。
朝、出社した時に、室内が暑いと文句を言ってくる人がいるからである。
気が利かない奴。
そんなくだらないレッテルを貼られて、誠二は気分を害すだけならまだしも、そういうところで評価を下げていくのだった。
今や評価など気にしていない誠二ではあったが、その小うるさい上司の説教を聞くのが嫌で、彼は冷房に電源を入れていた。その結果、しばらく寒い思いをすることになるのだが、仕事を始めると体感の温度などどうでも良くなるのが、彼の特技の一つだった。
始業の時間は、誠二が出社して三時間程経ってやってきた。
朝、何をするのか。
管理など微塵もしない癖に、やっている気になりたがっている上司が、始業時間に部下達にそれを話させる。
いつも通り、誠二もその報告に交じり、今日やることを上司に告げた。
今日の上司は、いつもより機嫌が良いのか、誠二に対する小姑のような指摘はしないのであった。
「今日は浜田は休みだ」
上司が最後、部下達に向けてそう言った。
言われて、誠二は先輩社員である浜田がこの輪に交じっていないことに気付いたのだった。
「奥さんが熱を出したらしい」
浜田と言う先輩社員は、誠二の部署にしては珍しく休暇を良く使う男であった。本来、有給休暇は社員に与えられた義務。それを使うのが珍しい、と思うこと自体おかしなことなのだが、それが珍しいという環境で仕事をしてきた誠二にとってはそう思わざるを得なかった。
ただ、生憎その件は誠二以外の人も同様の意見を抱えているのだった。
あの人は一番大事な日に必ず休む。特に、客先で品質トラブルが起きた日なんかは、絶対にいない。
裏で、浜田がそんな風に言われていることを誠二は知っていた。
ただそんな浜田でも誠二より評価は良いのだから、救えない限りである。
上司も、浜田の休み癖には手を焼いているようだ。時たま、浜田に向けてパワハラまがいの文句を言っているのも誠二はたまに耳にしていた。
ただ、そんな上司を以てしても浜田の休暇を認めざるを得ないのは、浜田がいつも身内の病気を盾に休暇を取得するからだった。
そもそも、自らが病気な時点で休みになるべきなのだが……生憎この国のコマーシャルでは、お笑い芸人が風邪を引いても仕事を休めないあなたへ、と解熱剤を勧めてくるのだから笑えない。
とにかく、家族の面倒を看るため、と休暇を取られると、上司もそれを拒否せざるを得なくなるのだそうだ。
仕事があるんだろう、と怒声をあげようものなら、今の時代では上司の首はあっさり飛ぶことになるから。
犯してはいけない最低ラインを、上司はよく理解していた。
その日、営業が度々浜田の席を尋ねてきていた。
下っ端の誠二はそれに応対させられ、そして浜田の設計した金型の部品が昨夜、客先で品質トラブルを起こしたことを知るのだった。
浜田の担当する客先は、大手家電メーカー。件の部品は、最近発売したばかりのHDに搭載されているそうだ。その部品は、HDの基盤とネジで取り付けられるようになっているそうだが、どうやらネジ穴の寸法が出ておらず、ネジ止めが出来ないらしい。
「これじゃあ、明日もあの人来るかわからねえな」
困っているような、困っていないような。営業は、軽いノリでそう言った。
完全なるクレーム案件。
しかも、量産開始したばかりの機種の。
これは、向こうの会社の上役からこちらの社長クラスにまで途端に話が行くことような内容に違いない。
そして、特急対応で修正指示をしろと言われるはず。そのまま修正し、寸法が直ったことを確認して、量産を開始していくことになるだろう。
幸い、ネジ穴の寸法を直すこと自体は難しい話じゃない。
ただ不幸なことに、そういう担当者浜田以外でも出来そうで急ぎな内容は……大体決まって、下っ端に降りてくるのだった。
「三浦ぁ!」
誠二は、上司に呼ばれた。
「シャキッと歩け。シャキッと。まだ寝てんじゃねえのかっ」
あんたよりも三時間も早く来ている社員に、それを言うか。と言いたくなったが、誠二は口をつぐんだ。
「まあいい。今日朝言ったよな。浜田が休みって」
「はい。そうですね」
「あいつ、品質トラブルを起こしてんだ。お前、あいつに日頃世話になってるだろ。助けてやれ」
「わかりました」
どうせ断れないのだから、誠二は頷いた。
「でもすいません。そっちをやった分、僕の手持ちの設計も遅れます。今日は客先に遅延していてクレームを言われている案件をしないといけないんですが、どっち優先ですか?」
「あぁっ!?」
口答えした誠二のことが、上司は気に食わなかったようだ。
「どっちもだよ。どっちもやれよ」
「時間的に無理です」
それは、数年この仕事をしていた誠二の皮算用。
「無理って言うんじゃねえ!」
上司は激怒して机を叩いた。
「なんでもなんでも出来ませんって。やるんだよ! 出来るまで!!!」
こうなれば、言うだけ無駄なのは目に見えていた。口論する時間も無駄。
誠二は上司の机の上の図面を手に取って、自席へと戻った。
そして、浜田の書いた図面を眺めた。
金型図面と部品の図面を見比べて、どうやら設計ミスをしているわけではないことに誠二は気付いた。
と、いう事は、加工現場が加工ミスをしているのだろう。
だから浜田は、自分は悪くない、と会社を休んだのだろう。
だったら正々堂々、加工ミスだって加工現場に怒鳴りこめばいいのに。それをしない時点で、同罪だ。
誠二は、加工現場に電話をかけた。聞けば、もう金型はばらしてあるそうだ。
が、加工ミスしているかどうかを知るための金型の測定をしている人は、今誰もいないそうだ。
そうなれば、測定をするのは誠二。
渋々、誠二は加工現場に金型の部品を受け取りに行った。三キロくらいはあろうか、金型の部品を受け取って、測定室へと向かった。
「へたくそな設計しやがって」
測定室に着き、図面を眺めながら測定を始めて、誠二はそう吐き捨てた。
設計には、上手い設計と下手な設計、というものが存在する。
無駄な部品を増やすような機構にしたり、加工精度を超えた寸法を要求したり、寸法を入れ始める場所を毎回変えていて目が滑るような書き方をしたり。
それが、下手な設計図面である。
何がダメかと言えば、それはまったく、自分の後に作業する人のことを考えられた設計になっていないのだ。
そしてまさしく、浜田の設計はその下手な設計に当てはまるのだった。
浜田は、自分は悪くないと思ったから会社を休んだのだろうが……。
下手な設計をしたからこそ。
加工をする人。測定をする人。部品を組み立てる人を鑑みない設計をしたからこそ、こうしてミスが起こったのだ。
これは、難航しそうだな。
誠二はスマホをいじって、先日教えてもらった美空の連絡先へと連絡を入れた。
『今日は帰れそうもありません』
まもなく、美空から返事が返ってきた。
『頑張って』
だそうだ。
少しだけやる気を出しつつ、誠二は測定を続けた。