第1狂・エルムルス___孤高の女医
新装版のタイトルは
[花言葉]と 本来のタイトルで参ります。
また、悲鳴が聞こえた。
安全性の理が約束された部屋。
暖かな夕焼け空のコントラストの空の下。
それに似合わぬ、絶えぬ断末魔。
オートロックシステム付きの
セキュリティマンションの住人は、
皆、小鳥の様に怯えては小刻みに震えていた。
それは何故か。
刃物を持った不審者が侵入し、
無差別殺傷事件が起きてしまった事に起因する。
____10分前の話である。
不運にもこの時間帯は
マンションには、退勤ラッシュが重なってしまった。
マンションの実態を知らないまま帰路に付いたサラリーマンやOL。
それだけではなく
買い物を済ませ帰路に付いた主婦や共に歩いていた幼子。
友人と遊び果てて、思い出の余韻に浸りながら、帰宅した子供達。
暖かな場所、それが、まさか断末魔の園になるなんて
誰が予想した事だろうか。
鳴り止まぬ悲鳴。待ち人が還らぬ絶望的な叫び。
通り魔に襲われた負傷者が次々と現れ倒れ伏せている。
現場の血の海と化し地獄絵図だった。
それでも、未動きが取れないのは、
マンション管理人からの警告____。
マンション在住者の連絡網により
『在宅者は部屋が出ないように』との約束から住人達は
動悸や目眩、恐怖心に苛まれながらも、その場所に留まっている。
そして瞳を閉じ、耳を塞ぎ蹲りながら
嵐が去るのをただ、ただ待ち続けていた。
(嗚呼、何処か、気持ち悪い)
“彼女”は、
物憂げな瞳と表情のまま、素早く髪を後ろへまとめる。
手入れの行き届いた、
さらさらのソフトブラックのストレートロング。
Tシャツの上に羽織ったシンプルなロングカーディガンと、
ジーンズ。
遠くで聞こえた悲鳴が、まるで
鼓膜を突き破るかの様なものに変わった時、
身を乗り出した。
悲鳴を聞いたのはつい先程だ。
スニーカーを履くと彼女は迷いなくドアを開けた。
この棟は静まり返り静寂と無慈悲な空気を辛辣に包んでいる。
殺風景な風景。
踊り場辺りで、薔薇を連想させる紅が
どんどん広がっているその真ん中にいる人物は仰向けに倒れている。
ゆっくりと近付きながら目を凝らす。
見知った顔。同じ棟に住む女子大学生だった。
彼女は血溜まりにも屈せず、駆け寄るとひざまづき、手首と首筋に触れた。
脈を確認する為だ。
こんな時にパルスオキシメーターや血圧計、
アンビューバッグがあればいいのに、と心の中で呟く。
「………私が分かりますか?
分かりましたら、指先を動かして下さい」
透明感のある、澄んだ声。
それは、優しいものだった。
握った指先の温かさがどんどん落ちていく。
しかし微かに動いた指先を彼女は見逃さなかった。
迷う事なく
自身が羽織っていたロングカーディガンを彼女巻き付け、
傷口に圧をかけると、彼女は呻き声を上げた。
彼女は変わらず、手首の脈を触れている。
呼吸が弱い。脈は早くなる。
一刻も早く、気道確保を、ルート確保せねば危うい状態だと
染み付いた感覚が警告する。
緊迫した状況で冷静にそう思い悟りを開いた。
しかし
救命道具も備えていない現状では限界を思い知らされる。
此処にいる以上、何も出来ない。
それでも彼女は冷静沈着で
微動ひとつせず、応急措置に当たっている。
負傷者の手首に己の手を当て、口許に耳を近付け瞳を閉ざす。
「呼吸は弱いがある。脈が弱い。意識レベル低下。
パンペリ (腹腔内出血) を起こしているかもしないな……」
トリアージをしたならば、
どのレベルに相当するのか、脳裏で考える。
一刻を争うのは、分かっている。
だがマンション内は混乱の波に巻き込まれ、救命なんて二の次。
己の身を守らなければならない事に、皆、切迫しているのだから。
だからこそ誰も、一瞬も目を背けず、
この景色から1秒も逃げられない。
彼女は、ペン型のライトで瞳孔を確認した所
瞳孔反射も時間を重ねる度にか弱くなっていた。
そんな中、ドタドタと忙しなく誰かが此方へ駆け寄ってくる足音。
「君、何をやっているんだ!!
早く部屋に入りなさい!!」
「…………はい?」
「マンション連絡網で連絡しただろう?
………は、犯人はまだ、このマンション内、い、いるんだぞ!!」
「そうですか。
では、犯人滞在と現在のこの現状に何の関係があると?」
威厳と履き違えた罵声。素っ気なく切り捨てた彼女に、
初老の男性はあんぐりと口を開け、呆気に取られて固まっている。
確かこのマンションは、
セキュリティマンションで安全性を
謳いながらもAEDがないのだ。
心肺蘇生法に切り替えた。
この火事場の底力で、どこまで持たせるか。
整えられたグレーヘアに質の良いシルクのパジャマ。
恐らく夕寝でもしていたのか。
彼は管理人の男性だ。
威勢を張る強がる言葉とは裏腹に
その脚は生まれたての小鹿の様に震えていた。
言動が似合わない上に今すぐに逃げてしまいたい、
その焦りから伺えるのは生きたい、生き延びたいという執着が見え見えだった。
(……生きる執着というものは、こういうもの?)
生きる力。感性、感情。
“彼女”には感性と感覚が零れ落ちたせいか、分からない。
「そう言えば……119番通報はされましたか。
もう時間は迫っているんです。一刻を争います」
「は………」
心肺蘇生をしながら、図星を突かれた。
管理人の男性は途端に顔面蒼白になり、
口をパクパクとだけさせている。
額には薄っすらと滲んだ汗に左右を彷徨い泳ぐ双眸。
通り魔の犯人の場所は掴めていない。
警察には通報したものの、
119番通報をするのはてっきり忘れていた。
まだ警察の到着はおろか、医療の糸すら繋いでいない。
(………本音は自身の保身で手一杯で、何も出来ていないのね)
酷薄だ。
冷たい人、見殺しにした管理人と言われたくないから
警察だけに通報した。其処で心の震えから何も出来なくなった。
(________呆れ果てた)
この管理人の容量はもうないのだ。
警察以外に取れる連携は何もない。救命も、応急救護すらも。
医療機関に声が届いていないから、まだ負傷者がいる筈で、
増えているのかも知れない。
心肺蘇生をし続ける彼女に、管理人は叫んだ。
「皆、在宅避難しているぞ!!
早く部屋に入れ。犯人は、まだ………」
「いいえ、入りません」
即答した彼女に管理人は顔面蒼白、愕然としている。
この住人は変わり者という事で有名だけれども、
その内面はミステリアスで掴めない。
通り魔の犯人の場所は掴めていない。
119番に連絡していない事を思い出した時、
自分自身の判断に避難されるのだと思い、
そんな事実を遠回しに聞かされて、抉られたようだった。
「………私は望んで部屋から出てきたんです。
ご心配なく。それより、ご自身の心情に忠実になられてはいかがかと」
熱のない全てを凍り付かせる様な、突き放す様な冷たい物言い。
凛として端正な顔立ち。その瞳に佇む冷気と薄幸な顔付きと
備わった雰囲気は儚く脆い。
「所詮、素人が……」
「素人、ですか………」
何処か溜息交じりに目を伏せながら、彼女は呟く。
しかし彼女の発言は、
管理人の心情を見透かし読み上げている様で全て合わせている。
まるでババ抜きのトランプカードの数字を合わせたかの様に。
「その前に、スマートフォンはありますか?」
「は?」
彼女は再び俯いた。変わらず物憂げな面持ち。
全てを見透かした様な双眸、溜め息の様な言葉の紡ぎ方。
だがこの切羽している空気の中でも冷静さを失わず
現実と向き合っている。
「一瀬循環器病メディカルセンターにご連絡頂けますか?
………私は、現役の医師です。
医師としての使命を果たしているだけです。
今すぐ、一瀬循環器病メディカルセンターに
ご連絡下さいませ。………御影透架、という名前で通じる筈です」
心肺蘇生をしながらも、彼女の意識レベルは低下が著しい。
先程より悪化している。一刻を争う中で止血、蘇生をしていると
管理人の悲鳴が聞こえた。
反射的に視線向けると、更に心が冷めた。
ぎらりと狂気を宿し光っている細身の少年。
幼い顔立ちとその見会わない威勢に
まだ未成年なのだと気付いた。
それを確信だと気付かせたのは、県内トップを誇るの私立学園の制服。
それにはべっとりと反り血の鮮血が、黒と混ざっている。
そして、鋭利な刃物を翳した____
刹那的に
脳裏にあの男の記憶が蘇った。
狂気と理性を失った獣が、狂乱し刃を向ける姿。
(………この子もそうか)
少年と“あの男”の姿が重なった刹那、
傍観者の視点と自身の記憶が交じり、現実から引き離された感覚に陥る。
少年は、虎の威を借る狐、そんな言葉が似合いそうだ。
ナイフを振りかざして威勢だけを張っているだけだと
見抜いた隙に無意識的に彼女は片端の口角を上げた後に、と
乾いた微笑みを浮かべた。
そして同時に
(あの子は、どんなに怖くて、痛かっただろう)
脳裏に蘇った記憶に、
あの幼い少女の姿が余儀って一瞬だけ動作が止まった。
間違え探し、しながら読んで下さると幸いです。