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真夜中の鏡

作者: 生田英作
掲載日:2020/11/23



 コチッ……コチッ……コチッ……



 時計が律儀に時を刻む音が響く。



 深夜二時。



 ネクタイを指先で解きながら、一体今日はどの辺から間違ったのだろう、と酒に濁った頭で少し考えてみた。

 少なくとも九時ごろまでは記憶があったように思う。

 だが、その後が曖昧だ。

 誰かと激論を交わし、何かに腹を立て悲憤慷慨し、誰かにいたく同情し……

 まあ、いい。

 明日は土曜日。

 朝は、ゆっくりと……と思った所で、俺は背後の時計に振り返る。

 そう。

 そうは言っても、時刻はすでに深夜の二時。

 明日は――と言いつつも、今がその『明日』なのだ。

 このままでは、その『明日』が『明後日』になりかねない。

 とっとと、寝よう。

 が、寝る前にせめて顔ぐらいは洗おうと俺は洗面台の前に立った。

 少し縁が欠けたステンレス製の鏡。

 薄暗い蛍光灯の明かりに照らされた青白い自分が鏡の中から見つめて来る。

 生気のない濁った眼と少しこけた頬。

 切り取られた額縁のような世界の中でくたびれ切った中年の男がひとり、申し訳なさそうに佇んでいた。

 四十数年見て来た顔だが、いつ見ても変わり映えしない。

 良くもないけど、悪くもない。

 まあ、誰しもそんなものだろう。

 外したネクタイをくるくると丸めて後ろに放り投げると蛇口をひねる。

 古びてどことなく黒ずんだ洗面台と濁った光を称えるステンレス製の蛇口。

 流れ落ちる心なしかぬるい水。

 陶製の洗面台の上を勢いよく水が跳ね、静まり返った部屋の中を水の渋く音だけが響いていた。

 本当に静かだ。

 全ての物が寝静まる丑三つ時。

 ぶーん……と唸る冷蔵庫の音と換気扇の羽根が奏でる微かな駆動音。

 いま、動いているのはこいつらの他には自分しかいない。

 全てが眠りにつく闇の世界。

 深夜二時。

 怖いほどに本当に静かだった。

 昼間暖められた水が出切って、ある程度冷たくなった所で、俺は勢いよく顔を洗う。

 しーん、と凍てつくような深夜の沈黙の中。

 べったりと張り付くような不快感が水の中へと洗い流されていく。

 排水溝に吸い込まれていく水の音。

 目を閉じると、俺は流れ落ちる水の中へ頭を差し伸べる。

 流れ落ちる水の音が支配する闇の中。

 俺は、暫し心地よい水の冷たさとささやかな孤独を楽しむと、顔を上げて濡れた顔と頭を乾いたタオルで拭う。

 と――

 目の前の鏡の中でもう一人の自分が顔と頭を拭っていた。

 相変わらず薄暗く、青白い顔色をした自分が、じっと鏡の中から俺の目を見つめて来る。

 一重まぶたの鳶色の瞳。

 顔をゆっくりと近づけると相手もゆっくりと近づいて来る。

 じーっ、と見つめる鏡の中。

 相手も「じーっ」と俺の顔を見つめている。

 俺そっくり。

 否、俺がもう一人。

 と――


「…………うん?」


 俺と鏡の中のそいつが一緒に首を捻る。

 いま、何と言うか……

 そう。

 おかしかったのだ。

 そう、何となくなのだが、

 もちろん、そんな事はあり得ないと分かっているのだが、



 鏡の中のそいつが、一瞬、瞬きをしたように見えた。



 無論、鏡の中の奴がそんな事を勝手にするはずがない。

 鏡に映っているのは自分なのだから。

 自分がしていない事をどうして鏡の中の奴がするのだ。


「ふむ……」


 鏡の中の自分もため息を吐く。

 どうやら、自分で思っている以上に俺は疲れているのかもしれない。

 俺は、鏡をあまり見ないように意識しつつ歯ブラシに手を伸ばす。

 だが、この手の物は意識しないようにすればするほど逆に気になるものである。

 奇妙なまでに静まり返った薄暗い鏡の中。

 左右真逆の世界の中に。

 左右真逆の洗面台の向こうにいるもう一人の自分。

 薄暗い鏡の中から俺を見返してくる男。

 一重まぶたの下の、



 目――



 開いた瞳孔。

 まるで何か意思を宿しているかのように。

 その目がただ、じー、ともの言いたげに俺を見返して来る。

 奇妙なまでの沈黙をその表情に秘めた、その――



 目……

 


 ふと、気が付くと腕の辺りに薄っすらと鳥肌が起っていた。

 ドクン、ドクンと自身の胸の鼓動が聞こえて来る。

 背筋に微かな寒気を覚えつつ、鏡の中の自分をちらちらと時折見つめながら恐る恐る俺は歯を磨く。

 額にじっとりと滲む冷たい汗。

 なんだか妙に大きく聞こえる時計の針の音。

 薄暗い洗面台とその後ろに無限に広がっているかのように見える俺の狭い六畳のアパートの闇の中には、いまただ一人、俺だけがいる。

 否――

 それは、鏡の中から歯ブラシを咥えたまま、じーっ、と俺を見つめて来る。

 微かに充血した目。

 井戸の底を見つめているかのような深い物問いたげな眼差し。

 ぼんやりと薄暗い光の中、今にも勝手に動き出すのではないか、そんな意思を秘めているかのように佇むもう一人の自分。

 その体を覆う薄暗い蛍光灯の光とその光の輪の外に広がる闇。

 背中に闇を背負った鏡の中の男は、俺の目をじっと見つめて離さない。

 じーっ、と刺すように見つめてくる。

 鏡の向こうの男の生々しい眼差し。

 その――



 目……

 


 それは、まるで――


(いやいやいやいや……)


 馬鹿らしい。

 鏡の中にいるのも、鏡の前にいるのも同じ自分。

 同じ一人の人間。

 そんなことがある訳がない。

 そうだ。

 鏡に映っているのは自分自身なのだから。

 その視線が生々しいのは当たり前だ。

 俺は、慌ただしく口を漱ぐと歯ブラシをコップに差して洗面台に戻す。




 コトンッ。




 コップを置くと驚くほどの、否、深夜だからこそだろうが、その音はいやに大きく響いた。

 じわじわと不気味な不安が喉をせり上がるようにして湧き上がって来る。

 背中一面に滲む冷たい汗。

 手と口をタオルで拭い……俺は、改めて薄暗い鏡の中を覗き込む。


(うん……)


 大丈夫。

 紛れもなく自分だ。

 自分の格好をした誰かではない。

 そう。


(そ、そりゃ、そうだ……)


 うん。

 そうだ、当たり前だ。

 鏡の中の俺も頷いた。

 相変わらず俺の目をまっすぐに見つめたまま、

 俺そっくりの一重まぶたの下の目で、じっと俺の顔を見据えたまま、

 そいつは、こっくりと頷いた。

 じっとりと絡みつくように、それでいて、まったく無機質に。

 じーっ、と見つめて来るもう一人の俺。

 背中に被さって来るように薄っすらと上半身が冷たくなり、胃の辺りがざわざわと蠢いた。

 俺は、握り締めたままのタオルで額を拭うと、そっと、鏡に向けて手を伸ばす。

 微かに震える俺の手。

 その手が、

 指先が、


 ゆっくり、


 ゆっくり、


 そう、

 ゆっくりと鏡の表面へと伸びて行き、鏡の向こう側からも俺の手に向かって手が、指がゆっくりと伸びて来る。

 そして――

 手が重なり合う瞬間、俺は軽く拳を握ると、



 コンコン――



 もう一度、



 コンコンッ――



 鏡をノックした。

 静まり返った洗面台。

 鏡を境に向かい合う二人の自分。

 重なり合う手。

 背中の筋肉が強張り、体中から冷たい汗が噴き出ていた。

 胸の鼓動が高鳴って喉の奥から心臓が出そうなほどに息が上がり、軽く握った筈の俺の拳は、いつしか固く握り締められていた。

 が――


(そ……そりゃ、そうか……)


 無論、何も起きなかった。

 相対する男が、俺の顔をじっと見つめながら鏡の向こうで胸を撫で下ろす。

 それでも、


(さすがに、気にし過ぎだな)


 俺は、ほっ、と小さな溜息を吐くと、鏡の下にあるスイッチへ手を伸ばし、



 パチンッ



 電気を消した。

 そして、布団のある六畳へ振り返ったその瞬間。

 背後で微かな気配とともに音がした。




 コンコン……コンコンッ……





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