その男の名は……
「……それで、私のところに来たという訳ですか」
王都のとある邸宅で……上等なベストに、洗いたてのシャツに、シワの少ないズボンという、上品な格好をした中年の男性がそう声を上げると、その前に立った青髪のメイドがこくりと頷く。
突然邸宅の窓からお邪魔しますと言いながら現れたメイド。
……以前ある場所で見たことのあるメイド。
そのメイドの恐ろしさを知っている中年の男性は薄くなり始めた黒髪を……以前とは違い、整髪用油でピッチリと固めた黒髪を撫で上げながら小さなため息を吐き出し、言葉を続ける。
「私はその……騎士団長というそれなりの名誉と責任のある仕事に就いているのですが……」
するとメイドは一瞬の間を置くことなく、さらりとした態度で騎士団長に……以前会った時はただの旅人を名乗っていた男に言葉を返す。
「もうそろそろ引退なさるのでしょう? 組織の長として貴方以上の適任をわたくしは知らないのです」
騎士団長とは肉体的にも精神的にも過酷な仕事である。
いざと言うときには戦争に出ることもあり……その最前線で何日も何十日も駆け回り続けることにもなる。
それ程の過酷さとなると、職務を全うするには若さという特別な資格が必要で……騎士団長はそれを今失いつつある立場で。
今までに溜め込んだ経験の全てを、団員達に継承したなら……メイドの言う通り引退するのが筋であり、その日はもうすぐそこまで近付いてきている。
「……引退後に、というのであれば……まぁ、そうですね、ありがたいお話なのでしょう。
あの辺りの長閑さと言いますか、良さも以前の旅の中で痛感しております。
……ですが、その、流石に王都からあちらに行くとなるとそう簡単な話ではなく、十分な報酬があったとしても、お受け出来るかどうかはなんとも……」
何度も何度も頭を撫で上げながら……メイドの姿をしたドラゴンに言葉を返していく騎士団長。
ドラゴンに言葉を返す。
それは胃が裏返ってしまうかと思うくらいに恐ろしいことで、言葉選びを間違えたなら即座に命を落としかねないことで。
目の前のドラゴンがそんなことをする横暴な存在ではないと分かってはいるのだが、それでもドラゴンはドラゴンで。
圧倒的強者の放つ気配と視線に震え上がりながらの騎士団長の言葉に対し……メイドはただただ冷静に淡々と言葉を放ってくる。
「奥様はもう亡くなられていて、ご子息は独立していて……ならば王都を離れても問題ないのでは?」
「それはまぁ……そうなのでしょうが……そうだとしても簡単な話では無いと言いますか……。
……この屋敷に愛着もありますし、特別な理由でもなければ離れたくはない訳でして……」
「ところであちらの祭壇は、何を祀ってらっしゃるので?」
胃が裏返りそうな中、懸命に吐き出した言葉をサラッと流して、そんな話題を振ってくるドラゴンに、騎士団長は目を丸くしながら、その祭壇についてを話し始める。
「ご存知かとは思いますが、あちらは風の精霊様を祀ったもので―――」
そんな言葉を枕に騎士団長は自分の家が代々信仰している風の精霊についてを語り始める。
世界を覆っていた淀みを払い、この世界に空気というものをもたらし、悪魔魔獣といった存在を斬り払った、創世の精霊達の一柱。
その鋭い風でもって悪と混沌に属する者達を斬り裂いたという伝承は、騎士達にとっては特別なものであり……自らもそうでありたいと思うものであり。
この国がまだまだ幼い頃から騎士として……剣を振るうものとして王家に仕えていた一族の末裔としては、その存在への信仰心は特別強いものとなっている。
貴重な白石で祭壇を作り、華美になりすぎない程度に宝石を飾り、季節の花々と清い水を捧げ、毎日祈りを捧げているその祭壇には、風に揺れる大きな布と、その布が掴む大剣と、その布がかぶる王冠のようなものを模した木像の姿があり……騎士団長が言うには、それこそが風の精霊の王なのだそうだ。
「……なるほど。
あれが風の精霊の王……ですか。
……ちなみにですが、もし仮に風の精霊の王からそうしろと言われたなら、それは特別な理由になりえますか?」
胡乱な表情で……いつになく冷たい目で、精霊の木像を見やりながらそう言うメイドに、騎士団長は、
「はぁ……まぁ、直接そう言われたなら……そうですね、引退後であればそのお言葉に従いたいと思いますが……」
と、深く考えもせずに、生返事に近い言葉を返してしまう。
するとメイドは「なるほど」とそう言って頷き……そうしてから領主から『精霊の王を呼ぶ合図が手を叩くだけとは、風情に欠けるのではないかね!?』と、そんなことを言われたことを気にしているのか、少しだけ大きく手を振り上げ、恭しくも見えなくもない仕草でもって手を叩く。
『やぁ、呼んだかい?』
するとすぐにメイドの手のひらの上に、緑色のリスが姿を見せる。
「こちらの騎士団長は貴方のことを信仰しているそうでして……貴方が顧問となる組織の長にどうかと思っているのですが、貴方としてはどう思いますか?」
一体それは何者なのだと騎士団長が唖然とする中、そんなことをメイドが口にして……騎士団長がその魂が消し飛ぶかと思う程に愕然としてしまっていると、緑色のリスが尻尾を可愛らしく振り、両手を広げてのポーズを取り、騎士団長に向かってのアピールをしてから声を上げてくる。
『へぇー! 僕を信仰してくれる人を長に選ぶとは! 氷竜にしては随分と気が利いたことをしてくれるね!
あっ、あっちの祭壇が信仰の場なのかな? ってあれ? もしかしてあの木像が僕なのかい?
へぇー、人間には僕ってああ見えるんだねぇ』
その木像は当然のごとく、風の精霊の王の姿を見て作ったものではなく、こんな姿なのだろうと想像した上で……風のように目に見えず、目に見えないからこそ布や剣や王冠でその存在を表してやろうとしたものであって、そのことを言うべきか言わざるべきか、愕然として大口を開け放った騎士団長は、ぐちゃぐちゃになった頭の中で懸命に思考しようとする。
だがしかし、目の前のリスの姿が……精一杯に可愛さをアピールしてくる風の精霊の王の姿が、あまりにも騎士団長の抱いていたイメージと違いすぎて……衝撃的過ぎて、騎士団長は考えをまとめることも、冷静になることも、言葉を発することさえ出来ないまま、硬直してしまう。
『んじゃぁまぁ、僕のためにもよろしくね……えぇっと、君の名前はなんて言うのかな?』
そんな状態で緑色のリスから……代々信仰する精霊の王から、そんな言葉をかけられることになった騎士団長は……考えを整理出来ないまま頷き、今ここで名乗ってしまったなら、その組織の長となることを了承したということになってしまうのだと承知した上で、
「ぐ、グスタフ・ヤーデと申します……」
と、そう名乗りを上げてしまうのだった。
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