悪夢
咆哮。
蒼炎を紙のように引き裂いた獣が、吹き付ける爆風と共に前脚を振り上げる。反応する間もなく衝撃が身体を襲い、俺は雪上に無様に転がった。獲物を引き倒したフューリーは、トドメを刺そうと牙を剥く。
「……ッ、ぐ……!」
突き刺さる牙。咄嗟に盾にした腕に深い穴が穿たれ、俺はあまりの苦痛と動揺で次の策を講じることができない。よくいる小型の……といってもケット・シーからすれば大きいが、簡単に炭にできるはずのフューリーだ。それなのにどうして。
短剣から吹き出した青い炎を思い出す。明らかに火力が足りていなかった────まさか。
この記憶の世界の中では、俺はあの頃のままなのか。無力で、何も成し遂げられない、愚かな子供のままなのか?
恐ろしい想像に身体が凍る。そして、捕食者はその隙を見逃したりはしない。無造作に顎に力が込められ、腕の骨が枯れ枝のような音を立てて砕かれる。もはや声も出ない。アルトの悲鳴が遠い。電流じみた激痛と、冗談のように血が吹き出すのを痙攣とともに見る他ない。ぼとりと俺の右腕が落ちるのと、おぞましい寒気が身体を覆うのはほぼ同時だった。血にまみれたそれは自分の一部だとは到底思えなかった。
力がないということはどういうことなのか、俺は知っている。振り払ったはずの傷が開くようなそれは、フューリーに裂かれる肉体よりも莫大な恐怖を蘇らせる。喘ぐような浅い呼吸は出血多量からくるものではない。思い出す。封じ込めたはずの血と傷、父親の土塊を見るような冷たい目─────こんなフューリーにさえも負けるのか。なり損ないの長耳もどき。失敗作にも程がある。エルドラドの永遠の汚点だ。お前が私に貢献できるとすれば、それはお前が死んだ時だけだ!
「あ……ぁ……」
竦んだ身体は抵抗の体すら保つことができない。フューリーのあかい目がこちらを睨む。忘れていた畏怖が俺の身体を縛り付ける。狩るものの瞳。
首筋に灼熱が走る。それが俺が感じた最後の感覚だった。
◇◇◇
目が覚めた。
質の高さを感じさせるものの、極限まで物が置かれていない部屋。窓の外、弱くなった雪の合間から見える街並みと城壁。ここは。
城塞都市イヴェルアにあるエルドラド家の屋敷……さらに言うなら自分の部屋だ。
「ぇ……あ……?」
未だに身体の震えが止まらない。死の記憶は間違いなく俺の身体を蝕んでいた。何が起こっているのか全く理解できない。先程俺は間違いなく死んだはず。ただ、これは夢の中なのだ。現実に死は訪れないのか。なぜ試練の始まりに戻っているのか。しかしそれ以上何も考えられない。妙にぼんやりする頭は苦痛だけをくっきりと認識し、それでいて指一本動かすことすらできやしない。俺はベッドに磔になったまま、震えることしかできなかった。
どれだけそうしていたのだろうか。部屋のドアが強めに叩かれる。
「エルラーン!もう、いつまで寝てるつもりなのー!」
刹那、時間が止まったかのように思考が停止した。
そうだ。「初めに戻った」なら、当然先程の光景は繰り返される。底知れない恐怖が足元から這い上がる。試練とは何を意味する?俺に何をさせるつもりなんだ?俺の記憶からこの夢を作ったのはなぜなのだ?
凍りついたまま動けないでいると、目の前の取っ手が回転する。少々乱暴に扉を開けたのは、もちろんアルトだった。
「もう……エルラーンったら起きてるじゃない……どうしたの?」
アルトをもう一度この目に映せる。それは震えるような歓喜と、凄まじい心の痛みを同時に伴うものだった。俺にはもう分からないのだ。スカーレットに捧げた大切な記憶。この夢は記憶から構成されているとはいうが、では記憶にない部分はどうなっているのだろうか。
アルトは本当に銀髪だったか?
本当に銀の瞳だったか?
こんな顔をしていたのか?
こんな声だったのか?
本当にこんなケット・シーだったのか?
アルトにもう一度会える。もう一度やり直せる。彼女を救えるのかもしれない。たとえ夢であったとしても。最初はそう思った。それはどれほどの喜びだっただろう。しかし、目の前のアルトが偽りでないとどうして言える。本当は俺はもう何も覚えていなくて、このアルトは全てシェラの作り出した偽りなのかもしれない。そう思うと怖くてどうしようもなかった。
「ちょっとエルラーン、大丈夫……?顔が真っ青だけど……」
「ぁ、」
全てを告白したい。
この恐怖を全て吐露したい。苦しみを吐き出したい。限界だ。こんなものを抱え込んで歩くなんてできない。したくない。しかしそうするわけにはいかない。俺は感情を気取られないよう目を伏せた。自分がどんな表情をしているのかなんて分からなかった。
「な、んでも、なんでもない……夢見が悪かっただけなんだ……」
「……そう?無理だけは絶対にしないでね!今日は雪原に行くんでしょ?体調がよくないなら……」
「いや、無理なんてしてないよ。大丈夫。起こしに来てくれてありがとう」
「本当に?それなら早く行った方がいいよ。ほら……お父様が帰ってきちゃう」
アルトは畏れるべき何かのように、その言葉をそっと付け加えた。俺も背筋が寒くなるのを感じる。レイモンド。俺にとっては父親というよりは、恐怖そのものだ。
「……ああ。行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
◇◇◇
アルトはきっと今回もついてくるのだろう。俺の氷力はあの頃に戻っている。フューリーを一匹倒すのにも傷だらけになっていた幼い頃。アルトを守りながら戦うのには、どう考えても無理がある。それでもそうしなければならないのだ。
それに、試練を達成する方法も考えなくてはならない。達成する方法の前に、そもそも「試練」が何を意味するのかも分かっていないのだ─────早く戻らなければ。三人に迷惑をかける訳にはいかない。
俺は不意に立ち止まる。確かにあの時、俺はフューリーを命からがら倒した。しかし、もう三回目なのだ。どんな姿をしているか、どんな動きをするか……予め分かっているなら取れる策はある。あのフューリーが潜む場所に熱源探知を飛ばす。
反応はない。
動揺に目を見開き、焦った俺は周囲を見回した。おかしい。前回も、そしてあの時も、フューリーはここにいたはず。最悪の想像が脳裏を過ぎる。始まりが同じだからといって、終わりまで同じとは限らない。現に、あの時俺はアルトを殺した。しかし前回はその前に俺が死んだ。結末は変わっている。つまり─────
雪原に遠く、悲鳴が響いた。




