孤独
時々、ふっと、自分の心の奥底から、得体の知れない何かが湧き上がってくるのを感じることがある。それは普段僕が食物を咀嚼したり、勉強したり、或いは友人といたり、家族といたりしている時には、体の中に引っ込んでしまっているのだが、狭い二段ベッドの下段でうずくまっている時とかに、ひょいとその顔を見せる。それは唾液のように甘く、胃酸のように酸っぱく、胆汁のように苦い。
快楽を伴う吐き気。
そして寒さ。
熱に浮かされたようで、氷水を浴びせられたような。
背筋が凍り尽き、息が灼け尽くような悪感。
それらは大抵、僕が独りきりでいる時に生まれるものだから、とりあえず、僕はこれが孤独というものなのかと納得することにした。
吐いた息が白く色づく。それは、外界の気温と体温とで温度差が生じているということだ。それは、僕の友人達との関係によく似ている。僕とその友人達との間には、外界と体内との間にあるような境界線が確かに存在する。友人達が熱を持っていることに、僕は熱を持っていない。僕が熱を持っていることに、友人達は熱を持っていない。まさしく温度差である。
………境界線がある、と僕は言ったが、これは平行線であるとも言える。僕と友人達はそれぞれ平行線上にいて、決して交わることがない。或いは、交わろうとしていないのかもしれない。僕は恐らく、他者と同一になりたくないのだろう。他者と同一になることで、僕自身の、存在するかどうかもあやふやな、個性とでも言うべきものが掠れて、消えて、無くなってしまうのが嫌なのだろう。しかし僕は他者と交わりたいとも思っている。個性というものを捨て、他者と合一する。いわば神秘主義的な思想が体内に残留しているのを感じるのだ。だからこそ、僕は境界線を引き、平行線上に立っているのかもしれない。交点を作ることを恐れ、しかし、他人とまったく交わらないことを怖れ、境界線越しに接し、平行という関係を保ち、温度差を作っている。
この状態こそが孤独とでも言うのかもしれない。
独りでいたいが、一人は嫌だ。そんな面倒な心理を実現するために、僕は孤独を選んだ。
僕が一番恐怖を感じるのは、孤独を得られない時なのだと、ふと思った。教室で独りで昼食を摂っている時でも、自室の二段ベッドでうずくまっている時でもない。それは、多数がいる中での独りであり、一人ではない。それは孤独であり、僕を恐怖させるには至らない。
孤独を得られない時。
例えば夜一人で帰路を急ぐ時。
夜の暗さと、風の冷たさが僕の甘美な孤独を吹き飛ばし、奪い去り、僕の心を月明かりに晒し出す時、僕は一人であることを肌で感じ、ただただ震える。それが冬の寒さによるものなのか、はたまた、恐怖によるものなのかは分からないのだが。
そして僕は、その一人でいる状態が寂寥なのだと諒解した。
独りと一人。
孤独と寂寥。
それらの差異はなんだろう。
孤独という悪感を僕が受け入れ、寂寥という寒さを僕が恐怖する理由。それはやはり、他者との触れ合いという点なのだろう。
寂寥は、ただ寒く、苦しいが。
孤独は、冷たくて、暖かい。
それは僕の自傷癖にも関連している。指を噛む。唇の皮を剥がす。ナイフで傷を抉る。それらの行為は僕に激しい痛みを刻み込むが、同時に快楽と血の温もりを与えてくれる。自傷癖を持つ僕が孤独に浸るのも可笑しいことではない。孤独は僕に凍傷と安心をくれる。自傷と孤独には流血の有無という違いはあるが、どちらも僕に安らぎをくれる。寂寥にはそれがない。
だから僕は独り法師でいることが好きなのだろう。だから僕は、他者と空間を共有するのが好きなのだろう。
孤独は美しく、綺麗なものである。
僕は孤独だ。
僕は孤独だ。
僕は孤独だ。
それは、何処にいても、誰といても、いつになっても――――きっと、変わることは、ないんだろう。
11/29(金)著 12/1(日)投稿