プロローグ 幼き日
砂利の敷き詰められた地面を楽し気に踏み鳴らす同い年の女の子。
綺麗な黒い長髪を舞わせながら、一歩二歩と俺から遠ざかっていくと突然くるりと振り返った。
「ねぇ、クロヤ」
「どうしたヒイラギ」
聞き返すと、女の子――ヒイラギは、笑みを浮かべ後ろで手を組む。
「今から二人で町に行かない?」
何を言うかと思えばまたそんな事を……。
「お前は自分の立場を分かってるのか? 絶対に許されるわけ無い」
ヒイラギはこの国では少しどころかだいぶ位の高い家の跡取りだ。どれくらい高いかって国の長、天皇の次くらいに高い。ましてや俺達はまだまだ元服すらしてないただの子供。ヒイラギの家を護衛する一門にすぎない俺はともかく、ヒイラギがおめおめと町に出させてもらえるわけがない。
「だってここ退屈なんだもん」
むすっと口を尖らせヒイラギはその場でしゃがみ込む。
前を見渡してみれば庭園。灯篭や大きな池、綺麗に整備された松や桜の木が目に入る。後ろの屋敷もなかなか豪奢な佇まいをしているが、この敷地内にはもっと煌びやかな建物も並んでいる。
「別に綺麗な場所だと思うけどな」
「綺麗なだけでつまんないもん」
「そういうものなのか」
まぁでも確かにそうか。
俺もこの御所には度々通っている。一番最初にここに来た時は感動したけど今は別に綺麗と思っても感動まではしない。ましてやヒイラギはずっとここに住んでいるわけだから感動なんてこれっぽっちもないだろう。退屈になってくるのも無理ないか……。
こういう時俺が洒落の一つでも言えればヒイラギを楽しませることができるんだろうけど、生憎俺はその手の能力が乏しいらしい。親父にもお前は剣の腕は確かだが少し面白みにかけるとよく言われるしな。
今度来るときは一芸でも携えてみた方がいいのかと考えていると、ふとヒイラギが立ち上がった。
「そうだ!」
どうやら何か思いついたらしい。
ヒイラギは顔をパッと輝かせると、こちらへと駆け寄って来る。
「私たちだけでこっそり抜け出そうよ!」
「は?」
今こいつなんて言った?
「門には見張りがいるけど、あの灯篭から塀を越えれば大丈夫じゃないかな?」
ヒイラギが指さす先には確かにいい感じに登れそうな灯篭と塀があった。
「いやちょっと待て、そんな事したら」
「あ、でもこの服だとちょっと目立っちゃうかな……」
ヒイラギは白と赤の装束をパタパタさせると「ちょっと待ってね」と背後の屋敷の方へと入っていく。
まるで俺の話なんて聞く気が無いなあいつ。
しばらくその場で待っていると、やがて装いを新たにしたヒイラギが姿を現す。
「じゃじゃーん、町の女の子変装一式!」
ヒイラギが身に着けていたのは蝶の柄が施された浴衣だった。柄こそ様々ではあるものの、町の女の子はよくこの姿で手毬をついて遊んたりしている。
「どうかな?」
ヒイラギが袖をひらりひらりとさせる。
「まぁ確かにそこらへんによくいる感じだな」
答えるが、何故かヒイラギはむっと不満げに頬を膨らませた。
「……なんだよ」
「別にー? クロヤはほんと乙女心がわかってないな~」
「なんだそりゃ」
今若干小馬鹿にされた気がする。
胸の内がほんの少しもやっとするが、ヒイラギはお構いなく口を開く。
「まぁ今回はよしとして、早く行こうよ」
言われて思い出す。
そう言えば町に行くとか行ってたな。
「駄目だ」
きちんと言い切ると、案の定ヒイラギ不服そうに眉をひそめる。
「えぇ~、どうして?」
「それはお前、こんな事バレたら滅茶苦茶怒られるじゃないか」
「それはバレなければ問題なしっ」
ヒイラギは即答すると、くるりと黒い長髪を翻し俺に背を向ける。
いやそれ罪人の思考なんですけど……。
呆れかえるが、ここは護衛としてしっかり止めないといけないところだろう。
「じゃああれだ、外は人さらいとか人斬りとかたちの悪い連中もいる。お前をそんな危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「ここは一応都だよ? 私はそこまで治安が悪いとは思えないなー」
「まぁ確かに他の町よりは警備はしっかりしてるけどさ……」
それでも万が一、なんてこともある。ヒイラギにもしもの事があったらと思うとおいそれと外へ、ましてや俺達だけで出るのはよろしくないだろう。
さてどうやって止めるか……。そんなに行きたいなら一人で行けとか言っても本当に行きそうだよな。
「それにほら、もしもそんな悪い人達にあってもね」
頭を悩ませていると、不意にヒイラギが口を開く。
何を言うつもりかと次の言葉を待っていると、ヒイラギは軽やかな足取りでこちらに向き直った。
「きっとクロヤが守ってくれるでしょ?」
こちらに向けられた顔に浮かべられていたのは屈託のない笑みだった。
そんなに俺を信用してくれてるのか、こいつは。ヒイラギは家柄上、普段から色々としないといけない事が多い。今は偶然時間が空いているが、たまの休息くらい楽しい時間を過ごさせてあげたい気持ちはある。
「……はぁ、ちょっとだけだぞ」
「やった! まぁクロヤが駄目って言っても一人で行ったけどね」
本当にそんな事考えてたんだこの子……。
そうと決まれば今すぐ行こうとヒイラギが言うので、俺達はどうにかして塀をよじ登ると、敷地の外へと身を投じる。
「町は人も多い。くれぐれもはぐれるなよ」
「分かった。じゃあ……」
そう言って差し出されたのは手だった。
「これはなんだ?」
「手つないでたら絶対はぐれないかなって思って」
「なるほど」
まぁ確かに納得はするが、手をつなぐってなんだかな……。
気恥ずかしさが先行しその手を握れないでいると、しびれを切らしたかヒイラギが一歩近づいてきた。
「えいっ」
掛け声とともに、前に出せなかった手がヒイラギの手によって引き寄せられる。
「えへへ、それじゃ行こっか」
ほんのり頬を朱に染めたヒイラギがはにかむと、俺の手を握ったまま歩き出す。
生まれてこの方親父の手か剣くらいしか握った事が無かったけど、女の子の手はこんなにも柔らかく暖かいものなのか。
半歩遅れつつもヒイラギの後に続くと、俺達は町へと繰り出すのだった。
それから数年の月日が流れた今。
俺の掌の中に彼女のぬくもりはもう無い。