発散堂の夜
携帯に「馬鹿野郎」とググってみる。
第1相談者
新宿百人町の雑居ビル。今夜も『発散堂』店主の御手洗幸一は、ウクレレをポロンとかき鳴らしながら、夕刊スポーツ紙を広げて地方競馬の本命馬と伏兵馬を鼻歌交じりに探している。冬も間近だというのに長袖のTシャツの上からアロハを羽織り、八分丈の麻のズボンに雪駄という格好は昭和の任侠映画のチンピラそのものを連想させた。
ふいに銭形平次の着メロが鳴りだす。
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます! ハッサン24、24時間受付中です!」御手洗の声はルパン三世のように軽妙で、小気味いい。
「あ、これはこれは祐希様、いつもご利用ありがとうございますー。ええ、ええ、なるほどー、それではいつものコースで、はい、五寸釘を? 二四本? 承知いたしました。一時間で参りますので、はい、例の場所。わかりました」御手洗は電話を切る。
「早乙女ちゃーん、仕事に出るわ。俺の仕事着用意して」御手洗が叫ぶ。
「はーい」バイトの早乙女菜月は腹筋ワンダーコアをやめて、クローゼットから青いオーバーオールの作業着をとりだした。菜月は忍術修業を会得して新宿に流れ着いて5年。今年で25歳になる。その鍛え抜かれたスタイルと美貌はまさに峰不二子のようであった。
*
「そうは言われましても、私が長男でして母も他界していましたので喪主にならざるを得なかったわけでして」
松崎和也は精いっぱい謝罪を込めて言葉を振り絞った。
「ですけどね、時期が時期でしょ、先生。11月27日から5日間休職された神経が私にはわかりかねますの。公務員の考え方っていうのですかね、子供たちの進路が決まるこの大事な1週間にプライベートを優先してお休みなさる?民間の会社ならクビじゃないかしら。」竹川雄吾の母親は皮肉いっぱいに聞いた事のあるような公務員バッシングをここぞとばかりにまくしたてる。
「ですから、雄吾君の進路につきましては、学年進路指導の佐藤先生に全面的に引き継いでいただきましたので・・・」和也は少しでも怒りを静めるのに防戦一方であった。
「あのねえ、ウチの子の性格や内申も担任のあなたが責任もって進路指導をするのが当たり前でしょ、佐藤先生はウチの子が漢検2級を持っているのを忘れて、併願の大山学園特進の内定が取れなかったんですよ、内申1つの差で。」雄吾の母が直球を投げてくる。
「ははあ、本当に申し訳ないことをしました、大山学園についてはこれから再度お願いに上がるつもりですので」和也はどうにかしてなだめるしかなかった。
「先生、社会科ですから、『鉄道員』ぐらいは読んでいらっしゃいますよね。」
「はあ、依田次郎の・・・」
「なにが言いたいかわかりますわよね」
「・・・鉄道員として仕事を全うする高倉健が家族の死にも行かず駅舎を守る、たしかそんな・・・」
「そうよ。酷かもしれませんが、先生のお父様と子供たち150人の進路どちらが重いのかしらね」和也はカチーンときたが、ぐっとこらえた。
この後もジャブ、フック、カウンターといろんな攻撃を受けたがもう和也は覚えていなかった。まともに受けたらKO負けだ。心の中で「公の僕」「公の僕」と念じて時が過ぎるのを待った。
*
教師にとってこの時期は、猫の手も借りたいくらいの忙しさだ。授業を終えると、委員会や生徒会の指導そして研修会の打ち合わせなどを行う。それが終われば今度はテストや提出物の丸つけを行う。ちょっとでも不公平がないように厳正に見なくてはならない。そしてそれが終われば、内申とは別の観点別評価を、提出物の状況・授業態度・テストの得点などを鑑みて1人1人公正につけていく。次の日の授業準備などを合わせると帰宅は深夜になることも多かった。土日は部活の顧問があるのでしっかりと休めるのは月に1,2回あればいい方だ。加えて、今回の父の死去。認知症がすすんでもう5年も寝たきりだったから覚悟や準備はできていたが、さすがにこの時期に葬儀になるとは想定していなかった。
*
部活の始まる3時過ぎには、最近、他中学の不良たちが校門でたむろしている。和也の学年の不良グループと仲がいいのだ。バイク数台と自転車数台でやってきては煙草も堂々とふかしている。警察にはなんども要請したがイタチごっこだった。教師たちも見て見ぬふりをするものもいたが、和也は年齢的にも体格的にも一番若く、連中を蹴散らす役割に自然となっていた。(しかたない、今日も出番か)と和也は重い気持ちで校門に向かった。
「おい、この学校の女子たちが怖がっているんだ、ここではたむろしないでくれ」和也は言った。
「聞こえましぇーん、あんたいつもうざいんだよね」茶髪の少年が反応した。
「だから、ここには来ないでくれ、みんな怖がるだろう!」和也は繰り返した。
「ボクちゃんたちはやさしーお兄さんでチュー」他の少年が茶化したように言う。
「まあ、警察も来るから早く帰りなさい、捕まるぞ」
「はあ?なにも悪いことしてましぇーん、そんなこというなら先生を轢いちゃおうかな」
角刈りの自転車に乗ったヤツが、和也の方にむかってきた。手を出したら終りだ。傷害でこっちが悪くなる。しかし今日の和也は進路相談のストレスもありムシャクシャしていた。
轢こうとしてきた少年の自転車の籠をめがけてストレートキックをお見舞いした。
「あー社会人が少年に手を出した!知―らね!暴力、暴力!」
(しまった、)と思ったがもうどうでもよかった。相手を殴ったわけでもなく籠を蹴っただけだ。勝手に訴えろ!
*
警察はあとからやってきた。(おかしいな、今日は通報していないけど)和也は思ったが不良連中は雲散霧消に去っていった。まずは一仕事終えた感じで安心した。
ところが警察が職員室に来て事情は一転した、不良連中が携帯で警察に先ほどの被害を報告したらしい。
「先生、ご事情痛いほどお察ししますが、なにぶん少年から被害届が出ておりますので、事情を伺いに参りました」警官の1人が言った。
「もしかして先生、少年の自転車に手を出しませんでしたか?」
「はいはい、足を出しました」和也はうんざりとした声で質問を認めた。
*
さつき台警察署に連行されたのは、夕方5時だった。運ばれるパトカーの中で、和也は、ぼうっと国道沿いの街並みを眺めていた。口は一切閉ざしたままだ。警察も和也の犯行に同情があるのか、3人の警官も沈黙したまま重苦しい空気が流れていた。
余計な言い訳などいらない、和也は訊かれたことだけに淡々と答えた。住所、氏名はもちろん学歴、役職などなど。暴行の経緯を話し終わると、今度は写真撮影だった。あらゆる角度から写真を撮られる。本当に犯罪者になってしまったことに和也はうんざりしていた。
「まあこういうご時世、なかなか子供たちも、したたかでして、向こうからは、なかなか手を出してきません。捕まるのを知ってますから。先生も正義感でやったこと、ご苦労なことも多いと思います」と事情聴取をした刑事は和也に同情してくれた。
「先生は前科もないですし、相手もおそらくこのまま引き下がるでしょう、不起訴処分になると思われますので、どうか先生、これからもひるむことなく、こうした連中が来たらぜひ私たちを呼んでください」刑事は丁重に対応してくれた。和也はそれでも笑顔一つ出さずうんざりした表情を変えなかった。
「つきましては先生、ここから帰られる時は身内の方に迎えに来てもらうのが原則となっておりまして・・・」刑事はやっと和也を解放してくれるようだった。時間はもう夜8時を回っていた。たまっている仕事の多さを考えるとうんざりだった。
「ご家族がいらしたようなのでご連絡を差し上げて・・・」
「ちょっと待った、自分で帰れますよ、何で妻なんかに迎えに来てもらわなくてはならないんですか」和也は意気込んで訊いた。
「実はもう下で奥様がお待ちになっております」刑事は言った。
夜は8時になっていた。
*
このあとの妻の態度に和也は心の何かが壊れるのを感じた。
下の階のベンチにフードをかぶってイヤホンを聞きながら寝た振りでもしているような妻の美咲がいた。
「勘弁してよ、何したか、知らないけどあたしも明日仕事なのはわかってるでしょう?」
面倒くさそうに言った美咲の一言。イヤホンも外さず視線も合わせようとしない。
「すぐにあと先も考えずに行動するあなた、私昔からそういうところ大嫌いなのよねー」
美咲は気だるい欠伸をわざとするように車の運転席に乗り込んだ。
車の中で重苦しい空気が流れた。
「あのさ、夫は正義感を持って体張って仕事してるわけ。確かに警察には世話になったけど、夫の体は大丈夫か、とか、どうしてこんなことになったの?とか聞く気もないわけ?」
和也は、たまらない気持ちで美咲に訊いた。
「悪いけど、あなたはあなたで仕事を頑張っているのはわかる。だけどそれは私も同じ。迷惑だわ。あなたには私の自由時間を邪魔する権利はないはずよ。自分のことは自分で面倒見てほしいわ。子供じゃないんだから。お葬式もあって疲れてんのよ」美咲は眠そうな声でハンドルを切りながら言った。
「悪い、ここで降ろしてくれ。歩いて帰る」和也は言った。
「あっそう、どうぞご勝手に」美咲が答える。
和也のはらわたは煮えくり返っていた。どうしてこんなにも非情な妻と結婚したのだろう。自分が決めた結婚相手だから自分が悪いのはわかる。それにしたってこんな冷たい仕打ちを受ける筋合いはない。もはや夫婦に愛情のかけらも感じなかった。
*
コンビニに寄った。缶のハイボールを買った。プシュッとプルタブを引き、一気にアルコールを流し込んだ。ウィスキーの苦みと炭酸がスッとのどを駆け抜けていく。
疲れていた。コンビニの外にしゃがみこんで「馬鹿野郎」と呟いてみる。意外と気持ちよかった。でも怪しく思われると思いスマホを取り出し、音声検索を押してみる。マイクの画面にむかって
「馬鹿野郎!」とつぶやいた。
検索した画面には『馬鹿野郎の意味とは』などが表示される。馬鹿らしくなった。
しかし、一点気になる文字が目に入った。
『発散堂』
和也は気になってサイトを開いてみた。
「あなたのいらいら、解決します!」「ボロボロになったあなた!今すぐコール」
○即日お伺いして貴殿のイライラを解消して見せます!
○お話を伺い、貴殿に合わせたストレス発散を提案させていただきます!
○暴力・反社会的行為はできませんのでご了承ください。
○明朗会計! スタッフ1名につき1回1万円から+交通費
○深夜も営業! 午後8時から午前5時まで
CALL US 090ー51××―09××
画面のわきにはいかがわしい広告や金融広告が載っていたが、なぜだか興味をそそられた。
写真には瓦割りをしている女性が何やら叫んでいる姿が映っている。
(ああ、こういう発散ね)和也はなんとなくイメージがつかめた。
(悪い会社ではなさそうだ、電話は無料と書いてあるし、愚痴をこぼすつもりでかけてみるか・・・)
*
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます!ハッサン24、24時間受付中です!」
和也はルパン三世のような声に少しイラッときたが、単刀直入に訊いてみた。
「あのー、人気のある発散はなんですか?」和也は訊いた。
「えー、まちまちですね。お客様のご要望に応じてできる限りのことは差し上げていただきますが、今人気なのは新宿××ビルの屋上で巨大スピーカー叫び15分ですかね。お値段もお手頃ですし。」
「いくら?」
「1名で済みますので1万円です。」
「ここまで来てくれるんですか?」
「もちろん。交通費は頂きますが、今夜中にはお届けにあがります。よろしければ相談内容をお話し下さい、秘密は厳守しますから」
和也は今日起きた保護者面談のこと、不良グループのこと、妻の冷淡な態度、教師業務の忙しさ、父親の死、などざっくりと話をした。
「お客様、それは大変でございましょう。ぜひすっきりしていただきたいものです」
「でも瓦割りとか屋上で叫んですっきりするの?」
「そういう方もいますが、もっと派手に、というのであればさまざまにご提案差し上げます」
「たとえば?」
「お客様、趣味や特技はありますか?」
「うーん、読書、あ、むかしギターやってましたよ、エレキ」
「え!それはいい情報です。何をコピーしていましたか?」
「レッド・ツェッペリンとかー、ディープパープルなんかかな」
「お客様!もう提案ができますよ、それもとびきりいい作戦です!」
和也はいつの間にか発散堂からの提案に夢中になって飛びついた。
*
「では松崎様、お伺いする時間は午前2時、マンション××の下にワゴン車で迎いますので、よろしくお願いしますね。なお、発散後の対応、処置、謝罪は当社では全く関知いたしませんのでそれだけはその場でご了承のサインをいただきます。ありがとうございます。」
*
妻そして義父はぐっすり就寝している。
ワゴン車はぴったり2時10分前にやってきた。スタッフは1名。青いつなぎの作業服を着た小柄なオッサン、御手洗だった。
「松崎様ですか、お待たせいたしました。本日はよろしくお願いします。早速ですがお電話で確認した発散後の自己責任同意書にサインをお願いします。」御手洗は明るくしかし小さい声で紙を差し出した。近所迷惑にならないためだ。
和也の部屋には久々に押入れからサンスイのプリメインアンプとCDプレーヤーをコードで繋いで音が出るようにした。そしてギブソンのレスポールギター。マーシャルのギターアンプは発散堂からの無料サービスだ。
決行は2時30分。弾く曲はレッドツェッペリンのRock、n Roll 御手洗が曲の再生ボタンを押すのだ。この曲だけはいまでもジミー・ペイジを完璧に再現できる、和也には自信があった。
ボリュームは10! マーシャルのボリュームもフル!
さん・にー・いち・・・御手洗の合図。
ツタンタン・タンタンツタン・ツンツンタタンタ・タタタタタタタ
大きな振動で食器棚のグラスが倒れる、壁の額縁が落っこちて・・・
寝室から飛び出した美咲と義父の顔!耳をふさぎつつ何かを叫んでいる。
和也は弾きながら叫んだ。「馬鹿野郎!」「×ァッキュー」「みんな死んじまえ!」
「みんな自分のことばっかり考えやがって!」
御手洗は微笑みながら頷いてみせた。本日1件目、1万2500円なり。
第2相談者
ニッパチは商売あがったり、とはよく言うが、ここ『発散堂』はかえって景気が良くなる。2月、8月はそれだけストレスが溜まっている客が増えるのだ。新宿百人町の雑居ビルにある発散堂の店主、御手洗幸一は相変わらず競馬紙とにらめっこしながら、赤鉛筆で紙面にチェックを入れている。8月ももう終わろうとしている。
ふいに銭形平次の着メロが鳴りだす。
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます! ハッサン24、24時間受付中です!」御手洗の声はルパン三世のように軽妙で、小気味いい。
「はい、これはこれは麗奈さま。ご無沙汰しております。ええ、ええ、なーるほど、
あの時のホストでござんすね。懲りてない? それはお困りでしょう。はい、わかっております秘密厳守ですから。ええ、ええ、ではまた早乙女を派遣しますので」
ここ発散堂は御手洗だけではない。早乙女菜月をはじめ、いざという時のスタッフは常時5人ほど集めることができた。今回のようなキャバ嬢がホストに嫉妬するパターンはもう菜月で十分対応することができるのだ。菜月がホストを口説いて外に連れ出せば、色んな修羅場を味わせることができるのだ。
*
「もう私たちの関係も7年になるのね、伸治」東原優香はバーカウンターの先にあるウィスキーの瓶を遠目で眺めながら感慨深げに話題を変えてきた。
「7年じゃないよ、8年、いや高校時代も含めれば10年だろ」近藤伸治はその辺りの数字にはうるさかった。2人は今年で27歳だ。
「あらためて10年に乾杯!」優香はシーバスリーガル12年をダブルで呷った。伸治はモヒートのミントをマドラーでこねくり回して「・・・乾杯」と言った。
「じつはね・・・」優香がため息交じりで口火を切った。
*
二人は新潟の一緒の高校で、受験を機に上京したが、偶然にも同じ大学、同じ学部に合格した。それがきっかけで二人は交際にこそ発展しなかったがお互いに助け合う友人になっていた。正確にいえば、伸治にとって優香は高校時代からの憧れでもあり「好きな人」と意識していたのだが、優香にその気がないのはわかっていたし告白する勇気もなかった。
優香は自由奔放だった。大学に入ってすぐ彼氏ができた。
「伸治、あたしにも彼氏ができたよ、今度紹介するから3人で食事しよう」たしかそんなふうに紹介されて、伸治も断る理由がなかった。軟弱な性格なのである。逆に「まじで?おめでとう!」などと心にもないことをいってあとで落ち込んでいた。
優香の彼氏は上場企業の御曹司で何もかもが伸治にはかなわなかった。身長は180センチ、二ツ橋大学、ルックスは仮面ライダーのヒーロー役に似ている。車も持っていたし、伊豆に別荘もあった。
*
食事会の日が来た。「こちらが私の彼氏、小笠原亨さん、二ツ橋大学の3年生よ。ボートクラブに入っているの、いまは国家公務員に向けて勉強中よ」優香は幸せそうに話す。
「亨さん、こちらはわたしの親友、近藤伸治くん。新潟の時からの同級生。偶然でしょ?東京に来て一緒の大学だったの。なんでも相談に乗ってくれるし助けてもらっているの。
サークルは・・・なんだっけ?」優香は相変わらずの天然ぶりだ。
「軽音楽サークル・サウンドアースだよ」伸治は仕方なくこたえる。
「そうそう、クラシックギターが得意なの、あと料理、洗濯、家事全般・・・」
「伸治クンは何でもできるんだなあ、うらやましい」と亨が爽やかに言った。
「そうなの、私が風邪で寝込んだりした時には、部屋に来て家事全部やってくれたわ、最高の友人!」優香も自慢げに伸治を褒め称えた。
「そうだ、伸治君も伊豆の別荘に行こうよ、太平洋見たくない?左から太陽が出て、右に太陽が沈むのよ、雪の日本海とは大違い、ね、行こ、行こ!」優香は残酷だ。
「さすがに、二人の邪魔をするわけにはいかないよ、思いっきり楽しんでお土産でも買ってきて」伸治は笑顔をひきつらせて答えるのが精いっぱいだった。
「伸治はね、彼女いない歴18年なの。亨さん、大学にいい娘いたら伸治に紹介してよ」優香は臆面もなく亨の方を見て言った。余計な御世話だ。
「そうだね、伸治君にも彼女ができれば、4人で伊豆に行けるしな。楽しいだろうな」と亨も乗る気だった。
*
優香の恋は案外早く終わった。亨がお役人になって海外へ行ってしまい、優香も来るか来ないかで悩んでいるさなか、亨も複数の女性と交際するようになった。発覚するたびに、泣く泣く優香は伸治の部屋に訪ねてきて、伸治が慰めるのである。
「伸治は、いつも優しいね、最高の親友だよ。これからも一緒だからね」優香は嗚咽交じりに伸治の胸で泣いた。
「俺じゃだめなのかな、彼氏にはなれないの?」抱擁の最中、ついに伸治は意を決して訊いてみた。
「伸治は、私に優しすぎるもん。こんなやさしい伸治が恋人になって、また別れる、なんてことになったら永遠の親友を失っちゃうよ・・・」優香は言葉を振り絞って言った。
伸治は黙り込んで抱擁を続けた。もうそれ以上は望まなかった。
*
大学を出ると伸治は住宅建築の会社に就職した。西多摩地区の支店で営業職になった。
仕事は営業とあって簡単ではないし、ソーラー発電や電力自由化も始まって、それなりに忙しかった。
優香は父親のコネもあって、東京で郵便局に就職した。郵便局と言っても今は民営化されて、金融商品や保険など仕事は幅広く、たくさんのことを身につけなければならなかった。ただ、条件があって、結婚したら新潟に戻るという父親との約束があった。
二人は就職してからも仲良しだった。月に1度は食事をして飲みに行き、お互いの近況を話したり、映画や遊園地にも行った。しかし、あくまでも友達として一線を越えることはなかった。
*
モヒートのミントの葉を底に沈めて、伸治は訊いた。
「なにかあったんだろ?」恋バナなのは伸治にはもうわかっている。
「じつはね、好きな人ができちゃった」優香がため息と煙草の煙を同時に吐いた。
「ほう、良かったじゃん。付き合ってんの?」
「好きになっちゃいけない人・・・」
「・・・不倫か」伸治は手を頭にやって抱え込んだ。
「職場でつい優しくされちゃって、あたし寂しかったから」優香は伸治のことは頭にない。
「いくつ?」
「31歳でね、去年結婚してこの前赤ちゃんが生まれたんだって」
「最悪だ・・・」今度は手で耳を覆う。
「奥さんにも最近ばれてるみたいで…」優香は半ベソのような声で言った。
「不倫は良くない、みんなを不幸にする、忘れるしかないよ」伸治は忠告した。
「わかってる、だからあたし、あの人の子供だけ産みたいの」優香が頭をもたげた。
「あきらめてもっと幸せな道を探すんだな」伸治はジンフィズを注文した。酔いたい衝動に駆られたのだ。
*
優香はだんだんと感情的になっていった。精神的に追いやられている感じだった。夜に電話をかけるといつも酔っていた。
「この前なんて、彼と職場の倉庫でHしちゃった、スリルがあって興奮したよ」優香はありのままに話すようになった。伸治は電話をかけるたびに後悔をした。優香と男が交尾している、それを想像しただけでも胸が張り裂けそうになった。
*
8月の終わり、夜11時を過ぎた或る日。伸治の携帯が鳴った。優香からだった。
「もしもし」
「あたしー、いまねーコンビニの外。頭がくるくる回って動けない」優香が酔っている。
「飲みすぎだよ、危ないからもう酒をやめて家に帰れよ」
「無―理―、もう動けない、伸治、助けに来て」優香が言った。
「・・・30分くらいで行く、そこを動くなよ」
*
伸治がコンビニに着くと、優香は携帯電話で誰かに向かって必死に話している。すぐに彼氏だと分かった。
「もういい、海人は、そうやっていつだって来てくれないもん。あたしには助けに来てくれる友達がいるんだから」「あ、友達来た、え? 男? そうだよ、なにが悪いの?」「そんなこと言ったって結局奥さんが大事なんでしょ、あたしもう切る」由佳が一方的にまくしたてているようだった。
「もういいだろ、帰ろ。家まで送るから」伸治は手を出して優香を引っ張り上げた。
「伸ちゃん、家に来て。話聞いて」優香が絡んでくる。
「わかった、わかった、まずはまっすぐ家に向かおう」伸治がなだめすかした。
*
「伸治、今日は朝まで一緒にいよう」
「冗談じゃねえよ、俺も男なんだ、話がすんだら帰る」
「お願い、あたしがベッドで寝るまで一緒に布団にいて」優香が甘い声を出す。
「しばらく抱きしめて」優香は頭を伸治の胸にうずめて言った。伸治は仕方なく抱擁し髪の毛をなでた。
「ね、お願い。ベッドの中で私を抱きしめて」
伸治は布団に入って優香を抱き寄せた。
*
「ガチャ、ガチャ、ドドドドドド」突然だった。玄関のかぎが開けられ誰かが駆け足で入ってきた。不倫相手、横井海人のお出ましだ。
「オメーら何やってんだよ、優香、こいつは誰なんだ!」
「あたしの友だち、ただ一緒に寝ててもらっただけよ」優香が必死に苦しい弁解をする。
「男と一緒に寝てなにもねえわけねえだろう!」海人は伸治の胸倉を掴んで床に倒しこむ。
そこへすかさず伸治の脇腹に蹴りが入る。
「海人!信じて!この人は私の幼馴染の伸治君。Hなんかするわけないし! 好きなのは海人だけよ!」
伸治は頭が真っ暗になった。もうこの先のことはよく覚えていない。
*
気がつけば伸治はさっきのコンビニにいた。店の外で缶ビール3缶を一気に飲み干した。
「馬鹿野郎」そう呟いてみる。意外と気持ちいい。傍目も気になるので、今度は携帯電話に向かって「馬鹿野郎!」と音声検索してみる。検索した画面には『馬鹿野郎の意味とは』などが表示される。あほらしくなった。
しかし、一点気になる文字が目に入った。
『発散堂』
伸治は気になってサイトを開いてみた。
「あなたのいらいら、解決します!」「ボロボロになったあなた!今すぐコール」
○即日お伺いして貴殿のイライラを解消して見せます!
○お話を伺い、貴殿に合わせたストレス発散を提案させていただきます!
○暴力・反社会的行為はできませんのでご了承ください。
○明朗会計! スタッフ1名につき1回1万円から+交通費
○深夜も営業! 午後8時から午前5時まで
CALL US 090ー51××―09××
画面のわきにはHなサイト広告や出会い系サイトの広告が載っていたが、なぜだか興味をそそられた。
写真には足で瓦割りをしている女性が映っている。
伸治は今さっき脇腹を足で蹴られたので、写真には少々不愉快だったが、『発散』の仕方がなんとなくイメージできたので、電話してみることにした。
*
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます!ハッサン24、24時間受付中です!」
伸治はルパン三世のような声に少しイラッときたが、思い切って話してみた。
「あのう、男女の間に友情関係は成り立つんでしょうか?」
「ええ、お客様、それはケースバイケースでございましょう。よろしければ今日何があったか、お話しいただけませんか?、もーちろんお客様のプライバシーは厳守いたしますので!」御手洗は明るく勇気づけるような声で伸治に言った。
伸治は優香への思い、これまでの付き合い、今日の修羅場に至るまで全部話した。
「近藤様、それは誠にお気の毒な日でございましたね。スタッフ一同、お見舞い申し上げます。ぜひ当社の発散プランですっきりしていただきたいものです」御手洗は言った。
「あのう、僕気が弱いんで、相手に復讐とかはちょっと…」伸治はこの期に及んで弱気な癖が出た。
「それはそれは近藤様、お優しい方でなによりです。では自己発散プランでいかがでしょう?」
「どんなんですか?」
「今人気なのは新宿××ビルの屋上で巨大スピーカー叫び15分ですかね。お値段もお手頃ですし。」
「いくら?」
「1名で済みますので1万円です。」
「うーん、ウチまで来てほしいんです。もう動く気力も僕にはありません」
「わかりました。では、お客様、失礼、近藤様は、何か御趣味や特技はありますか?」
「・・・映画見るとか、あ、クラシックギターやってました、昔」
「え!それはいい情報ですね、近藤様はファドはご存知で?」
「あースペインやポルトガルの演歌みたいな?」
「そうでございます。お客様!もう提案ができますよ、それもとびきりいい作戦です!」
伸治は作戦を聞いて、映画の主人公も悪くない、と思った。
「では、作戦決行は午前1時に近藤様のお宅のマンションの下にゴージャスな車をよこしますので」
「わかりました」
「それと、近藤様。発散後の対応、処置、謝罪は当社では全く関知いたしませんのでそれだけはその場でご了承のサインをいただきます。よろしくお願いします。」
*
車は1950年代のでっかいアメ車「シボレーインパラ」だった。御手洗はタキシードでオープンカーの後ろに座り、時間通りに伸治を迎えに来た。運転士を含めスタッフは3人だ。伸治も御手洗の横に座った。ドでかいソファーのようなシートはまさしく映画スターを乗せるにふさわしい真っ赤なレザーだった。
カーステレオからは大音量でファドの女王といわれるAmalia Rodrigues (アマリア・ロドリゲス)の凛々(りり)しい歌声が響いている。御手洗はシャンパングラスにシェリー酒を注ぎ伸治に飲むよう勧めた。たちまちに伸治はいい気分になった。
8月の生暖かい風にオープンカーは最高にマッチしていた。
「さあ、近藤様、メインイベントでございますよ」御手洗は大きな声を張り上げた。
車は東京郊外に向かっていた。そしてあるトンネルのなかで停車した。
「スタッフ、交通整理よろしくー!」御手洗が指示を出す。
かくして2車線のトンネルは封鎖された。
御手洗が段ボール4つに入った打ち上げ花火を次々に取り出して地面に並べていく。
伸治は赤ワインを瓶ごとごくごくと飲み、半分ほどになるとトンネルの壁に投げつけた。
「馬っ鹿やろー!」ワインの瓶がガシャンと割れたのを合図に花火が一斉に点火された。
カーステレオの音量は最大になりアマリアの歌声と花火の爆音がさく裂する。
ヒュー、ヒュー、バン、ドッカン、シュパーン、パチパチ、ズドーン、・・・・
「近藤様、ほら、叫んで!」御手洗がジェスチャーする。
「優香!死んじまえ!!」「なにが友情だ、あほかーーー!!」「さいなら優香!!」
御手洗は微笑みながら頷いてみせた。本日1件目、5万8500円なり。
第3相談者
新宿百人町の雑居ビルにある『発散堂』店主、御手洗幸一は今日も無意識にウクレレをポロンとかきならしながらCS番組の競馬中継に夢中だ。3連複なのでもうひと月も当たり馬券は出てないが、当たった時には普通のサラリーマンの月収ほどになるのだ。アロハシャツに麻の八分丈のパンツ、そして雪駄。どうみても平成の世には見られないチンピラスタイルだ。
「菜月ちゃーん」小高い声で御手洗が言った。
「はーい」
「アイスコーヒーをたのむよ」
「了解でーす、ご主人様」
メイド服で菜月がアイスコーヒーを持ってくる。店主の好みもあるが菜月自身がコスプレ好きで、忍者、看護士、女子高生、なんでも揃って持っていた。今日は短いスカートに白いニーハイのソックス。御手洗の視線が太ももに集中する。
「ありがとさん、これ、今日のコスプレ代」御手洗は千円を2枚、太もものソックスに入れ込んだ。
「やだあ、Hな御手洗さん、毎度ありー」菜月は嬉しそうにチップを受け取った。
ふいに銭形平次の着メロが鳴りだす。
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます! ハッサン24、24時間受付中です!」御手洗の声はルパン三世のように軽妙で、小気味いい。
「あ、初めての方ですね、はい、お名前からどうぞ」
今日も仕事の始まりだ。
*
滝川佳世にとってD―BOYSは、生き甲斐そのものだ。今年で44歳。結婚して14年がたつ。夫・博志にはとうに愛情は無くなっている。今は娘の愛華とともにD―BOYSを追いかける毎日が何よりも楽しみなのだ。
D―BOYSは、10代の可愛い男の子4人組でダンスを得意としたボーカルユニットだ。EXILEトライブよりはアイドル性が強く若い。まだ売り出し始めたばかりなので全国各地でファン獲得のためイベントやライブを行っていたから、中高生女子のファンと比較的距離が近いのが人気の理由だった。メンバーのSHOU・RIKKU・JEI・YASIと4人それぞれが公式ブログを持っており、メンバーの中でも熾烈なファン獲得競争が繰り広げられている。なんといっても、まだ若い、売り出し中のグループなのだ。だからファンも自分が応援してこの子たちを育てているという感覚になるし、それがプロデュース側のしたたかな戦略でもあった。
佳世は家事を適当に、午前中に済ませると後はパソコンにかじりついている。4人全部のブログを見てリアクションを送ったり、メッセージを送るのである。
6/12 朝キタ―! 全国のみんな、おはよーグルト JEIだよ。
昨日の夜はダンスレッスンが終わってからの受験勉強、頑張ったよ。
みんなもそれぞれの目標に向かて今日もファイト!僕と一緒に頑張ろう♪
あ、今日の朝食は自由が丘の××でポーチドエッグセット。アップしちゃお。
佳世は「イイネ」にハートをつけて送り返す。心の中で(JEI、頑張ったね、あたしも今日は夕食作り頑張る!)と叫んでみる。いつも私のそばにはJEIがいる、だから面倒なことも一緒に乗り越えることができるのだ。
こうしてメンバー4人のブログをみてリアクションするだけで、1時間はかかる。
これが終わるとD―BOYS推しの会へアクセス。全国のファンのリアクションに目を通し、オークションでは、チケットの交換や、メンバーから手渡しでもらったD―BOYSのタオルなど目ぼしいものを探す。そしてD―BOYSを語る女子会などのお知らせまで目を通せばたっぷり3時間はかかるだろうか。SNSにもアクセスすればもう夕方だ。
佳世はリビングの大型TVでD―BOYSのデビューソロライブの録画映像を流しつつ夕食を作る。カウンターキッチンはそのためにある、と言ってもよかった。作った献立は
○厚揚げにショウガのせ ○きゅうりのきゅう太郎漬物
○豆腐の味噌汁 ○ご飯
以上である。
ちょうど愛華が帰ってきた。今年中2になったばかりだ。もともと愛華がD―BOYSを好きになったわけだが、学校や部活もあるので佳世ほどにのめりこむ時間がなかった。
「ママ、きょうのボーイズ、なんか面白いことあった?」愛華が訊いた。
「鳥取の女の子でジャージにRIKKUのサインもらった子がいるって」佳世は答えた。
「RIKKUか、なら、いいや。SHOUネタはないの?」
「今日はレッスン中、靴ひもがほどけたって夕方更新してたわよ」
「ふーん、今度のライブ、靴ひもガンミしとこ!」愛華は笑った。
「そうね、日曜日の高崎××パーク、朝5時出発よ」
「オーケー、あ、LINEの返事まだだ。おわったらご飯ね。」愛華は洗面所に向かった。
*
(おかしい、どうもおかしい、筋を見る目が鈍ったのか?)
滝川よし江は焦りを感じていた。この2,3カ月はなんだかんだで儲かっていた。それがこの2,3日どうも玉が出ないのである。よし江は続けざまに諭吉を追加した。冷や汗が出るがこの崖っぷち感覚がスリルを助長して興奮する。しかし今日は7時間粘っても一向に出る気配がない。煙草の吸殻だけが空しく溜まっている。
「よし江ちゃん、もうやめといたら」近所の清次が耳元で叫ぶ。
「また、借金こさえたら、もう住むとこないで」清次の忠告は正しい。
*
よし江がパチンコにはまったのは、夫をがんで亡くし、広島から息子夫婦のところへ越してきてからである。夫からも、田んぼからも、古民家からも、抜け出して、やっと自由になれたよし江が東京に来て、何をするかと言えばパチンコくらいしかなかったのである。いまさら姑づらして、偉そうなことを嫁に言うつもりはなかった。家事も料理も一応はやってくれる嫁にはなにも文句は言えない。かといって1日中、家にいるわけにもいかず、困っていた。老人会はよそ者だから入りづらい。そこで出会ったのがパチンコだった。最初は少ない年金から一万円程度でやめておいた。しかしいざいい台にあたるとあっという間に倍になった。年金の少なさが、馬鹿らしくなった。2万円を資金にまたいい台に当たった。3万円になった。こうして、損失はあるもののトータルでは儲かった。
1年は続いただろうか、よし江のパチンコに異変が起きる。どんどん金が吸いこまれていくのだ。やってもやっても減っていく。年金はあっという間に消えていた。何とかして戻したい。よし江が次に選んだ手段は、広島の財産だった。土地と夫の保険合わせて
1000万。この額ぐらいあるなら年金の10万やそこら、埋め合わせるのは簡単だ、そう思った。1万儲かれば、2万をぶっこむ。そして2万は消え、また2万をつぎ込む。こうした日が何カ月続いたか、残金は100万程度になっていた。
そんなある日、広島の弟が心筋梗塞で死んだ。生涯独身で身寄りもなく親類はよし江だけになっていた。葬式や埋葬はよし江がするしかない。息子の博志は財産は1000万あると思っている。よし江はなけなしの残金と携帯電話で見つけた金融会社から50万を借りた。
案の定、年金生活は破たんした。金融会社の借金は120万に膨れ上がっていた。仕方なくよし江は博志に自白した。こっぴどく怒られた。博志は貯蓄を崩し、120万を返した。今後、年金は博志の管理下に置かれることになった。よし江は週1万のこずかい制になったのだ。もちろん、今後一切パチンコ店には出入り禁止とされた。
それでもよし江は、パチンコがやめられなかった。朝食が終わると頭がそわそわして落ち着かない。ホールの音、煙草の香り、ジャラジャラの震動。気がつくと店の方へ足が向かってしまうのだった。
*
滝川博志は、自宅の最寄り駅より1つ手前で下車する。健康のため歩くのだ、と言いたいところだがじつはそうではない。歩きながら晩酌して帰るのである。自分の小遣いを考えれば、赤ちょうちんに寄っていくおかねは無い。1日1000円の小遣いは440円のタバコ、390円の弁当、残った金でスーパーの缶チューハイを買うことで見事に消え失せた。唯一の楽しみは、土日の休みには会社に行かなくてもいいので2000円が現金として自由に使えることであった。
博志の勤務先は小さな出版社である。入社当時には、社会学や社会心理を専門として扱ってそれなりの定評を得ていたが、社会学があまり流行らなくなったり、出版不況も重なって今ではなんでも扱う出版社になっていた。要は売れなければ会社はもたないのである。収益をふやすため、営業を強化することが決まった。自費出版である。ホームページには会社概要・商品紹介・お問い合わせ、のほかに「原稿募集!」のサイトを設けた。文芸コンテストと称して作品を募集する。特賞は20万円。反響は大きかった。
「あのー原稿を読んでいただきたいのですが・・・」大体がこの手の電話だ。
普通は大手出版社はここで丁重にお断りするか自費出版を勧めてくるのだが、博志の出版社はそれを逆手に取った。
「ぜひ、送ってください。コンテストにかかわらず良いものは企画に上げますから」
博は明るく応対する。
「本当ですか?」大半の人は声色が明るくなる。
「ええ、一応目は通させていただきます、ただし原稿はお返しできませんのでそれはご了承願います」「はい、よろしくお願いします」
こうして毎日山のような原稿が届く。その多くは定年を迎えた有閑な人たちからの原稿だった。内容は大半が自分のライフストーリーを描いたものか、マニアックな歴史ものである。戦争体験記も多かった。
真実は小説より奇なり、とはよく言うが、それなりに波乱万丈なものもあり良くできたものもあった。ここからが営業の腕の見せ所である。博志は作者に電話をする。
「いやーなかなかよく出来ていますよ、主人公の描写がうまいですね、もう少し最期にオチのつけどころがあるともっとよくなるんだけどなあ」博志は言う。
「いま、企画には上げていますが、残念ながら特賞にはなりません。でも、惜しいんですよね、あと少し手直しをすれば・・・」博志は続ける。
「では書きなおします」と大半の人は答える。
「いや、どうでしょう、私たちにお任せいただけませんか?プロが徹底的に文章を構成しなおします。○○様にはアイデアをいただいた形として編集料だけで出版させていただきます。」これが、博志の決め台詞だ。
「い、い、いくらかかるのでしょうか」
「150万で立派な装丁、イラストまでお付けします」
団塊の世代はお金が有り余っているようだった。こうして自費出版にまんまと漕ぎつけるのである。博志の仕事は、こんなやり取りと、自費出版の手直しで終わることが多かった。(嘘はついていない、俺は作者の夢の実現の手助けをしているのだ)博志は自分にこう言い聞かせ仕事を続けた。
*
「ママ、あたしの紺のハイソックス、パパの洗濯と一緒にしたでしょ!」
愛華が血相を変えて佳世にすごんだ。
「あーら、ごめんなさい。最後の洗濯のときに交じっちゃったかしら?」
「勘弁してよー」
「ハイハイ、気をつけます、パパが帰らないうちに食事済ませなさい」
ダイニングテーブルにはもうすでによし江がちょこんと座っている。
「いただきまーす!」と愛華。
「珍し!おばあちゃんがパチンコの閉店前に家にいるなんて」愛華は言った。
「たまにゃ、諦めが肝心よ」よし江が言った。
佳世も愛華も食事中、携帯を手放さない。いじらないという家族ルールはあるもののいじらずに見るという習慣が定着していた。
*
「ただいまー」博志が帰るのは10時過ぎである。返事はない。もう全員寝室にいるのである。冷蔵庫からビールを取り出してテーブルを見ると、珍しく置手紙だ。
金策に頼みあり よし江
紙の後ろにはヤミ金からの請求書。開けてみると50万近くの請求だった。
「かあさん!かあさん!」博志はよし江の部屋に向かって叫ぶ。
「あれほど言ったじゃないか!もうパチンコはしませんって!話がちがうぞ、母さん、来てよ!」博志は大声でよし江を呼ぶ。愛華が2階から降りてきた。
「どうしたの、パパ、うわ、酒臭い! しかも煙草も臭い! 最悪、マジ勘弁!」
「うるさい! 勘弁されたい人から生まれたんだよ、おまえは! おばあちゃんは?」
「寝てるわよ」
「母さんは?」
「部屋でD―BOYS見てる、パパよりD―BOYSを愛してるって!」愛華が答えた。
無性に煙草が吸いたくなった。庭に出るしかない。薔薇を絡ませたパーゴラの下にあるディレクターズチェアに座って煙草の煙をいっぱいに吸い込んで、
「馬鹿野郎!」と叫んだ。意外とすっきりするもんだ。ついでに携帯に向かって
「馬鹿野郎!」と入れてみる。
検索した画面には『馬鹿野郎の意味とは』などが表示される。少しウケた。
しかし、一点、気になる文字が目に入った。
『発散堂』
博志は気になってサイトを開いてみた。
「あなたのいらいら、解決します!」「ボロボロになったあなた!今すぐコール」
○即日お伺いして貴殿のイライラを解消して見せます!
○お話を伺い、貴殿に合わせたストレス発散を提案させていただきます!
○暴力・反社会的行為はできませんのでご了承ください。
○明朗会計! スタッフ1名につき1回1万円から+交通費
○深夜も営業! 午後8時から午前5時まで
CALL US 090ー51××―09××
画面のわきには健康サプリの広告やお見合い会社の広告が載っていたが、なぜだか興味をそそられた。
写真には丸めた畳を日本刀で斜めに切っている女性が何かを叫んでいるショットだ。
博志はこんな技、何年修業したって出来るもんじゃない、とは思ったが、『発散』の仕方がなんとなくイメージで来たので、電話してみることにした。
*
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます!ハッサン24、24時間受付中です!」
博志はルパン三世のような声に少しイラッときたが、思い切って話してみた。
「滝川様、お気持ちお察しいたします。ぜひそのいらいらを解消していただきたい」御手洗はそう言った。
「うーん、僕は日本刀なんてできないし、なにが人気なの?」博志は訊いた。
「今人気なのは新宿××ビルの屋上で巨大スピーカー叫び15分ですかね。お値段もお手頃ですし。」
「いくら?」
「1名で済みますので1万円です。」御手洗は言った。
「うーん、なるほど。」博志は意外に安いことに驚いた。
「あのさ、俺、いま眩暈がするほど打ちひしがれてんのよ、なんかいいアイデアない?」
「わかりました。では、お客様、失礼、滝川様は、何か御趣味や特技はありますか?」
「昔バイク乗ってたんだけど、いまは手放しちゃったな・・・」博志は寂しそうに言った。
「お!それはいい情報ですね、今日は10人のスタッフを半額5万円でサービスしましょう、スペシャルコースでご用意いたします」
御手洗は計画の内容を伝えた。博志は唾をごくりと飲んで「よし、それでいこう」
と御手洗に言った。
「では、作戦決行は午前1時に近藤様のお宅のまえに集合ということで」
「わかりました」
「それと、滝川様。発散後の対応、処置、謝罪は当社では全く関知いたしませんのでそれだけはその場でご了承のサインをいただきます。よろしくお願いします。」
*
救急車のサイレンがかすかに聞こえた、と思ったらそうではない。バイクの爆音になって近づいてくる。地鳴りがするほどのバイク音だ。
博志は庭で赤ワインの瓶をがぶ飲みして、
「おりゃー!」と叫び瓶をリビングルームの窓に叩きつけた。ガッシャーンと割れたそのときにバイク爆走族は滝川家の前に集結した。
「では、滝川様、サインを一筆」「了解!」
パパリパラリラパラリラリー 10台のバイクが映画『ゴッドファーザー』愛のテーマをクラクションで奏でる。
御手洗が博志にマイクを渡す。拡声器つきバイクなのだ。
「馬っ鹿野郎―――!!」「父さんは父さんだ!」「みんな好き勝手しやがって、」
御手洗がバイクの後ろに乗るようジェスチャーする。
「幸せってなんだか教えろや、馬っ鹿野郎―――――――――!」
御手洗は微笑みながら頷いてみせた。本日1件目、6万3500円なり。
第4相談者
新宿百人町の雑居ビルの4階に『発散堂』のオフィスがある。店主の御手洗幸一は、夕方も6時を回ろうとしている頃に二日酔いからくる頭痛に頭を抱えながら、カップみそ汁の『あさり汁』をすすっていた。ゴールデン街を4軒はしごしてからは、起きるまでの記憶がない。当たり舟券で儲けたウン万円を使い果たしてしまった。部屋の隅につり下がったBOSEのスピーカーから、ボサノバの女王Astrud Gilberto (アストラッド・ジルベルト)のMeditation がのびやかに響き渡り御手洗の眠りを誘う。
「菜月ちゃーん」
「はーい」早乙女菜月は今日はチャイナドレスでのお出ましだ。太ももまで入ったスリットが御手洗の視線をシャキンとさせた。
「今日の予約は?」御手洗の酒焼けした声。
「今のところ入ってないです、電話待ちでーす」
「悪いが相談内容によっては、菜月ちゃんに行ってもらおうかな」
「飲みすぎですよ、若くないんだから」
「チップは弾むから、はい、まず前金」御手洗は菜月のガーターに諭吉を1枚挟み込む。
「もう御手洗さんのH~毎度あり~」
ふいに銭形平次の着メロが鳴りだす。
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます! ハッサン24、24時間受付中です!」御手洗の声はルパン三世のように軽妙だが今日は掠れ気味だ。
「あのう・・・怒りがいっぱいで・・・その・・・どうしたらいいか・・・」
よくある電話だ。とくに女子の場合に多い。半分訝しいと思って電話してくる。
「はい、お電話ありがとうございます、初めてですね、ではお名前からどうぞ、仮名でもかまいませんよ」
*
「まわりがさ、やっぱりうらやましいんだよ」川端翔は意を決したように酔いの力を借りて言ってしまった。
「なにも産まないって言ってるわけじゃないでしょ、あたしは37歳までは待って、とお願いしたはずよ。あなたもそのとき賛成してくれたじゃない、私はそれまで仕事を優先するって」妻の亜季は感情的になるのを抑えて言った。
「した、した、それは認める。でも親父が癌になったり、母ちゃんがまた働きだしたから、せめて孫は早く見せてあげたいなって。この前も母ちゃんに『あたしの生きがいってなんだろうね』って言われたしさ。」翔は言った。
「あたしが今、オリンピック特需で、一番大事な時だってわかってるでしょ。自分の力を発揮できる最大のチャンスなの。親を理由に子供を作ろうなんて、神様の罰が当たるわ」
亜季はうんざりした声で答えた。
「あと7年待ちか、俺耐えられないよ」翔はぼそっと口にした。
亜季は工業デザインを学び、大学を出たあとは外観建築(遊具、ベンチ、照明、門扉そしてトータルな企業の外観設備の設計)の会社に就職した。入社して8年目になり主に企画からデザインまでを担当するようになっていた。折しもオリンピックが東京に決まった時であって亜季の会社は俄然、業界からの注目を浴びるようになった。亜季が30歳のときである。翔と結婚して2年。2人はマイホームを建てることを目標に頑張っていた。
*
消防士が決め手だった。川端翔という男の子だ。片瀬亜季はその筋骨隆々、それでいてチャラくさくない服装、第一印象からいいなあと思った。地方公務員なんて女子の憧れだ。友人の誘いでたまたま合コンに行ったのが運命だった。歳は25歳と亜季より3歳年下だったが、話をしてみると意外としっかりとしていて、結婚願望やマイホームのことまで計画的に考えているところに驚いた。
「亜季さんの仕事はきっとこれからの都心の再開発で需要が伸びますよ、仕事で光っている人、僕は好きだな」翔は亜季の仕事に理解してくれた。
「翔君だって、未来のこと、しっかり考えて、体を鍛えて頑張ってる。とても素敵よ」
何回か会ううちに二人は急接近した。そしてお互いの夢が、2人の理想をデザインした家を建てることに決まると結婚は早かった。翔が「君についた火は消せないよ、結婚して下さい」とプロポーズした。
*
子供を産みたい、そんな翔の発言から、2人の間に溝ができた。夜の営みは、亜季にとって避けたいものになっていた。翔は翔で子作りのためにと迫ったことがあり、断られてひどく傷ついた。翔は好きなフットサルやサッカーに毎日夢中になって憂さを晴らした。亜季は仕事を家に持ち帰り遅くまでパソコンに集中した。会話はほとんどなくなってしまった。
「お互い傷つけあうことはしたくない。離れて暮らさないか?」と提案したのは翔だった。マイホーム計画は終わりを迎えた。
「そうね、お互い冷静になって、考えてみたほうがいいわね」亜季が言った。
結局、翔が家を出る形でひとり暮らしを始めた。半年後、離婚届が亜季のもとへ送られてきた。あっけない結末。30歳にしてひとり。正直、焦ったし困惑したが、修復は不可能のように見え、判を押した。
*
亜季は仕事に没頭した。あらゆるコンペに参加するものの惜敗が続いた。オリンピック関連の競争入札はことごとく大手に持って行かれた。亜季は、才能の限界を感じ始めていた。同時に会社にも居心地の悪さを感じ始めた。
離婚して引っ越しをした。犬を飼い始めた。ポメラニアンのリュリュというオス犬だ。亜季がアパートに帰ってくると、しっぽを振って亜季に飛びついてくる。ある時は抱き枕に、ある時は愚痴をこぼす相手に、亜季はリュリュを溺愛した。
「ワンコだけがあたしの見方。リュリュは絶対に私を裏切らないでしゅよねー」亜季はリュリュをきつく抱き締める。キューンとリュリュが嫌がりながら返事をする。
亜季はリュリュ中心の生活を考えた。もう子供なんてあきらめた。ワンコで充分。もっと近所で、いざとなればリュリュのもとへ直ぐ向かえる仕事場を探した。
亜季は車で20分のところにある横浜の建築事務所でアルバイトを始めた。
*
毎朝6時にはリュリュがアラーム代わりに枕元に上ってくる。散歩へ行こう、という合図だ。アパートから15分の薬師公園は散歩にはうってつけの場所だ。ドッグランコースもあって大型犬がいなければリードを放してあげた。リュリュは狂ったように亜季の周りを駆け回る。
最近、公園で同じポメラニアンを見かけるようになった。なぜか相性が良かったのか2頭はすぐ仲良しになり、じゃれあっていい遊び青手になった。飼い主は亜季と同じくらいの年齢だろうか、背の高いメガネの青年だった。
「すいません、いつもウチのポン太がかみついているみたいで」青年は爽やかに語りかけてきた。
「この裏に住む斎藤です。よろしくお願いします」斎藤は軽く頭を下げた。
「片瀬です。おなじオスなのに仲がいいなんて、笑っちゃう」亜季は言った。
「これでも弱虫なんです。人見知りだし、怖がりで。僕にしか、なつかない」
「ウチのはリュリュ。もっと弱虫かも。友達で来てよかったね、リュリュ」
「リュリュって言うんだ、かわいーなー」佐藤はごしごしと頭をなでた。
それからというもの、二人は決まった時間に公園に来た。ベンチに座っては、お互いのポメラニアンの写メやスマホの犬猫動画を見せあった。二人で笑い転げたり、「可愛い」を連発したりしてすぐに時間が過ぎていった。
*
二人の交際がスタートするまで長くはかからなかった。
「リュリュとポン吉のために、僕と付き合って下さい・・・」斎藤の言葉に、亜季は
「よろしくお願いします」と答えた。
斎藤隆は、独身で田町にある商社に勤めていると言っていた。休日には亜季の車で犬を遊ばせるため駒沢公園や高尾山にもいった。リュリュとポン吉がいる限り、2人の会話は途切れることがなかった。
或る日亜季が運転している時だった。
「人間はもう子孫を残すより、ワンコやニャンコで人生が満たされてしまうのかもね」
斎藤は悟ったようなことを口にした。
「かもね。女子だって仕事したいし、保育園はお金かかるし、欲しくてもできない人もいる。ほしい時に大変な思いするのは結局女子だし」亜季は言った。
「価値観が同じ人と、一緒にいれば僕はそれで充分、満足だな」斎藤こそが今で言う草食系男子かと亜季は思った。
「でもね、好きな人といつもそばにいたいと思うのはあたしだけかな?」亜季は意を決して同棲をにおわせた。
「そりゃあ理想だよ、亜季ちゃんとリュリュ・ポン吉、みんなで住めたら最高だよ」
斎藤は嬉しそうに運転席の亜季の背中に手をまわした。
*
それからは休日のたび二人で不動産に出かけ、ペットが可能なマンションを探してもらった。なるべく散歩にいい多摩川沿いのマンションに絞った。意外にも物件は多かった。問題は賃貸か持ち家にするか、という選択だった。
或る日の休日、二人は物件探しで多摩川沿いを歩いていた。
「隆、これは大切な話。聞いて。賃貸か持ち家にするか決めないと話は進まないわ。二人の将来を考えてほしいの、言いたいことわかる?」
「そりゃあ持ち家だよ。賃貸で掛け捨てにするのは馬鹿馬鹿しいと思うんだ。結婚を考えてほしい。でもプロポーズは改めてさせてほしい。今突然じゃあまりにロマンがないだろ?」
斎藤は覚悟を決めたように、ゆっくりとした口調で言葉を紡いだ。
「わかった。隆の気持ちは。あたし就職してからの貯金が1000万ある。隆はいくらある?」亜季は訊いた。
「500万くらいかな? 二人で1500万。ふたりの資金口座を新しく作ろう」
斎藤が提案した。
*
物件が決まったのはそれから2週間後だった。多摩川の下流で東横線が走っていた。駅も近く8階からの眺望も最高だった。亜季はペット専用シャワーがついているところが気にいった。築5年だが新築に近い状態で4200万だった。
「決めちゃいますか?」亜季は覚悟を決めたように、斎藤に言った。
「そうだね、4200万。緊張するな―」斎藤は嬉しそうだ。
話し合って1200万を頭金に当てることにした。
契約の日の朝、斎藤は二人で作った新しい口座の通帳とカードを持って、「銀行に行く」と言った。男の人の方が安心だ。
*
斎藤隆はそれ以来消えてしまった。ポン吉とともに。
*
「馬鹿野郎!」多摩川の向こう岸に向かって叫んでみる。バカらしくなって笑えてきた。
「馬―鹿!」何回叫んだろうか、疲れて座り込んだ。携帯には何の連絡もない。当然こっちからかけても繋がらない。訳もなく音声検索に「馬鹿野郎!」と発してみる。
検索した画面には『たけしのダンカン馬鹿野郎』などが表示される。馬鹿らしくなった。
しかし、一点気になる文字が目に入った。
『発散堂』
亜季は気になってサイトを開いてみた。
「あなたのいらいら、解決します!」「ボロボロになったあなた!今すぐコール」
○即日お伺いして貴殿のイライラを解消して見せます!
○お話を伺い、貴殿に合わせたストレス発散を提案させていただきます!
○暴力・反社会的行為はできませんのでご了承ください。
○明朗会計! スタッフ1名につき1回1万円から+交通費
○深夜も営業! 午後8時から午前5時まで
CALL US 090ー51××―09××
画面のわきにはいかがわしい広告や金融広告が載っていたが、なぜだか興味をそそられた。
写真には瓦割りをしている女性が何やら叫んでいる姿が映っている。
(ああ、こういう発散ね)亜季はなんとなくイメージがつかめた。
(胡散臭い・・・今は信じられるものは何もない、また騙されたつもりでかけてみよっか)
*
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます!ハッサン24、24時間受付中です!」
亜季は酒焼けしたルパン三世のような声に少しイラッときたが、恐る恐る言葉を発した。
「あのう・・・怒りがいっぱいで・・・その・・・どうしたらいいか・・・」
よくある電話だ。とくに女子の場合に多い。半分訝しいと思って電話してくる。
「はい、お電話ありがとうございます、初めてですね、ではお名前からどうぞ、仮名でもかまいませんよ」
亜季は事の顛末をざっくりと話した。
「リュリュママ様、それは全くかける言葉もございません。お気の毒です。ぜひ当社のサービスですっきりしていただきたいものです」御手洗は悔しそうな口調で言う。
「斎藤隆よ、斎藤。今すぐ見つけてほしいわ」
「リュリュママ様、誠に申し上げにくいのですが、当社は探偵業務はおこなっておりませんもので、その件についてはしっかり警察に通報された方がよいかと・・・」
「わかったわよ、んで発散するなら何をしてくれるわけ?」亜季は訊いた。
「それはもうお望み通りに」
「んもーわかんないわよ、怒りを鎮めてちょうだい。」
「では御趣味や特技はありますか?」
「ワンコを飼うこと! あとはデッサンやデザインなら得意よ」
「うわ!リュリュママ様それはもう良いご提案ができますよ!」御手洗は持ち前の引き出しの多さから瞬時にアイデアを亜季に伝えた。
「・・・いいわ、それならすっきりするかも」亜季は了承した。
「では、本日は男性の顔も見たくないと思われますので女性スタッフをご自宅に派遣しますので、ええ、はい、では夜8時にご自宅へ伺います。よろしくお願いします。」
「わかったわ」
「それと、リュリュママ様。発散後の対応、処置、謝罪は当社では全く関知いたしませんのでそれだけはその場でご了承のサインをいただきます。よろしくお願いします。」
午後8時、早乙女菜月は青い作業服に着替えワゴン車で到着した。
「本日担当します、早乙女です。このたびはお気の毒さまでございます。早速ですが電話で確認した発散後の自己責任同意書にサインをお願いいたします」
亜季はサインをした。
「それではご自宅で作業に取り掛かっていただきますので」菜月は亜季の部屋へ入っていく。
*
「だいたいこんなところね、ついでにポメラニアンも書いとくわ」亜季は言った。
見事な自称・斎藤隆のイラストだ。服装までばっちりカラーで描かれている。
○「探しています、この男。結婚詐欺につきご用心!
○ポメラニアンを連れています。どんな情報でもかまいません。
○心当たりのある方は 090―××××―67×× 謝礼あり」
二人は次にワゴン車で発散堂ご要達の印刷所へむかった。
「社長、カラーで1万枚、大至急」菜月は印刷所のオヤジに言った。
*
「決行時間です。では、始めましょうか」菜月はできた指名手配イラストを数百枚を亜季に渡した。まずは新宿××ビル屋上。
「リュリュママ様、好きなようにお叫びください」
「斎藤の馬―鹿―野―郎―――――!」白い紙が新宿の淡く明るい夜空に大量に舞った。
「では、今度は移動します」菜月はビルの下にあるワゴン車に亜季を乗せる。
多摩川沿いの道路でワゴン車を走らせながら亜季は指名手配イラストを窓からパラパラと捲いていく。ワゴン車は選挙でも使えるスピーカーつきである。
「男なんて絶滅しちゃえ!」「人間のくず!」「もう人間なんて信じない!」亜季は叫ぶ。
菜月はカーステレオの音量を最大にした。曲はDavid Sanborn の Love & Happiness
菜月は微笑みながらもっと叫べとジェスチャーした。本日1件目、3万3500円なり。
第5相談者
まだ5月も下旬というのに、都心は連日夏日が続き、ジトっとした空気が梅雨の到来を予感させた。ここ新宿百人町の雑居ビルにある『発散堂』の店主、御手洗幸一はウクレレを片手に、競馬新聞の出走馬に赤ペンでチェックを入れていた。赤いアロハはボタンが半分はだけ、八分丈の麻のパンツは裾がさらにまくられている。雪駄の足を机の上に投げ出して、御手洗はおもむろに叫んだ。
「菜月チャ―ン」
「はーい」今日は、ピンクのナース服。ひざ上20センチのミニスカートからのぞく
白いストッキングがすらりとした太ももを強調させていた。
「明日の東京7レースから10レースまでのマークシート書いておいたから、馬券売り場までちょっくら買い物お願いね。全部3連複。10万円分と今日のセクシーな衣装におひねりね」御手洗は、馬券購入券と11万を早業で、さつきの胸の谷間に捻りこんだ。
「もー困ったおじさんね、毎度あり!」菜月は嬉しそうに胸元を手で押さえた。
ふいに銭形平次の着メロが鳴りだす。
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます! ハッサン24、24時間受付中です!」御手洗の声はルパン三世のように軽妙で、小気味いい。
「あ、初めての方ですね、はい、お名前からどうぞ、仮名でもかまいませんよ」
今日も仕事の始まりだ。
*
「だから兄ちゃん、今度だけは信用してくれよ。今回飲んだら、きっぱりとやめる。おれだってもうどうにも手に負えなくなってるんだ。こうして電話したり、人と話すのにも酒がないと気力さえ湧かないんだ。明日の朝、千円でいい。それを最後に手首でも切るか、トラックにでも轢かれてみせる。な、兄ちゃん。俺なんて消えてなくなればみんな喜ぶだろ?」健次は半分呂律が回ってない。また深夜の2時だ。
「いいか、健次。もう何回目だ? 今のお前はダメ人間じゃないんだ、病気なんだ。死ぬ、とか脅かすのはもうよせよ。たのむから病院にいってくれよ」兄・原哲也はゆっくりと落ち着いた声で健次に言い聞かせた。
「わかった。わかったよ兄ちゃん。病院へ行く。だから千円、千円だけでいいから、明日、駅前で待ってる」健次はいつもの場所を指定した。
「病院は生活保護で何とかなるだろ。もう少し渡すから今日はもう寝てくれ」哲也はうんざりした口調で電話を勝手に切った。
「健次―、健次―!」すぐ横のベッドで父親の雄一が叫ぶ。
「父さん!健次じゃなくて哲也だろ。俺はて・つ・や!」哲也は同じセリフを何万回、言っただろう。息子の顔も名前も忘れ挙句の果てには、長男の哲也でなく次男の健次の名前を呼ぶ。病気とはいえ、腹立たしいやら悲しいやら、哲也はそれでも辛抱して返事をするのだ。
「健次―、お前大学はどこに決めたんだ?」雄一の記憶は健次の大学受験で止まっている、ということらしい。
「はいはい、早稲田ですよ、わ・せ・だ!」哲也は答える。
「そうか、健次は医者はいやだって言ったからな」
「そうだね、父さん、まずは安心して寝ようや」哲也は何とかして父を寝かしつけたい。
*
父、雄三がおかしくなったのは一昨年の冬からだ。会社から帰宅途中に山手線に乗ったのはいいが、どこで降りていいかわからなくなった。ホームで不審に思った駅員さんが、電話をくれたので助かった。またある時には、車を運転して一方通行の道を逆走しようとした。すぐに警察に捕まったのでことなきを得たが、事故を起こしていたらと思うとゾッとする。それ以来、免許は取り上げた。というか車のカギを渡さなくした。これには父も怒って「馬鹿にするんじゃない、ボケ老人みたいじゃないか!」と哲也に殴りかかってきた。バットは持ち出すわ、食器は投げるわの騒動に発展した。
病院の診断は、若年性アルツハイマーだった。父は60歳を迎えていた。薬を飲んでいかに進行を遅らせるかしか、他に手立てがなかった。
*
弟の健次はアルコール依存症だ。もともとは早稲田の政経を出て大手広告会社に就職したエリートマンだった。25歳で結婚し、立派なマイホームを建て、2人の男の子を授かった。
ところが一昨年の父の異変から、様子がおかしくなった。その年に部下が起こした不祥事の責任を一手に引き受け、おかしくなった。南米出張でアルコールや麻薬に溺れ、帰ってきたときには身も心もボロボロになっていた。
奥さんと子供には逃げられた。家は奥さんへローンごと譲渡した。離婚届に判を押してから、健次は朝から酒を浴びるように飲み始めた。会社には適当な嘘をついて休むようになり、会社から辞職勧告という形で、自主退社した。退職金も失業保険もみんな酒や風俗そして裏カジノに消えていった。そしてある朝、路上で大の字に寝ているところに車が接触し、そのまま救急入院となった。精神病院だった。特別治療室、通称『ガッチャン部屋』に手足を縛られ、バスタブのようなベッドに1週間拘束されたらしい。監視カメラ付きで24時間見張られるのである。普通の依存者も病院の規則が守れないとガッチャン部屋に行かされるので、患者は皆恐れている。健次はよほど嫌だったのか、それ以来おとなしく病院に入院し、3カ月で退院となった。
しかし健次の断酒は続かなかった。精神疾患がひどく生活保護の金が入るやいなや、酒につぎ込んだ。リバウンドだろうか、前にもまして酒の量が増えていった。そうしてぐでんぐでんになっては、昼夜を問わず哲也に電話してくるのだった。
*
哲也は父の介護のためフルタイムの仕事を辞めた。日中、2時から7時までの宅配便でアルバイトをした。『要介護2』のために月約18万は支給されたが、十分ではなかった。アルバイトでも月に10万にはなる。なにより家を出て介護から解放されたい、という気持ちがあった。1日中、父・雄三と一緒にいてはこちらの頭までおかしくなる。哲也は外出中何かあるとまずいので、家を改造した。ガラス類の食器はカギのかかる棚に入れた。割れて危ないものもみな片づけた。火・水・ガスなどの元栓はかならず閉めた。玄関のドアも2重にして鍵をつけ、哲也のいない時には父が外出しないようにした。
*
健次は入院中から生活保護を受けるようになった。哲也も出せる範囲で健次に送金することになった。哲也の家から1駅離れたアパートで出直すことになった。
「に、兄ちゃん、悪いな、これっきりだから。こうして朝になれば飲みたくはないんだ」
健次とは次の日の朝、駅前の喫煙所で待ち合わせをした。
「悪いことは言わない、病院へ行きなさい。自分1人ではやめられない病気なんだ、何も健次が悪いんじゃない。病気のせいだ。たのむからこの前みたいな『死ぬ、死ぬ』って脅すのはやめてくれ、兄ちゃんこれ以上、面倒は見切れないから」哲也は懇願した。
「だから、きっぱりやめるって。AAにも毎日行くし病院のデイケアにもいくようにすっから」健次は渡された1千円札を3枚素早くポケットにしまい込んだ。AAとはアルコール・アノニマスの略で、断酒を目的とした自助会のことだ。
「いいか、これで飲んだらきっぱりやめろ。しっかり病院にいってAAにも行って早く健康な体に戻るんだ。まずはそれから始めるんだ。兄ちゃんはお前を見捨てたりしないから、一緒に頑張ろうや」哲也は健次の肩をたたいてそう言った。
*
母は哲也が20歳、健次が18歳のときに蒸発した。よくいくスナックで客と恋仲になって突然姿を消した。時折、手紙が届いたが、雄三がそのたびにビリビリに破いて棄てた。いまは日本のどこにいるかもわからない。電話番号も分からない。盗み見た手紙に『再婚』
します、と書いてあった記憶がある。雄三がこんな病気になったため、正式に雄三と離婚したかどうかも、今となってはわからないのだ。
*
「健次―、父さん、いまから帰るぞー」雄三は哲也に言った。
「どこへ帰るの?ここは父さんの家!」哲也は答える。
「ちがう、千葉の家に行くんだ」
「ちば?」
「ああそうだ、父さんの家は千葉しかないだろう」雄三は、生まれた千葉の家を思い出したらしい。
「そうだね、明日にでも、千葉に行こうよ、父さん。とりあえず今は座って」と哲也は父の肩を押さえると、殴りかかろうと暴れ出した。
「バカ野郎!また父さんをバカにしやがって」
「してない、してない、わかったから」哲也は、父の腕を振りほどき、いすに座らせた。
(もう限界だ、いっそのこと・・・)と哲也は考えるがいかん、いかん、と首を振った。
*
健次はもらった金ですぐにコンビニへ直行した。ウィスキーを買い込んで店の外で飲みだした。(最後の酒だ、健次よ、心して飲め。32年良く頑張ったな、死んでしまいなさい)「だれだ?」健次は周りを見回した。南米でよく見た、どす黒いネズミが100匹位自分の周りを駆け回っている。人間はいない。突然体中が寒くなってきた。「死んでしまえ」この言葉が耳から離れない。健次は幻聴・幻覚に襲われていた。
「死ぬのは構わない、どうか楽に死ねますように」健次は考えた。
「川だ、川が俺を呼んでいる・・・」健次は千鳥足で近所にある引田川の川辺に出た。
*
哲也は朝、健次に金を渡すと、近所にある特別養護老人ホームを訪ねた。入れる条件や自己負担金についてくわしく知りたかったからである。施設は新しく清潔で木のぬくもりを感じるような設計になっていた。施設内を一通り案内されて応接室に入り、説明を受けた。入居の条件は要介護3の認定が必要なこと、今の条件では県内のほとんどの施設は満員で数年待ちになること、など絶望的なものであった。
哲也は施設の庭に出てベンチに座り煙草に火をつけ、「ふー」とため息に音を加えた。
「断られたんですね」哲也は突然に声をかけられ顔を上げた。
白いブラウス、白いロングスカートの目をこすりたくなるような美少女だった。
「え、ええ。来る前から電話で訊いてわかってはいたんですが・・・」
「本当にお困りのようですね、どこもいっぱいみたい」よく見ると○垣結衣にどことなく似て黒くて長い髪がきれいだった。
「私も母が認知症になったみたいで、ここへきて相談してたんです」少女は言った。
「元気で暴れるうちはだめみたいですよ」哲也は笑って答えた。
「どっか、この辺でお昼でも食べませんか?」
「え?ええ。いいんですか?」哲也は耳を疑った。
「同じ悩みを抱えた方のお話を共有したいんです」少女は言った。
*
少女は名前を木村美穂といった。施設では少女に見えたが実際は28歳だった。
「原哲也です。34歳。空いた時間にアルバイトしています。」
「そうなんですか、えらいですね。私なんか母が心配でなかなか外出できなくて」
「あんまりコン詰めないようにしないと、供依存になっちゃいますから」
「原さんの言うとおりですね、私どうしたらいいかわからなくて・・・」
哲也は美穂の気持ちがよくわかった。そして少し年上として頼られたい気分だった。ついでに身の上話や、母のこと、弟のことも話した。
*
「原さんに出会えてよかった」美穂はとびきりの笑顔で哲也の手を握った。
「今度、また時間を決めてお会いできませんか?」美穂が恥ずかしそうに言う。
「もちろん」哲也は生まれて初めて神に感謝をした。
「じゃ、○月○日 12時に駅前の銅像で。」美穂とはメアドも交換した。
*
4本は開けただろうか。健次は堤防のコンクリート上でへべれけになって遺書を書いていた。
拝啓 兄上さま
先立つ不孝をお許しください。
辞世の句
「戦友よ、われたたかへり 海の底」 健次
健次は靴を脱ぎ、上半身裸になって川へと入っていった。水深は30センチほどしかなかった。
ゆっくりと腰から浸かり仰向けになって倒れ込んだ。
*
別れ際、美穂に手を振ったその時だった。哲也の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。「もしもし」
「はい、原哲也さんの携帯でしょうか?こちら引田警察署の白川と申します」
「はあ」
「弟さん、えー、原健次さんのお兄様でよろしいですか?」
「はい」
「さきほど引田川で、弟さんが泥酔されたまま、川に入りまして。いや、ご安心ください。
お怪我などは無いと思いますが一応救急車でみどり台総合病院へ搬送いたしました」
「自殺未遂ですか?」
「そうかもしれません。現場には遺書らしきものがありますねえ。ただ、近くの幼稚園生たちが川べりを散歩中、健次さんを発見しまして、通報がありました。さいわい水深も浅く目的は果たせなかったようですね、意識もありましたのでこちらへご連絡差し上げました」白川という刑事は、笑いをこらえたような口調で話してくる。
「そうですか、ご迷惑おかけしました。申し訳ありません」哲也も笑いをこらえたように言葉を返した。
「迷惑ついでで申し訳ないのですが、そのまま精神病院へ送っていただきたいのですが」哲也が付け加えた。(健次の馬鹿野郎!)哲也はあきれ返って笑うしかなかった。
*
美穂は待ち合わせの時間にぴったり来た。白のワンピースがまぶしいほど似合っていた。哲也はどこに行こうか考えた挙句、横浜に出て、海を見ながら語らいたいと思った。中華街で食事をしてから、哲也のお気に入りの波止場にある公園に行った。
「哲也さん、このままじゃかわいそう」美穂は哲也の目を見て言った。
「いや、こうして美穂ちゃんに出会えただけでもしあわせだよ」
「だめよ、もっと幸せにならなくちゃ」美穂は真剣な声で言った。
「それはどういう意味?」哲也は来るべき時が来たと思い言葉を探した。
「今日、あたし、哲也さんを連れていきたいところがあるの」美穂はまだ真剣だ。
「良いよ、美穂ちゃんの好きなところに案内してよ」哲也の胸が躍った。
「きっと二人で祈ったら、この先きっと愛に満たされるんじゃないかな」
美穂は哲也の手を引いて桜木町駅へ向かった。
*
哲也はどこへ連れて行かれてもいいように様々なシチュエーションを想定した。
(付き合った記念のジュエリー?金はあるか?)(ホテルか?カードは持っているか、
避妊具は1つ財布に忍ばせてある)(その前に、愛の告白だろう、こっちから言う?なんて言おう?)哲也は、床屋に行っておかなかったことを後悔した。
横浜駅を出て美穂はまた哲也の手を引いて西口から離れていく。
*
『天極大主大聖堂』 人の背丈ほどの赤い木の板に彫られた文字が金色に輝いている。
「哲也さん、緊張しないで。私がついてる。」美穂が扉を開ける。
お香の香りがすぐ鼻についた。薄暗い部屋のまえに三和土があって10足以上の靴がひしめいている。怪しげなお経がスピーカーから流れていた。
「さあ哲也さん、靴脱いでこっちへ来て」美穂がウインクして微笑む。
パイプ椅子が並べられた部屋には、哲也と同じような年頃の男が何人もすわっていた。
「・・・馬鹿野郎」哲也は思わず口にした。「馬鹿野郎!」哲也は踵を返した。
「哲也さん!どうしたの」美穂が叫ぶ。哲也は振り返らずにひとり走り始めた。
「馬鹿野郎っつってんだよ」
どこまで走ったろうか。疲れて地面にへたり込む。大声を出す気力もない。思わず携帯を取り出して音声検索に「馬鹿野郎!」と発してみる。
検索した画面には『たけしのダンカン馬鹿野郎』などが表示される。馬鹿らしくなった。しかし、一点気になる文字が目に入った。
『発散堂』
和也は気になってサイトを開いてみた。
「あなたのいらいら、解決します!」「ボロボロになったあなた!今すぐコール」
○即日お伺いして貴殿のイライラを解消して見せます!
○お話を伺い、貴殿に合わせたストレス発散を提案させていただきます!
○暴力・反社会的行為はできませんのでご了承ください。
○明朗会計! スタッフ1名につき1回1万円から+交通費
○深夜も営業! 午後8時から午前5時まで
CALL US 090ー51××―09××
画面のわきには風俗スタッフ募集やヤミ金広告が載っていたが、発散堂の文字の下にな写真には瓦割りをしている女性が何やら叫んでいる姿が映っている。
(ああ、こういう発散か)哲也はなんとなくイメージがつかめた。
哲也は疑心暗鬼になっていたが、もうこの際、どうでもいいや、と電話の「発信」を押した。
*
「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます!ハッサン24、24時間受付中です!」
「話だけとりあえず聞いてくれますか」
「はい、お電話ありがとうございます、初めてですね、ではお名前からどうぞ、仮名でもかまいませんよ」
哲也は父・母・弟・そして出会った女性との顛末をざっくり話した。
「哲さま、それはさぞかし心を痛められているでしょう。ぜひ当社のサービスですっきりしていただきたいものです」御手洗は言った。
「あのう、いま瓦割りみたいな道場には行きたくないんですが。」
「ああ、あれはあくまでイメージです。哲さまのお好きなようにお手伝いしたします」
「そう言われてもなー」哲也は言った。
「では哲さま、趣味や特技はございますか?」御手洗が訊く。
「・・・ゲーム?くらいかな」
「ほう、それはいいヒントですね、バトルゲームなんかは?」
「大好きです。フロントラインコマンド1とか」
「哲さま、それはもう良いご提案ができますよ」御手洗は嬉しそうに、提案と作戦を語り始めた。哲也もがぜん興味がわいてきた。
「では作戦は、午後8時、スタッフがワゴン車で参ります。指定の場所でお待ち下さい。それと、発散後の処置、謝罪は当社では全く関知いたしませんのでそれだけはその場でご了承のサインをいただきます。よろしくお願いします。」
*
午後8時30分前、指定された横浜駅の近くにワゴン車が来た。ミリタリーの格好をしたおじさんだ。
「お待たせしました、哲さま、本日担当します、発散堂の御手洗です。よろしくお願いします。早速ですが電話で確認した発散後の自己責任同意書にサインをお願いいたします」哲也はサインをした。
哲也も車の中でミリタリーの衣装に着替えた。使用する機関銃はトライデントLMG、電動のエアガン。電池もBB弾の装填も満タンだ。哲也は御手洗から入念に説明を受ける。そして決行場所である埠頭に車は移動した。
「哲さま、決行のお時間です。時間は30分間、好きなだけお楽しみください。BGMは当社よりサービスでございます。」
哲也は海に向かって「馬―鹿―野―郎―!!」とさけびトリガーを引いた。
ダダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
「みんな、消えてなくなれ!」「なんで俺だけまともなんだ!」
「みんなブチ壊してやる―――――――――――!!」
ワゴン車からは、John Lennonの「Power to the people」がボリューム最大で流された。車には街宣用スピーカーがついているのである。
御手洗は微笑みながらもっと叫べとジェスチャーした。本日の仕事2万4500円なり。
第6相談者
季節感のないここ新宿にも、さすがに雨続きの梅雨空は、心なしか気分を鬱々とさせる。発散堂・店主、御手洗幸一は、名ばかりの応接室にある大型4Kテレビで、麻雀ゲームに集中していた。あと一回あがれば、画面のオネエチャンが水着になる。
「御手洗さん、お電話でーす」早乙女菜月の声に、「ちぇっ、いったんストップだ」と御手洗はひとりごつ。
「依頼?まだ夕方なんだけど」御手洗はむっとした口調で菜月に当たる。
「わかりません、店長いるか?って、それっきり」菜月は答えた。
「もしもし」
「・・・・」
「もしもーし、店長の秋山です、イライラ解決、発散堂。どうしましたか」御手洗の声はルパン三世のように軽妙で、小気味いい。
「はじめてのかたかな? 怪しくないですよ、何でもおっしゃってください」御手洗は言葉をつづけた。
「・・・ば・く・は・・・したい・・・」電話の向こうから初めて声がした。
「ほう、ではお客様、こちらにもできること、できないことがありますので、まずはお名前から伺ってもよろしいですか、仮名でもかまいません」電話番号は非通知になっている。
「・・・テロ・・・・」
「テロ様ですか? それともテロを起こしてすっきりしたい、という方でしょうか?」
「・・・む・さ・べ・つ・・・」
「お客様、残念ですが、そういった反社会的行為は当社では行っておりません。もうすこしお話を聞かせては頂けないでしょうか?」
*
「中学生の男の子によくあるパターンですよ、実技科目(音・美・技家・保体)がぱっとしないんですよね」栄麟ゼミナール室長の浜中は、模試結果分析表を広げながら、学校の内申(通知表の査定)を指さして言った。
「そうなんですよ、武瑠は卓球部も引退したし、一生懸命やってるって言うんですが・・・」母の太田美和子はどうしましょう、という声色で、浜中の指摘を嘆いた。
「まあ、仕方ないんですよ。学校は絶対評価ですから、いわゆる『良い子』が有利になります。それに昔のように定期テストの結果だけで決まるわけではないんですよ。授業態度、提出物も重要な観点になる。武瑠くんのような目立たない、いや失礼、おとなしいタイプのお子さんは、学校の先生も無難な評価にならざるを得ないのかもしれません」
「テストは80点台は取れてるっていうんですよ」
「やっぱり、授業態度と提出物ですね、それもしっかりした内容が書けているかどうか・・・」浜中は言った。
「実技科目は指導していただけないのですか?」美和子はすがるように浜中に言う。
「いやーこちらもそうしてあげたいのは山々なんですが、なにせ3中学、3学年の生徒が5科目を習いに塾に来ているわけで・・・」浜中はかぶりを振った。
「そこをなんとか・・・」
「ええ、まあ、武瑠君の学校の過去のテストはコピーしてありますので、直前にプリントなどは配布できると思います。ただしフルサポートコースの生徒ですが」
「ではフルサポートで、」美和子は+3万円を覚悟した。
「あとはお母様が、日頃から実技の提出物をチェックしてあげて下さい、武瑠君がいいと思って出している提出物も、案外いい加減なものかもしれません。ちょうど夏休みの宿題が出ていますから。まだ7月。充分挽回ができますよ。2学期には少しでも上がるよう我々も応援していきますから」
「わかりました。先生のおっしゃる通り、見てみますわ」美和子は首を縦に振った。
「それと、志望校は変わりませんか?」浜中は話題を変えた。
「・・・一応、都立のR山高校を・・・」美和子は控えめな口調で言った。
「んー・・・それは厳しい・・・内申がオール5に近く4が3つぐらいは必要です。武瑠君のオール4ないのは正直・・・きびしいですね」浜中は弱ったなあ、という口調で答えた。
「やはり、実技?」美和子はため息交じりに訊いた。
「そうですね、入試には実技4科目の内申が2倍になります、東京都は。ですから実技科目がいいと、とても有利になります」浜中は言った。
「・・・R山より下は、正直・・・」美和子は食い下がる。
「でしたら、私立難関校ですね」
「私立難関校?」
「ええ、私立は3科目受験がほとんどです」
「私立大学受験と同じような?」
「そうですね、私立難関校の場合は、内申に関係なくほとんど当日の入試で決まりますから」
「間に合いますか?」
「ええ、まだ夏期講習も始まる直前ですし、難関コースを受けていただければ、まだ間に合います。」浜中は言った。
「おいくらくらいかかるんでしょうか?」
「今の都立コース+5万円ですね」
「5万円ですか・・・」美和子はうなだれたような声で言った。
「武瑠君のようなお子さんは、内申を気にせず私立難関校や大学付属の難関校に絞った方がいいかもしれませんね。ただし滑り止めのための私立高校は内申で決まりますから、いままでどおり頑張ってもらってオール4は目指してもらいたい。そのためにもフルサポートコースはぜひ受講して下さい」浜中は自信ありげに言った。
*
「武瑠、今日は夏祭り行けるの?」同じ卓球部の友人、勇平は茶化すように訊いた。
「訊かれると思ったぜ、塾の面談が重なるとはな」武瑠はため息交じりに勇平に言った。
「おまえんちも、大変だよな、父ちゃんは城東大、母ちゃんは学修館大学だろ。お前の成績みて、マジ可哀そうって思ったよ」勇平は正直に言ってくる。
「だから、面談次第かな。クソババアの機嫌が良ければ出してもらえるかも」武瑠は期待を込めて言った。
「女子たちも6時に集合らしいから、行けるんならLINEしてよ」
「了解、たぶんダメだろーなー」武瑠はため息が止まらない。
「今日をのがしたら、武井さんにもしばらく会えないぜ~」勇平が焦らせる。
「ばーか。そんなことはどうでもいいっつの」武瑠が殴るまねをする。
「まあまあ、怒んなって。じゃあな」
「あばよ!」
武瑠は足取り重く家に向かった。
*
「帰ったの、なんか言いなさいよ」美和子は叫んだ。
「・・・ういー」武瑠が気だるく返事する。ただいまなんて最近言ったことがない。
「ういーはいいから、こっちへ来て話をしましょ」美和子は玄関に来て言った。
「やだよ」
「やだって何よ、話なんてここ最近してないでしょ、ママ、あなたと相談したいことがあるの」
「やだ」
「やだじゃ済まないのよ、自分で稼げるようになってから言ってちょうだい」
「・・・・」武瑠はいまにも家を飛び出したくなった。
「叱らないから、話をするだけ」(いつもこうだ)武瑠は思った。
「怒られんなら、俺、話きかない」
「怒りませんって」
「・・・何?」武瑠は仕方なくリビングにカバンを降ろした。
「座って。今日ね、塾の浜中先生とお話ししたの。そしたらR山高校は絶対無理って、お母さん恥ずかしかったわ、もう」美和子はもうすでに怒っているとしか言いようがない。
「・・・行きたくないもん、俺だって」
「じゃあ、何のために今まで塾に行っていたの。お母さん、悲しいな」
「しらねーよ」
「そしたらね、浜中先生、実技がひどいって。お母さん、夏の課題これからちゃんと、見てあげるから、ね、ね?」
「勘弁してくれよ」
「ダメ。お母さん、タケルのためならちゃんと見てあげるから」
「うぜーよ」
「じゃあ、あなたどこ行くつもり?志望校はあんの?」
「行けるとこでいいっつの」
「あーお父さんとの約束と違うんじゃない? もっと怖い羽目になるわよ」
「都立ならいいんだろ?」
「それがね、タケル。あなたのようなタイプは難関私立が向いてるって、今日浜中先生から言われたの」
「・・・・」
「でね、この夏休み、栄麟ゼミの難関コース、受けてみなさいって、お母さんもそう思うわ。5科目はしっかり4が取れているんだから、私立も悪くないって思うの。お父さんも口では都立って言ってるけど、お母さんからちゃんと話すから、ね、ね?」美和子は懇願するように武瑠に言った。
「やだよ、塾の時間、めっちゃ増えるじゃん」
「そうよ。あなたのためなら仕方ない、頑張って」
「・・・・・」
「あなたね、幸せなのよ、塾にこんなにお金がかけられるなんて。お母さんは塾なんか行かしてもらえなかった。自分で働いたらどんだけ苦労する金額かわかってんの?」
(また、はじまった。いつも同じ説教だ)武瑠はうんざりだった。
「んじゃ、今日、夏祭りに行かしてくれたら、考・え・る・・・」
「んもー、そんなことで判断してほしくないわ、タケルは目先のことばっかりじゃない、いつも」
「あーそうだよ!」と武瑠は吠えてやった。
「わかったわ、今日行って、明日から気持ちを切り替えてちょうだい、お母さん、本当にあなたのことが心配なの」美和子はしぶしぶと認めて言った。
「カネ」
「お金ちょうだいでしょ、はい5千円札しかないわ、お釣りしっかり返して」
「あいよ」武瑠は5千円札を素早くポケットに突っ込んだ。
「10時までには帰りなさい、約束よ」
「あん。わかった。」
*
駅前夏祭りは、この地域では大規模なもので、パレードには、阿波踊りや花笠踊りもあり、沿道には出店が並ぶ。かなり人出が多いので武瑠の中学校からも2年生がボランティアとして掃除や案内係などに狩りだされていた。部活も引退した生徒も多くこのお祭りに友人たちと行くことがこの辺りの中学生には一番の楽しいイベントだった。
集合場所にはクラスの男子が10人ほど集まっていた。
「お!武瑠! よく外出できたな」勇平たちはびっくりした声で言った。
「チョロいもんよ、勉強頑張るって言ったら、許してくれた」
「へー、よかったな。女子はあっちの方に集まってるぜ。あっ LINEが来た」勇平が携帯を見て言った。
「なんて?」武瑠がきく。
「終わったら、富士見公園で花火しよって、女子たちが言ってる」
「いーねー」男子みんなが賛成した。
「とりあえず焼きそば喰いてー」勇平は出店を指さして言った。
*
武瑠は勇平に焼きそばをおごってもらった。この前貸したマンガを譲ることにしたからだ。
康介も、蛍光リングをおごってくれた。やはり貸したマンガを譲ったからだ。
こうしてひと通り、沿道を歩き、富士見公園にたどりついた。すでに女子たちが、花火を始めていた。
「あ、武井さん、浴衣姿だよ。浴衣。武瑠」
「・・・」
「なに、照れてんだよ、武井さんに挨拶して来いよ」
「うっせーなー、そんな勇気ねえよ」武瑠は顔を赤らめて言う。
「じゃ、俺、女子の中に交じってくる」勇平は、暗闇の方にいる女子たちの中に消えて行った。
「タケルくん、来てたんだ」後ろから幼馴染の伊藤さんの声がした。
「うん。伊藤さんも来てたんだ」
「うん、あっちで花火しよ、元気してた?」
「うん、なんとか元気。伊藤さん、栄麟ゼミの難関コースだよね」
「そう、やること多くて、やんなっちゃう」
「大変?」武瑠は訊いた。
「学校の宿題と塾の宿題、両方やらなきゃいけないからね、大変っちゃ、大変」
「宿題忘れるとどうなんの?」
「帰り残されたり、早塾っていって朝から呼ばれる・・・」
「うへー」武瑠は頭を抱えた。
「なんで?」
「おれ、夏期講習から難関にさせられたんだ、よろしく」
「マジ? タケルくんもやっと勉強に目覚めた?」
「いや、ちょっとその・・・・訳があって・・・」
「頑張って模試に名前が載ったり、友達を塾に誘ったりすると景品がもらえるよ、あたし自転車もらった。あとね、5科目が5だと、塾のお月謝が半額になるのよ」伊藤さんは臆面もなく言った。
(生徒をモノやカネで釣ってるのか?)武瑠は思ったが言わなかった。
ちょうどその時だった。公園の向こうから自転車軍団とバイク1台が公園の中に入ってきた。
(やべ、H沢中学の連中・・・)武瑠は焦った。札付きの不良が多い中学だ。
「よう、みーなーさーん」チャラい先頭の男子が、武瑠たちの方へやってきた。
「みんな、なかよし、愛しあってるかーい?」そいつがからかいだした。
「・・・・・」みんな怖がって声が出せない。
「なーに、ビビってんのよ、俺たちも仲間に入れて」違うヤツがニヤニヤして近づいてくる。
煙草の煙が漂ってきた。
「こんなかで一番可愛い女子は誰かなー?」チャラ男がうろつき始めた。
「・・・・・」だれも声を出さない。
「あ!発見! ネエチャン、お名前は?」チャラ男は浴衣姿の武井さんを見て言った。
「・・・・・」武井さんは声も出せない。
「じゃ、オメエでいいよ、このオネエチャンの名前、教えろや」鈴木という武瑠の友人が捕まった。
「た、た・け・い・さ・ん」鈴木が簡単に口を割った。
「たけい、なんちゅーの?」
「ゆ・か・り」鈴木は弱すぎる。
「ゆかりチャ―ン、おれたちH沢中のグループ、よろしくー」
「LINEとか、交換しよ」茶髪の奴が近づく。
武瑠は勇気を出して言った。
「武井さん、教えちゃ、ダメだ」
「はあ? 誰だオメー? 」ボスらしき体のでかいバイク少年が言った。
「教えちゃだめだ」武瑠は繰り返した。
「名前言えや」
「・・・・・・」
「こいつ、なまえなんちゅーの?」連中は鈴木に聞いた。
「お・お・た・・た・け・る・・・」鈴木はまたしても口を割った。
「ほう、おおたくん、勇気100倍、アンパンマンか?」ボスが武瑠の顔に寄ってくる。
「ま、いっか。とりあえずおおたくん、僕らにお金貸してちょうだい」
「ない!」
「ねーわけねーだろ、今日は祭りの日じゃねーか、千円でいーよ」
「ない!」
「オメー、武井さん、拉致られてもいいわけ? 貸してくれりゃいいんだよ、千円」
「札しかない!」
「はあ? 持ってんじゃん、いい子、いい子」
「出せよ」チャラ男がどすを利かす。
「・・・・」武瑠はポケットから五千円札を取り出した。
「はい、ありがとさーん」ボスは武瑠の手から素早く紙幣を引きぬいた。
「あの、お釣りは?」武瑠は言った。
「はあ? お釣りなんかねーよ、こいつばっかじゃねー」
H沢中の連中は全員で大笑いした。
「じゃ、武井さん、また今度! 学校に会いに行くよ」茶髪の男が武井のお尻を触って言った。
「毎度ありーーーー 」H沢中の連中が去っていった。
この後の空気は何とも言えないものになった。
「太田君、五千円大丈夫?」武井さんはそれだけ言い残してみんなで去っていった。
武瑠は悔しかった。忘れられない屈辱を味わった。
*
「タケルー、どうしたの?」美和子は2階の部屋に閉じこもった武瑠に叫んだ。
「俺は、認めんぞ、都立1本と約束したはずだ」夫・信也はビールを呷って言った。
「そんなご家庭はないの、みんな滑り止めの私立は受けるのよ、アナタ」美和子は信也に言う。
「そんなことだから、勉強しなくなるんだ。滑り止めも許さん」信也は言った。
「そんなこと学校が許さないわよ、もし都立入試に風邪でも引いたらどうすんのよ」美和子は食い下がる。今日の面談のことも信也に話した。
「じゃあ、難関私立1校にしろ、崖っぷちに立たないと武瑠は勉強しないだろ、おれはそうだった」信也は昔の自分と比較する。
「もし落ちたら?」
「知らん。まあそうはいっても入試が近づいてみてからだ、まずはそう言って武瑠に火をつけろ」信也はそう言ったきり、テレビのリモコンをつけて、新聞を広げた。
*
時間は流れ、11月も後半を迎えた。学校の2学期の成績も決まり、この時期、公立中学の生徒は、志望校の準備で忙しくなる。
「頑張っていましたよ、でもね、お母さん。この時期は皆頑張るんで、内申が変わらず、というパターンも多いんです」栄麟ゼミナールの浜中は言った。
「都立R山はあきらめろと?」美和子は言った。
「残念ですが。ましてや滑り止めを受けないなんて、学校も反対するでしょう」
「やはり私立ですか?」
「私立の推薦を撮るか、私立難関校にチャレンジするかのどとらかですね」
「主人は推薦反対ですの。チャレンジ入試を受けろって聞かないんです」美和子は泣き付くように言った。
「では、そのように学校にも言って下さい。ここから先の判断はご家庭のご判断にお任せします」浜中は匙を投げたように言った。(甘い!中2から1校に絞って傾向と対策をしている生徒がいるのに・・・)浜中はそう思ったが言わなかった。
「わかりました、先生どうかウチの子をよろしくお願いします」
「最善は尽くしますが、滑り止めはぜひ確保しておいてください、万が一の時には本当に不本意な学校しか行けなくなります、ですから2校は最低受けましょう」浜中は言った。
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武瑠がやっと勉強に本腰を入れたのは10月くらいだった。それまでは夏休みのあの事件を引きずって何にもたいして無気力になっていた。
きっかけはなんでもない。まわりの友人たちが本気になり始めたからだ。
自分が遅れている、実力がない、ということはわかっていた。ただし行きたい高校は決まった。武井さんが志望している都立H沢高校だった。H沢ならオール4がなくても入試さえしっかり得点がとれれば受かる。模試の判定はそう示していた。憧れの武井さんを見返したかった。一緒の学校でいいところを見せたかった。自宅からも近い。部活の卓球もあってそれほど強くないのもよかった。問題はどう両親を説得させるかだ。
「おれ、H沢高校に決めた」武瑠は言った。
「どうしてだ?」
「・・・・近い」武瑠はそれしか言いようがなかった。
「もうR山高校をあきらめたのか、まだ何もやっていないだろ?2月まで必死にやってそれから決めなさい。父さんはもうH沢高校に決めているタケルにはがっかりだ」信也はそう言い放った。武瑠は両親を恨んだ。(なぜ行きたい高校に行かせてくれないんだ!)
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2月の入試は失敗に終わった。11月に確保した滑り止めの私立高校だけ受かった。栄麟ゼミは塾の実績を多く出したいのか、やたらと多くの受験を勧めたが父・信也の意思で難関大学付属の1校に絞った。
武瑠は都心にあるKT学園高校に進学することになった。
父は「だから都立の中高一貫校に行っとけばよかったんだ」と美和子のしつけ方のせいにした。
母は「ママ、タケルが今度、大学入試でリベンジすることを信じる!」といって励ました。
塾は謝罪しながらも「本気になるのが遅すぎた」と武瑠の姿勢を責めた。
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桜も散って、4月になった。
武瑠は、入学式以来、学校に行かなくなった。トイレと風呂以外は部屋に閉じこもってパソコンとゲームしかやらなくなった。食事は美和子が部屋まで運ぶ。まるでテレビドラマのような崩壊っぷりであった。
そんな日々が続き6月の初め、美和子は言った。
「タケル、行きたい大学に行けばいいんだから」
「馬鹿野郎・・・」武瑠はパソコンの画面に向かって言った。案外心地よい言葉だ。
「馬鹿野郎―!」今度は思いっきり叫んでみた。
「タ、タケル、どうしたの」
「こっから出てけ、馬鹿野郎」
武瑠はパソコンで『馬鹿野郎』で検索をかけた。
検索した画面には『馬鹿野郎の意味』などが表示される。
しかし、一点気になる文字が目に入った。
『発散堂』
武瑠は気になってサイトを開いてみた。
「あなたのいらいら、解決します!」「ボロボロになったあなた!今すぐコール」
○即日お伺いして貴殿のイライラを解消して見せます!
○お話を伺い、貴殿に合わせたストレス発散を提案させていただきます!
○暴力・反社会的行為はできませんのでご了承ください。
○明朗会計! スタッフ1名につき1回1万円から+交通費
○深夜も営業! 午後8時から午前5時まで
CALL US 090ー51××―09××
画面のわきには、中古車の買い取り広告やサプリメントの広告があったが、発散堂の文字の下には写真には瓦割りをしている女性が何やら叫んでいる姿が映っている。
(ああ、こういう発散か)武瑠はなんとなくイメージがつかめた。
哲也はイケないサイトかと疑ったが、悩んだ挙句、携帯の番号にかけてみることにした。
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「はい、皆様のイライラ解決!発散堂でございます!ハッサン24、24時間受付中です!」菜月が明るき元気よく電話にでる。
「・・・て、店長、男?」武瑠は恐る恐る訊いた。
「はい? 店長でございますか?」
「・・・・男の人、お願いします」
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「話は、わかりました。よくお電話をくれましたね。まずは君にいいましょう。
バカ野郎! そして、ありがとう」御手洗は落ち着いた声で話した。
「こうして、君の考えたこと、君のたどった道を、しっかりと話してくれたことはとてもうれしいことです。立派に高校生に成長していると思われますよ」御手洗は誉めた。
「た・だ・し・・・君たち中学生ははじめて人生の決断をする時がきたわけですな。時間は皆に平等にやってきます。君はそのとき、残念ながらまわりの中学生のようには精神的に成長していなかった。君を責めているわけではありません。たまたま君はまだ幼かっただけで君のせいではありません。そういう仲間もたくさんいます。だからこれから16歳らしく、いや、もっと大人に成長していけばいいのです。ご両親の考えにも問題はありますね。でもそれよりも、いやそれ以上に、なぜ君は両親を説得できるような志望校を選べなかったのですか? ええ、言い出しにくかったからですよね。わかりますよ。これから言うことは君より歳をとった先輩として聞いてください。私が偉いわけでもありません。」御手洗は続けた。
「どうかどんな仕事がしたいか、どんな勉強がしたいか、自分1人で考えてみてください。どうか目先のいいことだけで進路を決めないでください。今すぐとは言いません。これからの高校生活で考えればいいのです。大学に行かなくたっていいです。自分の興味あることを作ってみましょう。そうして次の決断が来た時には自分で責任が取れる覚悟を持って頑張ってください。人のせいにしない。残念ながら人生にゴールはありません。ボスを倒せばまた次の強いボスがやってきます。そうして人はいくつになっても成長していくのです。楽しいですよ、つらいけど。今回の入試はまさかあなたにとって人生のゴールでしたか?スタートしただけです。さあ、ご要望を聞きましょう」御手洗は営業モードに戻る。
「・・・なにしていいかわかんないっす」武瑠はいった。
「では今から新宿に出ていらっしゃい。発散堂のサービスを提供しましょう」
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「さあ、ここなら遠慮はいりません。時間は15分。そんないらないかな?自由に叫んでみましょう」
新宿××ビルの屋上で御手洗は武瑠にマイクを手渡した。2人の後ろには身長よりもずっと大きいスピーカーがそびえたっている。
「あ!」と言った瞬間、鼓膜が破れそうになった。足もとまで震動が伝わる。
「ごーめーんーなーさーーーーい、じーーーぶーーーーん!!!」
「とーさんのーーーいいなりにはならないぞーーーー!」
「かーさんのーーー助けは、いらないぞーーーーーーー」
「もっと、つよーーーーーーくなって、武井さんにあいたーーーーーーーーい」
御手洗は微笑みながら、もっとたくさん叫ぶようジェスチャーした。
本日のお仕事、1万円なり。