シーン3/廃墟とシェイクスピア
石川町に着くころはすでに日はとっぷりと暮れていた。その家は駅から歩いて五分ちょっとだそうだ。駅を降りるとえらく寂しい。
「なんか石川町ってさびしいですね」
「うん、このへんは寂しいんだよね。中華街大通りのほうは人多いけど」
暗い小さな道から大きな二車線道路に出た。通りを渡った先に中華街の入口らしき門がある。でも、テレビでよく見る中華街とはまるで違う。第一、人が少ない。
「下北あたりなら人も多いし、ビジネスとして悪くないかもしれませんね、小劇場」
言外にこんなに人少くなくちゃ無理だよね、という気持を込めた。
「芝居やるヤツにお金無いでしょ。駄目じゃない、ビジネスとしては」
「でも食べてく算段しなくちゃでしょ?あんた来年卒業なんですよ、琳さん」
「来年じゃなくて、今やめようと思ってるんだってば」
「就職しない気まんまんですね」
「うん…」
琳さんは黙りこんだ。琳さんの横顔を見る。また、ぼっとした目をしていた。まったく。
「なんで芝居やりたいんですか?」
「ん?」
「琳さんて、別に芝居好きじゃないでしょう」
「うん」
琳さんは水絵さんを口説きたいがために演劇部に入った。芝居には興味無かった。とは言え、この人はもともと演じることに向いてる。器用でナルシストな琳さんは、芝居も結構楽しんでやってたと思う。ただその楽しさの源がほとんど水絵さんだったことは間違いない。
「なんで今更芝居やろうなんて言い出したんですか?」
「楽しいのかなぁ、と思って」
「え?」
「水絵、芝居楽しそうにやってたじゃない。その楽しさを、理解できたらいいなぁって」
あんた、それが理解できたらヨリ戻せると思ってるんじゃないだろうね。
「理解できたらどうなるんですか?」
「わからないけどさ」
わからないもの目指して一緒に芝居やらされるのかなぁ、俺たち。
「章生は芝居、好きなんでしょ?」
「まぁ好きですけど。今は、ある意味嫌いとも言いますかね」
「そうなの?」
「ええ。芝居は趣味でやってるぶんには楽しいですけど、職業にするには辛すぎるっていうか」
「どういうとこが?」
「なんて言うんですかねぇ。なんかフードファイターに食われてるような気がするんですよね」
「フードファイター?」
「うん。全身骨までしゃぶられて、もう振っても叩いても何にも出ないってとこまで喰い尽くされて、なのに『もう無いの?まだ全然おなかすいてるんだけど』って言われるかんじ?」
「なんか、すごいね、そのたとえ」
「でもそういう感じなんですよ」
中華街の西門を入ると両脇は学校だ。ああ、だから夜は人の気配が少ないのか。正面奥には中華街らしい賑やかな通りが見える。しかしそちらへは向かわず、左に折れた。ひとが少ないせいか暗いせいなのか、なんだか奇妙な雰囲気がする通りだ。なんとなく、リアリティが無い。気をつけていないと時間が止まってしまうような気がする。
「ここだよ」
かなり意表をつく建物だった。
「これ、家ですか?」
「うーん。家じゃないねぇ」
十字架は外されているが、たぶん古い教会だ。大きな、レンガ作りの三階建てくらいの建物。荒れたり崩れたりしているわけではないが、かなりの年月にわたって放置されているらしい。廃墟のような暗ーい雰囲気をかもしている。
「教会ですよね?」
「昔はそうだったんだって」
「知ってたの?」
「うん、一応説明は受けた。オヤジはオフクロとこの教会で式挙げたんだってさ。で、教会が閉鎖されたときに買い取ったんだって」
加減を知らないロマンティストっぷりも遺伝か。
「教会だったら、ステージになるかなぁ、と思ってさ。それにここ駅から近いし、道もわかりやすいじゃない。観光地でもあるし、繁華街も近い。集客しやすいのかなぁって」
それなりの計算はしてたんだ。でもここまで寂しいとどうなんだろう、集客。街灯以外の明り無いんですけど、この一角。琳さんもその辺はちょっと計算違いだったようだ。腕組みをして周囲を見回している。
「オヤジもレストランとかに使おうと思ってたらしいけど、ここ、寂しいよなぁ」
計算高いがちょっとズレてるところも遺伝なのかしら。
「なか、入ってみようよ」
「夜の教会げんざい無人、ほぼ廃墟。いやです」
「章生は怖がりだねぇ」
「あんたたちが怖がらなすぎなんですよ」
「あんたたちって」
「琳さんや、月輝雨や、陽太や」
「それに、親方も水絵もね」
琳さんはそう言うと俺の顔をのぞきこむようにした。
「怖がりなのは章生だけだ」
「・・・」
水絵さんは、たしかに怖がりではなかった。誰にも言わないでアメリカの大学へ行くことを決め、琳さんを完膚なきまでに振って、ひとりで新しい世界へ飛び込んで行ってしまった。
琳さんは、黙り込んだ俺を見て、なにか思うところあったようだ。
「章生。いろいろごめんね」
「そう思うんなら、しっかりしてくださいよ」
「うん」
言いながら、琳さんはにっこり笑った。
「俺、しっかりするから、一緒になか入って、章生」
ちょっと。もしかして、あんた、ひとりじゃ怖いの?
教会は静まりかえっている。長い時間人が入らない建物の、時間が止まったような静かさ。鍵を差し込み、重い、大きな木のドアを開ける。
「天井が高い」
「てっぺんまで吹き抜けなんですね」
入ったところは、いわゆる礼拝堂だ。開け放ったドアと両壁に並んだ長方形の窓から街灯が差しこみ、薄明るい。木のベンチが並び、正面にすこし高くなった祭壇がある。昔はあそこにキリスト像とかマリア像とかあったのかもしれない。いま無くてよかった。廃墟のキリスト像なんてホラー過ぎる。正面、祭壇上の壁には床から天井まで届くステンドグラス。上のほうが少しばかり割れている。街灯の明りを透かして、ステンドグラスは鈍く光っている。
「管理なっちゃないなぁ」
「だれが管理してたんですか?」
「チャイナタウンの不動産屋だよ。名刺持ってたかな」
「チャイナタウンに不動産屋なんてあるんですか」
「そりゃあるよ、甘栗しか売ってないわけじゃない」
甘栗じゃないだろそこは。普通、中華料理じゃないの。
琳さんは財布から名刺を取り出すと、あったよ、と言いながら俺に見せた。『朱浩然』。
「中国の人?」
「華僑だよ」
「華僑」
「本国の国籍持ってて、日本に住んで仕事してる。俺のオヤジもそれ」
そう言いながら、琳さんはスマホを操作した。不動産屋に電話する気らしい。
「もうやってないんじゃないですか?八時近いし」
「携帯にかけてる」
別に今そこまでしなくてもいいんじゃないか。
「ハオラン?琳だけど」
え?知り合い?
「ああ、いま、教会。窓、割れてるよ。すぐには使えないの?」
なんかえらく親しい感じだな。
「そうなんだ。わかった。じゃあ電話して」
通話を切る。
「知り合いなんですか?」
「知り合いというか、親戚なんだよね」
「え」
「オヤジの遠縁なんだよ。オヤジが向こう行ってからは殆どつきあい無かったんだけど」
「へぇ…。でもまぁ、親戚の方が管理されてるなら心強いですね。その人に聞いたら良いじゃないですか、劇場に出来るかとか」
「うん、そうだね。でもそれより、章生や月輝雨がここを気に入るかどうかだから」
そう言うと琳さんは天井を見上げた。つられて俺も室内を見回した。・・・ああ。
「似てるだろ?」
「ええ、似てますね」
そうだ。似ている。取り壊された古い小さな講堂に。建物はレンガ作りで、室内の壁は漆喰で白く塗られている。木製のベンチは固そうな焦茶色、よく磨き込まれ艶やかだ。レトロな形の細長い窓が壁に沿って並ぶ。アーチ型の天窓、高い高い天井。
「声、響きそうですねぇ」
「All the world's a stage And all the men and women merely players.」
琳さんが『お気に召すまま』の有名なセリフを吟じた。人生は舞台、男と女はみな、役者。シェイクスピア。演劇部にいながらアレだけど、ちょっと顔が赤くなるセリフだ。しかも原語。こういうことしれっとやっちゃうのが琳さんのハナモチならないとこだ。まぁここで日本語の爆笑面白ゼリフとか言われても引くけどさ。
俺は入口まで戻って、開いていた扉を閉めた。琳さんは奥へ歩き、祭壇に上がった。
「扉占めるとなおさら響きますね」
俺は扉にもたれたまま、檀上の琳さんに声をかける。その声が、響く。
入口から奥まで、距離にして二十メートルは無いだろう。窓から入る灯では充分な明るさは得られず、琳さんの表情はよくわからない。廃墟のような教会の中、薄い光を浴びて琳さんは立っている。これもなんだか現実味が無い風景だな。
「響きすぎるくらいだね。ちょっと音が金属的になる」
「でもお客さん入るとだいぶ音吸いますよ。それにきっと、窓にカーテンかけるでしょ?」
あれ。いつのまにか俺、ここで芝居やる前提で話をしている。
「そうだね。今はまるで洞窟のなかみたいだもんね」
琳さんは俺に背を向けると、ごく小さな声でまた、別のセリフを吟じた。囁くように、殆ど聞き取れないくらい小さな声で。洞窟に似た廃墟のなかで、その声はかすかに響く。
「Thou'lt come no more,
Never, never, never, never, never.」
おまえはもう戻ってこない、二度と、二度と、二度と、二度と、二度と。
(『リア王』/シェイクスピア)