5. 髪を切ったその女性
瞑想の雲の中にいたので、アイスコーヒーの氷が溶けきっていることにも、ましてや夏の空気を連れて店内に入ってきた女性にも、椿は気づかなかった。
その女性は椿を見とめると、一直線に椿のテーブルに近づき、そして対面に座った。
窓の外にある欅の木を見て動かない彼を見て、その女性は苦笑し、まあいいやと口の中でつぶやくと、ぬるいアイスコーヒーを手元に引き寄せて一口飲んだ。
冷え性の彼女は、真夏でも冷たいドリンクは苦手なのである。
椿の視界の隅で、何かが動いた。
先日の回想を一通り終えた椿は、タイムトリップでも終えたかの表情でアイスコーヒーのあった場所に視線を戻した。
「それで、今はどんな妄想をしていたの。もしかして私のこと。」
対面に座る、當眞朔月は、いたずらっぽく笑った。
椿は、一瞬豆鉄砲を食らったような顔になったが、努めて平静を装った。
「ああ、そうだよ」と言っても彼女を動揺させることはできないだろう。
ただ、「アイスコーヒー勝手に飲むなよ」というほかなかった。
朔月は上品で静かな笑みを浮かべる。
昔からそんな感じではあったが、何か数年前とは印象が違った。
子供っぽいが、大人っぽい。
「冷え性なのよ。ぬるいくらいが丁度いいわ。ああ、これ。実は髪を切ったの。」
椿は、彼女の高校の頃の姿を思い返してみた。
確かに、朔月は夏場でも常にセーターを着ていた。
汗ひとつかかず涼しそうにしていたので、椿は大したものだとよく思っていた。
「それにしても、ずっとセミロングだったのに。どうしてまた。」
「ついこの前に別れ話をしたのよ。
バイト先の人だったから、最近バイトも出れずに暇してた訳。
それだから、気が触れてバッサリいっちゃったのよ。」
朔月は ショートにした髪を意図的にパサリと払った。
美容院で使われるシャンプーの匂いが椿の鼻を掠める。
椿は、なぜか明け方に咲く朝顔の群れを連想した。
「よく似合っているよ。背伸びした大人感が抜けたじゃないか。」
「五月蝿いわね。ショートにして、あとで美容室の鏡をみたら、現れた顔がこんなにも童顔で、自分でも少し動揺したわ。」
寒いわね、ここが。
と言いながら、朔月は今まで髪で守られていた白透明なうなじに触れた。
そして、ぬるいアイスコーヒーを減らしていく。
返してくれそうにもないので、通りがかった店員に、椿はアイスコーヒーを注文した。
ご閲覧ありがとうございました。これで登場人物が出揃って、物語も後半戦です。