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結婚祝いの件

作者: 白洲貫太郎

10月の事務所は涼しく、エアコンが無くても快適に過ごすことができた。ワイシャツ姿で各々が仕事に当たっていたが、夏の繁忙期が過ぎ、半期決算までまだ1か月以上あるため、どこかのんびりした空気が漂っていた。

営業2課では若い鈴木の電話応対の声が響いていた。

「はい…はい…ああ御社の女性課長の苗字が変わられるんですか。中村課長から長谷部はせべ課長ですね。はい、かしこまりました。他の者にも伝えておきます…」

小太りの鈴木は淡々と電話を切った。鈴木は4月に新卒入社した新入社員でようやく先輩の手を借りず仕事ができるようになったぐらいだ。


鈴木の電話応対を聞いていた30代後半の田中係長は、中年太りした腹をことさらせり出すように背もたれに寄りかかって、鈴木に声をかけた。

「おい、丸友商事の中村課長、結婚するのか。そういう時はすぐ『おめでたいですね』って言わないとダメだぞ」

鈴木は前髪を邪魔そうに掻き上げると、すみませんと小さい声で言い、

「長谷部さんに苗字が変わると言っていました」と続けた。

田中係長はワイシャツ姿で湯呑の茶をすすると、

「今日ちょうど先方の会議でお会いするからお祝いを持っていこう」

と嬉しそうな顔して言い、続けて、

「それにしても中村…いや長谷部課長はまだ未婚だったんだな。てっきりもう結婚していると思ったよ。まあ、あのきつい性格じゃ…」と言った。


田中係長は、肩の荷が下りたような安心した表情で

「長谷部課長はヒステリックな女性で困っていたんだ。結婚して愛のある生活を送れば、それも収まるだろう。まだ正式に連絡が来ないところを見るとあまり知られていないな。サプライズで菓子折りでも持っていこう。花も持っていくといいかな」と続けた。


田中係長は入力作業をしている女子社員やFAXを整理しているパート従業員の方を一度見まわすと再び大きく背もたれに寄りかかって、教えさとすような口調でしゃべり始めた。

「いいか、鈴木。この丸友商事と言うところはとても格のある商社で本来ならば我々中堅会社が直接取引できるような会社ではないんだ。でも、我々の社長が直接何度も出向き、ようやく取引をすることができたんだ。その後も部長や課長、そして俺が良好な関係を保っているからこそ、丸友商事から世界の多彩な商品を仕入れることができるんだ」


田中係長はゆっくりと湯呑の茶を一口飲むといつになく真剣な顔つきで、

「なあ、鈴木。よく聞け。我々営業部にとって取引先との良好な関係こそ重要な財産なんだ。これは例えば工場にとって工作機械が財産であり、農家にとって畑が財産のようなものだよ」と言った。


田中係長は机に両腕を乗せ、少し前のめりになって話を続けた。

「人間関係と言うのは機械や畑のように日ごろから手入れをしておかなければ、すぐ壊れてしまう。でも、機械や畑はある程度手入れの仕方が標準化しているのに対し、人間関係だけはその人にあったやり方をしないといけない。ここが営業の難しさであり、面白さでもある」。

鈴木は無言のままうなずいた。女子社員や他のパート従業員も仕事をしながら聞き耳を立てているのが分かった。


「いくつ良好な関係の取引先を持っているかと言うのが営業マンの腕と言える。営業数値なんて後からついてくるものだ」

田中係長はそう言うと急に厳しい口調で

「社長や部長をはじめ先輩方が築いてきた、丸友商事との良好な関係をお前ら若い世代で終わらせたら、俺は許さないからな」と言った。


そして、田中係長はついに立ち上がり、拳を握り締めて

「我々はこの丸友商事との美しい関係を守り抜かなければならない!」

と強く言い切った。女子従業員とパート従業員が軽く拍手を送った。


田中係長は立ち上がったまま事務所全体を一瞥いちべつすると掛け時計に目をやり、

「まだ一時間あるけど丸友商事の会議に出かけてくるか。デパートで菓子折りとバラの花も買っていくからな」

と言うと、上着に袖を通した。


田中係長は事務所から出ていく時、全員に聞こえるように

「もし長谷部課長から電話があったらすぐ俺に回せよ。丸友商事は課長でも大きな権限を持っていて、機嫌を損ねると、すぐうちぐらいの会社は取引を切られちゃうから。それでなくても短気な人なんだから」

と声を掛けた。


一時間後。

事務所のブラインドの隙間からは西日が差し込み、忙しい午前中と違って雑談もあちこちで聞こえていた。するとノックもなく事務所のドアが雑に開き、短い髪に日に焼けた顔の佐藤が姿を現した。佐藤は30歳近くの営業マンで鈴木の先輩社員にあたる。

「ただいま」

外回りの営業から帰ってきたのだ。事務所にいた従業員は一斉に

「お疲れ様」

と答えた。


佐藤は額の汗を掌でぬぐうと、上着を脱いで椅子に掛け、鈴木の向かい側にある自分の席に腰を下ろした。カバンから飲みかけのペットボトルを取り出すと一口飲み、鈴木に向かって、

「田中係長は外に出ているのか…そう言えば丸友商事に中村課長っておっかない女課長がいただろ。取引先で聞いたんだけど、苗字が変わるらしいぞ。今度から長谷部さんになるんだって」

と言った。鈴木は、はい…と小さく頷いた。佐藤は続けて神妙な顔つきで内緒話でもするようにコソコソと言った。


「離婚したんだってさ。このことに触れるとぶち切れて、取引を切られることもあるってよ。苗字が変わったからって早とちりして『結婚おめでとうございます』なんて言うなよ」

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