壱
その朝、健一と怜治は進まない朝食をなんとか終えて部屋へ戻った。それから怜治は健一の見た夢の話を聞き出した。しかし、語る口は酷く重い。それでも怜治は辛抱強く、時に閉ざされる口を開かせるように相槌を打ち、問いを投げかけた。そうしてようやく健一は夢に見た全てを話す事が出来たのだった。
あれが本当に夢ならば、だが。
何しろ、健一の足首には月姫に掴まれた跡がはっきりと見て取れるのだから。カーテンを開けた陽の元では、おぞましいほどにくっきりと手形が見て取れる。
夢の名残にしては生々しい。
健一の話を聞き終えてから、二人の間に会話はなかった。それぞれに思うところがあって、黙って口を閉ざしている。
そんな中、怜治はベッドの上で膝を抱えている健一のジーパンの裾から覗く手形を時折ちらと見遣って、自分達が見ていたのはただの夢ではないと言う事に今更ながらに恐怖していた。
それにしても、雪野も月姫も怜治と健一の僅かばかり色の薄い瞳に興味を持っていた事を考えて、それが何故なのか考えないわけにはいかなかった。
一体、この瞳になんの意味があるのか分からないのだ。祖母からのただの遺伝としか考えた事はない。確かに虹彩異色症は珍しいが、特に何かあるわけではないのだ。それをどうして欲しがるのかが分からない。
そして彼女らは、人形だとも今でははっきり分かっていた。あの人形──雪月華の『雪』と『月』が現れたのだ。昨日の今日でその二つが現れたという事は、今夜は『華』が現れる可能性が高い。
もしそれが本当になるのだとしたら、それだけはなんとしても止めなければ、と心のどこかで考えていた。出てきたらどうなるのかは分からないが、よくない事が起こるに決まっている。二人は無言のうちにそう思った。
しかし、それをどうやって止める? 手立ては何もない。思いつきもしない。もし予防線を張れるとしたら、今夜は眠らない事。それくらいしか思いつかない。彼女らは夢を媒介にして現れるからだ。昨日は特に何かされる前に消えた。だが、健一は夢の名残を現世に持って帰っている。なら、次は目玉を抉られるかも知れない。実際、健一は目玉を抉られそうになっている。それを危うく回避しただけで、今夜は何があるかお互いに分からないのだ。
そんな事を鬱々と考えていると、不意に健一の声が聞こえた。
「あの人形、燃やしちまおうか」
突飛な言葉に、考え込んでいた頭を上げたが、怜治はそれに何も言い返せなかった。
「あの人形があるからやばいんだと思う。だったら……」
「でも、叔母さんはあの人形が婆ちゃんの形見だからって大切にしてるんだろ? それを勝手に燃やして、ばれたらまずいだろ?」
ことさら捲し立てたわけではない。普通の声音と懸念を口にしただけだったが、健一は血相を変えて言い返してきた。
「だって、何があるか分からねぇんだぞ! 今度現れたら、その時こそ何されるか分かんねぇんだ! このまま何もしないで何かが起こるのを待つつもりかっ!?」
「そりゃ、言ってる事は分かる。でもそんな乱暴な事しなくたって、人形供養にでも持っていった方がいい」
そこまで言って、「ちょっと待って」と区切ると、怜治はスマートフォンを取り出して何事かし始めた。
「何やってんだ?」
「うん、人形供養をどこでやってるのか調べてる」
その言葉を聞いて、健一は固唾をのんで結果を待った。
それから少しすると、
「結構、市内で引き取りしてるみたいだ。供養後の連絡してくれるところもあるし、料金もみんな三千円から五千円くらいだ」
画面をスライドしながら言った。そして顔を上げて続ける。
「どうする?」
「どうするって?」
「人形供養。するのか? 叔母さんに内緒で」
「人形一つくらいなくなっても気付かねぇよ。俺が人形を見つけるまで、お袋も忘れてたくらいなんだ」
大まじめな顔で言い切る。
その言葉と健一の表情を取って受けて、怜治は大きく溜息を一つつくと、
「じゃあ、一番近いところでよさそうなところに連絡してみる」
言うと、そのまま電話をかけ始めた。
健一はその様子を黙って見ていた。すると相手が電話に出たようで、人形供養がしたい旨を伝え、供養して欲しい人形の大きさや、今日中に持っていってもいいものかどうかなど聞き始める。終始神妙な面持ちで色々と話していたようだったが、最後には供養料について尋ねていた。それから、「有り難うございました。宜しくお願いします」と言って通話を切る。
「なんだって?」
健一が尋ねる。
それに緩い笑みを浮かべて、怜治は頷いた。
「今日持っていってもいいって。待ってるって言ってた。それに料金は三千円だって」
「そっか……」
「取り敢えず、この家からあの人形がなくなればもう大丈夫じゃないかな? まさか歩いて帰ってくるわけないし」
それを聞いて、
「そうだな」
そう僅かに笑みを含んで返す。
「じゃあ健ちゃん、あの人形持ってこなくちゃな。すぐに行こう」
怜治の言葉に頷いて、健一はベッドから降りた。