参
二人の規則正しい寝息だけが暗い部屋に満ちている。全く静かな室内だった。
だがそこに、けらけらと、どこからともなく笑い声が響いた。女の声だ。それが暗く静かな室内に響き渡る。そして急に明かりが灯った。
いきなりの明かりに、健一の瞼が二、三度痙攣して開く。それは、眠りの淵から強引に引き摺り戻されたようなものだった。
「……怜ちゃん?」
ぼんやりと怜治の名を呼ぶが、それに返る返事はない。
目を擦りながら起き上がってみると、ベッドの端に始めて見る女の姿を見つけて声を詰まらせた。
陶器のように真っ白な肌。切れ長の色気を漂わせる瞳。薄い唇にはうっすらと紅が引かれ、濡れたような艶やかな黒髪は流れるように背を渡っている。そして薄黄色の振り袖を身に纏い、着物の中には蝶がひらひらと泳ぐように飛んでいた。しかし、女の年の頃はまるで分からない。十代の少女のようにも、成人した女性のようにも見える。
あまりの事に声を出す事も、身動きする事も忘れた健一に対し、女は口を開いた。
ゆっくりと口元だけを笑ませて。
「あたくしは月姫です。何卒、よしなに」
口元はこれでもかとばかりに笑っているのに、切れ長の目はまるで笑っていない。健一を見詰める黒目は硝子玉のように無表情だった。
健一は怜治の夢の話を思い出して、途端にぞっとした。それと同時に、月姫と名乗った女が身を乗り出して健一に迫る。
健一は慌てて後退ったが、すぐにヘットボードにぶつかってしまった。
そんな健一に女はじりじりと迫ってくるばかりだ。
「うわっ! こっちくんな! 怜ちゃん、怜ちゃんっ! 起きてくれ!」
震える声で必死で怜治を呼んでいると、
「……誰?」
女がふわふわとした譫言のような声を出した。その時にはもう、鼻がくっつくくらいに顔が迫っていた。健一の顔面に、月姫の凍てつくような呼気が吹きかかる。それなのに、健一は目を閉じる事が出来なかった。逸らす事すら出来ない。その考えが思い浮かばなかったのだ。
ただじっと、間近にある硝子の目玉を見詰めるのみ。
月姫は小さな吐息を零すと、一言呟いた。
「貴方の左目、綺麗」
呟いたかと思ったら、次の瞬間には手をそっと伸ばしてくる。
そこでようやく健一は怜治の夢の内容全てを思い出した。怜治は言ったのだ。目を閉じたら雪野が消えたのだと。
それを思い出して、月姫の手が顔に触れる前に目を固く閉じた。そしてじっと待つ。月姫が雲散霧消するのを。
と、冷たく細い指先が健一の左目の目元に触れた。
──消えてない!
一瞬でパニックに陥った。怜治の時には消えたのに、自分の時には消えないのだ。そこで脳裏にある事が思い浮かぶ。怜治が雪野に遭遇したのは夢の中だったと言う事だ。だがこれは夢ではない。だから目を閉じても消えないのだと。
思わず目を開ける。その途端、
「この目、あたくしにちょうだいな」
恐ろしい一言が月姫の口から発された。
下瞼を触られて、反射的に健一は目を瞑った。すると、瞼をぺたぺたと触ってくる。そして、目玉の形を探るように動き始めた。
そのうち、ぐっと指に力が入り、目玉に圧がかかった。
混乱と恐怖のうちに、健一は咄嗟に月姫の腹を力任せに蹴飛ばしていた。
途端、線の細い悲鳴が聞こえ、続いてどたんとフローリングの床に落ちる音が響いた。
その音にはっとして目を開ける。見ると、月姫がベッドの足下の方へ転がり落ちて、起き上がろうとしているところだった。
だが、おかしい。怜治の方に目を遣ってみたが、怜治は何事もないかのように眠り続けているのだ。健一の叫びにも、月姫がベッドから転げ落ちた音にも、部屋の明かりがついた事にも気付かずに。
そこに声が響いた。
「酷いわ。あたくしはその左目が欲しかっただけなのに」
「な……、なんでだっ!」
叫ぶも、声が震えていた。気がつくと、奥歯ががちがちと鳴っている。身体も震え上がっていた。
そんな健一に月姫がまた近寄ってくる。ベッドの足下に左手と右膝を乗せて這い上がってきたのだ。
「その目が欲しいの。けれど、お婆様はくださらなかった。あたくしにはくださらなかった。だから自分で手に入れるしかないの。ちょうだいな」
言って、右手を差し伸ばしてきた。その白く細い指先がぐねぐねと蠢く。
その様に慌てた。息を飲み込むように吸い込むと、健一は月姫の手を蹴り付けるように足をばたつかせた。すると、ばたつかせた左足首を月姫の冷たい右手に掴まれる。
「いけない子だわね」
月姫は細い線にそぐわず、ぎっちりと力強く足首を掴んで離さない。
「は、離せ! この化け物女!」
叫んで、闇雲に足をばたつかせたが、月姫の細い指は足首に食い込んで少しも離れる気配がなかった。
右足で月姫を蹴り付けようとした時、
「あら?」
急に月姫が何かに気付いたように、左足から手を離した。それに合わせて健一は足を引っ込めたが、次の瞬間、ぞっとするものを見る事になった。
月姫がベッドの上から、眠る怜治に目を移していたのだ。
「この子は誰なのかしら?」
今気付いたとでも言うように、月姫はベッドから身を乗り出した。
ヘッドボードにへばりつくようにしながら、健一は大声を張り上げた。
「お前には関係ない! 近付くな!」
そんな言葉にもかかわらず、月姫はベッドを降りようとする。
「怜ちゃんに近付くな!」
「れい、ちゃん……?」
そこではっとした。迂闊に怜治の名を月姫に教えてしまった事に気付いて。
「お姉様が欲しがっていたのはこの子の目なのかしら」
ふわふわとした言葉を呟き、唇に弧を描きながら月姫は感情のない硝子の目玉を怜治に向ける。
「貴方が駄目なら、この子の目を貰う。……ねぇ、れい、ちゃん?」
そっとベッドを降りて、怜治の足下に座った瞬間、健一はベッドから飛び出していた。
「怜ちゃん!」
勢いのままに怜治の頭に頭をぶつける。途端、目の前に星が散ったが、構わなかった。怜治の頭を掻き抱くように月姫から怜治を護る。
「い……ってぇ。何……?」
健一の耳に怜治の寝惚けた、それでいて、不機嫌な声が響いた。
「怜ちゃん、目が醒めたか!」と、そう言いたかったが、何故か健一の舌は上手く回らなかった。頭の奥が酷く重く、痺れているようだった。その重ったるい頭を巡らしてみると、朝の光が遮光カーテンを僅かに透かしている。
そして、自分の姿に驚いた。
ベッドから転げ落ちて布団に頭をぶつけ、怜治の肩から胸にかけて身体が覆い被さっていたのだ。
それに、怜治に興味を示していた月姫の姿もどこにもない。辺りはしんとしている。第一、照明すらついていなかった。
「健ちゃん、ベッドから落ちたのか? 寝相悪いなぁ」
どこか呆然としている健一の耳に、怜治の不機嫌な声がもう一度被さった。
その声にはっとして立ち上がり、もう一度辺りを見回すが、室内には特別変わったところはない。怜治も無事で、誰かがいた形跡もないのだ。
その事に安堵して、健一はベッドにどすんと腰を下ろす。知らず、溜息まで漏れていた。
「どうした?」
様子のおかしな健一に、起き上がった怜治が頭を掻きながら声をかけた。
怜治の一言に、健一は鈍い反応を示す。
「ん? いや、夢だ。……夢、見ただけだ」
「夢?」
だが怜治は、ふと真剣な顔になる。
「まさか、女の出てくる夢じゃないよな?」
「なん、で?」
「だって、昨日の今日じゃないかっ。昨日は俺が変な夢を見た。今日は健ちゃんが見たんじゃないのか?」
そこで、もう一度健一は溜息を落とした。それから口を開く。
「うん、変な夢見た。……でも、ただの夢だった。変な夢見て、ベッドから落っこちて目が醒めた」
「そうじゃないだろ? さっき健ちゃん、俺を見て凄い顔してたぞ」
怜治は酷く冷めた目で健一を見ていた。
その目から、健一は思わず視線を逸らし、両手を膝の上で組んでいた。それでも怜治は組まれた両手の上に手を置き、尚も聞いてくる。
「なぁ、健ちゃん。正直に言ってくれよ」
そこで急に怜治の声が上擦る。
「なんだ、これ……?」
その声を聞いて、健一は怜治に目を遣った。怜治の目は健一の足下に向いている。それを怪訝に思って、健一は自分の足下に目を落とした。
途端、全身が粟肌立つ。
左の足首に赤紫色の跡があったのだ。薄暗い中でははっきりとしなかったが、それは何故か手の形をしていると思った。その為か、カーテンを開けて確かめるのが恐ろしくなる。
「健ちゃん、これ、なんだよ」
それに答える事は出来なかった。あまりにも恐ろしすぎて。未だに月姫の冷たい手がそこを掴んでいる気がしてならい。
慌てて左足をベッドの上に引き上げ、足首を擦った。だが、跡は全く消える気配がない。それどころか、濃くなっていくように感じられた。
必死に痣らしきものを擦っていたが、その時突然、目覚まし時計がけたたましい音を立てた。健一も怜治もびくりと身体を跳ね上がらせた。そして同時に、机の上に置いてある目覚まし時計に目を遣る。
瞳に恐怖の色を乗せて。