五
それから健一が風呂から上がってくるまでゲームをして、交代でシャワーを浴びて、怜治はそのまま寝る事にした。健一はゲームをすると言うから、照明はつけっぱなしにしてある。寝るには明るすぎるが、しかしゲームの音は聞こえてこない。健一がヘッドフォンをつけているからだ。
部屋に響くのはコントローラーを操作する無機質な音だけ。それでも瞼越しの光を遮りたくて、怜治は腕を顔の上に持ってくる。
そうしていると、いつの間にか夢現を行き来するようになった。見る夢は意味不明なものばかり。益体もない夢を見ているかと思えば、時々、足下にいる健一の悪態をつく小声が聞こえてきたりと、怜治はどうにも深い眠りに落ちる事が出来ないでいた。
不意に辺りが暗くなる。意識の外側で、『健ちゃん寝るのか』と思った時、腕と顔をくすぐる何かを感じた。
なんだ? と思う。と同時に、顔に冷たい空気が一定間隔で吹きかかる。そんなものを感じているうちに夢現を彷徨っていた意識が冴えてきた。ゲームに飽きた健一が質の悪い悪戯をしているのではないかと不快な気分で薄目を開けると、顔の真上に陶器のような白い女の顔があった。
瞬間、身体が固まった。叫ぼうともしたが、喉からひゅうっと変な音が漏れ出ただけで、それどころか身体自体が動かない。指の一本も動かないのだ。それなのに心臓だけがばくばくと煩く早鐘を打つ。心臓が脈打つ度に迸る血潮が耳鳴りを促した。
そして腕と顔をくすぐっているのは、女の濡れたような艶やかな黒髪だと知る。それがばっさりと怜治の上に覆い被さっているのだ。
女は冷たい吐息を怜治の顔に吹きかけてくる。
否。
顔が間近にありすぎるばかりに、女が呼吸をする度に吹きかかってくるのだ。
それに女の瞳。まるで硝子玉のようだった。さっきから何度も瞬きを繰り返すが、そこにはなんの感情も浮かんではいない。そのせいで、目玉が無機質な硝子玉のように見えるのだ。
その黒目がちの二重の目がじっと怜治を見詰めている。
その様を、怜治は目を瞑る事など忘れてしまったかのように、瞠目しているしかなかった。叫ぶ事も動く事も出来ない。足下でゲームをしている健一は、女の存在にすら気付いていなかった。
女の存在を凝視するのは怜治のみだ。
冷たい呼気と硝子玉の瞳が怜治を恐怖に陥れる。さっきから叫び出したくてどうしようもないのに、喉は強張り、変な呼吸が掠れて漏れるだけだ。そんな音は、ゲームの音を垂れ流すヘッドフォンをしている健一にはまるで届かない。
怜治は肌を粟立てながら、じっとりと粘つくような汗を身体全体に浮かべている。
女の硝子玉の瞳を見詰めながら、怜治の呼吸は徐々に浅く速くなっていく。喘ぐような息遣いになるが、そのせいで空気が喉を擦って痛くなってきた。喉も口の中もからからだ。唾さえ湧いてこない。
その時、ふと女がゆっくり身を起こした。それに伴って、長い黒髪がずらぁと怜治の身体の上を這う。見目に違わず柔らかで滑らかな感触だったが、しかしその感触に、逆に怖気が走った。全身の産毛がちりちりする。
怜治の枕元に座り直した女は、薄青い振り袖を身に纏っていた。所々に入っている模様のようなものは金魚だろうか。それが着物の中で泳いで見えた。その証拠に時々、着物の表面に波紋が立つ。
と、急に女が熟れるような真っ赤な唇に微笑みを浮かべた。だが、目は全く笑っていない。口元だけに弧を描くように笑みを結んだのだ。
それは異様な表情だった。なんの色もない硝子玉の瞳に口元にだけ笑み。
まるで能面のよう。
そして何を思ったのか、突然その場に三つ指をついて口元の笑みを消さずに声を出す。
「わたくし、雪野と申します。どうぞ、よしなに。……貴方様はお婆様と同じなのですね」
女が見目によらず落ち着いた低い声で喋る度、怜治に冷たい呼気が吹きかかる。
「そう、同じ。片目だけ、ほんの少し色が薄い。月明かりに照らされたら、きっと水晶のように澄んで見
えるに違いありませんわ」
女の言う通り、怜治の右目は言われないと分からないほどではあるが、色素が薄かった。
所謂、虹彩異色症なのだ。だからと言って、視覚に異常があるわけではない。普通にものを見る事が出来る。
だが何故か、月を眺めると右目はほんのりと色合いを変え、淡く光るのだ。これは遺伝だった。祖母から母へ、母から怜治へと続く遺伝。これと同等の事が健一にも見られる。それは文代伯母から伝わった遺伝だ。
ただし文代伯母と健一は、右目ではなく左目の色が違うが。
だが怜治はそれどころではなかった。この薄気味の悪い女は一体なんだ、と思うのだ。
陶器のように真っ白い肌に血の気はなく、硝子玉の瞳。熟れて弧を描く唇から漏れる呼気は酷く冷たい。背まで伸びる黒髪は、濡れているように艶やかで素直だ。しかし女の年の頃だけが分からなかった。二十代にも見えて、それでいて十代の少女のようにも見える不思議な雰囲気を纏っている。
だが確かな事は、この女がこの世の者ではないと言う事だ。
怜治は確実に女を──雪野と名乗ったこの女を恐れている。恐怖で身が縮こまりそうなのに、それなのに目が離せない。その間にも、粘った汗がこめかみを伝って耳の方へと流れていく。
汗が髪の中に吸い込まれた時、雪野が硝子玉の目をぱちぱちと瞬かせた。相変わらずその瞳にはなんの色も浮かんではいないが、唇がそっと開く。
「その瞳、わたくしに入れてみたらどうなるか分かります?」
言って、雪野は白い歯が見えるほどに笑みを深くした。
それとは真逆に、怜治は戦慄する。
雪野の手がそっと顔に伸びてきたのだ。それに合わせるように、振り袖の中の金魚が撥ねる。
その様に、怜治は思わず目を硬く瞑った。
──目を抉られる!
咄嗟にそう思う。
雪野の吐く息と同じくらい冷たい手が顔に触れると思ってその時を待ったが、意に反して雪野の手はいつまで経っても顔に触れる事はなかった。
そして急に怜治は息を深く吸い込んでいた。無意識のうちにそれをゆっくり吐き出しながら、そうっと目を開けると、そこにはなんの姿もなかった。誰の姿もないのだ。いた痕跡すらない。
それどころか、そもそもそこには人が座れるほどのスペースはなかった。
目の前にあるのは本棚だったのだ。
もう一度大きく息を吸い込んで、同時に跳ね起きる。
全身汗まみれだった。それに、頭の奥が痺れるように酷く重い。気付けば荒く息を繰り返していた。
怜治がいきなり起き上がった気配に、それまでゲームに熱中していた健一が振り返る。
「あ、ごめん。もしかして起こしたか? 怜ちゃん寝てるのに叫んじまった」
健一がヘッドフォンを外しながら、ばつも悪そうに言い遣る。
それを聞きながら、怜治は目を閉じて深呼吸していた。そのまま呼吸を整えようとしたが、なかなか元には戻らない。
様子のおかしい怜治を見て、健一が重ねて声をかける。
「どうした? なんか汗だくだけど」
その言葉に怜治はぎゅっと眉を寄せた。それから目を開けて、もう一度雪野がいた場所に目を遣るが、そこにはやはり人の座れるスペースなどなかった。
それを確かめてから息を吸い、喉輪の汗を拭いながら、
「夢、見てたみたいだ。……変な夢」
溜息を落とすように健一にそう返す。
「夢って、怖い夢か?」
その言葉に、今度は訝しげに眉を寄せた。
「なんで?」
「だって、そんな汗だくになるような夢って言ったら、大体怖い夢だろ? なんか酷い顔してるぞ」
「……怖いって言えば怖いけど、嫌な夢だったな」
思い出してもぞっとする、とは口に出さなかった。心の中だけで、ぽつりと呟く。全ては夢だったのだと自分に言い聞かせて。
夢でなければ説明がつかない事が多すぎる。
振り袖の模様が動くのは現実的ではない。呼気が冷たいのもおかしいし、表情だって能面のようだった。
そもそもが、どこにも人の座れる場所などなかったのだから。
「嫌な夢か……。俺が独り言呟いたり、コントローラーがちゃがちゃやってたから、よく眠れなかったのかもな」
言って、健一は時計を見る。
「もう二時か。そろそろ寝るかな。……怜ちゃん、汗かいて気持ち悪くないか? 風呂行ってくる?」
その言葉に首を振る。
「いや、もう遅いしいいよ。明日の朝、シャワー貸して」
「いいよ」
快く頷くと、健一はゲームを片づけてテレビの電源を消す。それからベッドに移って、「電気消すぞ」と言い置いてから明かりを消した。
豆電球も消えて、開きっぱなしの窓を覆う遮光カーテンの向こうから街灯の明かりが僅かばかり漏れ入る暗い部屋で、怜治は改めて横になった。パジャマ代わりに着ているTシャツがじっとりと汗を吸って気持ち悪いが、それを無視して腹までタオルケットを掛ける。そして目を閉じた。
するとすぐに瞼の裏に雪野の能面のような顔が浮かんだ。たった今目にしたようにはっきりと。
まだ雪野が硝子玉の瞳で見ている気がして、それを思うと恐ろしくなった。自然と肌が粟立つ。
ほぼ真っ暗な中で思わず目を開ける。けれど、暗闇に慣れた目に映る特別なものはない。寝転がったまま首を巡らせてみるが、遮光カーテンを透かして街灯の明かりにうっすらと浮かび上がる家具の影以外には何もなかった。
暫くきょろきょろと辺りの様子を窺っていたが、そのうち健一の寝息が響いてきた。
それはとても安らかな寝息だった。
怜治はそれを聞いて羨ましく思った。眠ろうと意識してみても、瞼の裏にはまだ雪野の残像が残っていて上手く眠れないからだ。
つい壁際を見る。そこにはまず本棚が置かれ、その向こうにようやく壁とドアがある。けれど雪野が座っていた場所は、確かに本棚のある場所だった。壁際ではない。そこからでは怜治を見下ろす事など出来ない。手を伸ばしてみても本棚しかなく、知らず、はぁと溜息が漏れた。
何度か溜息のような息をついて、そのうち覚悟を決めたように目を瞑った。
未だに雪野のあの硝子玉のような目を思い出したが、それを振り払って眠るように努める。意識の隅で、振り袖の中で泳いでいた金魚が幾度か思い浮かんだ。しかし、それを頭から追い出した。
そんな事がある筈もないと自分に言い聞かせて。
それから何度か寝返りを打った。落ち着かない気分を落ち着かせるように。
そうして気がつけば、窓の外は明るくなり始めていた。遮光カーテンの向こうに朝日が昇ってくるのが分かる。時間が経てば経つほど、室内の気温も上がってくる。寝苦しさは増すが、うっすらと明るくなった部屋の中で、いつしか瞼も重くなっていった。





