四
「健ちゃん!」
思わず走り寄った。
「目、目は……っ?」
「駄目だ……完全に瞼を縫いつけられてて、開かない。……痛ぇ……」
そう言う間にも、指の間から真っ赤な血が滴り落ちる。
「兎に角、下に下りよう。ロッカーの中にカッターが入れたままなんだ。もしかしたらこの学校にもあるかも知れない。いや、きっとある。それで糸切ってやるからっ」
その声に被さるように、月姫の声が響いた。
「その糸は普通の刃物では切れなくてよ」
肩越しに振り返ると、無表情の月姫と目が合った。
雪野から、怜治と健一の目は『月の瞳』ではない事を聞いたのだろうか。もう笑う気配すらなくなっていた。さっきの雪野と同じ、何を考えているのか分からない情をしている。それは華緒も同じだった。
今まで消した事のない笑みは今、彼女達から完全に消え去っていた。
もう二人には興味すらないという風に。
その女達を見据えて、怜治は言葉を放った。
「どうやったらこの糸を切れる」
「無駄。どうやったって切れないわ。その子、一生そのままね」
華緒が突き放すように言う。
その言葉に怜治の顔がみるみる青ざめた。
「一生? じゃあ、健ちゃんはもう目が見えないって言うのか!」
「そうよ」
怜治を見もしないで華緒は言い放った。そして雪野に声をかける。
「姉様、行きましょう。月の瞳はまた探せばいいわ」
月姫と共に雪野を支えて、華緒は滑るように移動し始めた。
その後ろ姿に、怜治は咄嗟に言葉を投げつけた。
「待てよ、お前ら! こっちはお前らにいいだけ振り回されたんだ。今度はこっちに付き合って貰うぞ」
怜治の強い言葉に雪野が振り返った。
「……なんですかしら?」
「ちょっと待ってろ」
言って、健一に「歩けるか?」と小声で聞く。
それに対し、健一は頷いてみせる。怜治の手を借りて、蹌踉けながらも立ち上がった。そして怜治に肩を抱かれて、導かれるようにゆっくりと歩き出す。
怜治は人形達を追い越すと、「ついてこい」とだけ言って、あとは目の利かない健一の歩く速度に合わせて先に導いた。
階段でも怜治は健一に、
「ここから階段だ。数えながら下りるからな。……一、……二、……三……」
そうしてゆっくり下り始める。踊り場で曲がる時にも声がけするのを忘れなかった。
その後ろを人形達は黙してついてくる。屋上から四階まで下りるのに、優に五分はかかっただろう。それでも人形達は誰も不平不満は口にしなかった。ただ淡々とあとをついてくるだけだ。
階段の踊り場から廊下に出ると、そこでもまた怜治は健一に声をかけた。
「ここからずっと廊下だ。ただ歩けばいいから。音楽室まで頑張ってくれ」
そこで健一が怪訝そうな声を出す。
「音楽室? 戻るのか?」
「いや、用があるんだ。だから、そこまで、な?」
「……分かった」
釈然としない様子を見せたが、そう答えた。
階段から音楽室まで、また十分近くかけて健一は歩いた。
そして、とうとう音楽室の前まで来た時だ。
歪な楽曲が小さく流れ出る、白い靄で覆われた音楽室の中から声が聞こえてきた。
『雪野、月姫、華緒、入りなさい』
その声に、人形達は雷に打たれたようにびくりと震えて立ち竦んだ。
同時に、健一も反応する。
「婆ちゃん……?」
「え?」
健一の言葉に、怜治は驚きに目を見開いた。思わず靄の奥へ目を向ける。けれど、微かな人影しか見えない。
『「雪月華」、何をしているの? 早くこちらへ来なさい』
静かだが、強い響きの声だった。
それに逆らう事が出来ないのだろうか。人形達は音楽室の真っ白い靄の中へと進んでいった。
その時、怜治は奇妙な感覚に囚われた。人形達の何かが違ったのだ。初めは何が違うか分からなかったが、彼女らが靄の中に完全に消えてから気付いた。
歩いていたのだ。
それまでは地を滑るように移動していた人形達が、急にしずしずと歩いて音楽室の中に入っていったのだ。それが怜治には奇妙に映ったのだった。
そして、人形達が靄に飲まれた途端、扉がばんっと大きな音を立てて閉じた。
思わず怜治は声を上げていた。
「本当に婆ちゃんなのか? おい、婆ちゃん!」
その怜治に、健一が声をかける。
「あの声、婆ちゃんだ。間違いねぇ。一緒に住んでたからよく覚えてる」
しかし怜治にはぴんと来なかった。祖母は寝たきりで、怜治にとっては会う機会が少なかった。だから声も忘れてしまっていたのだ。
今ひとつ納得できなかった怜治の耳に突然、ぎゃあああっ、と言う悲鳴が飛び込んできた。それも三連続で。
その叫びには健一も驚いたようで、身体がびくっと一瞬震えた。
怜治は驚きのあまり、扉に飛びついていた。
「婆ちゃん!」
扉を開けようとした時、
『開けては駄目っ』
鋭い声が届いた。
その鋭さに、扉の取っ手にかけていた手を思わず引いてしまう。
それから暫くは、歪んだ楽曲だけが小さく流れてくるだけだった。
そんな中で、健一も怜治も次に何が起こるのか固唾を飲んで待った。
待った挙げ句、扉が唐突にがらりと開く。
音楽室の中に立ち籠めていた靄は晴れ、気付けばそこは和室になっていた。それも、今では物置部屋になっている部屋が整然として存在していたのだ。それにさっきまで歪んで聞こえていた音楽はなりをひそめていた。どんな音もそこには存在しない。
ただ和室の中には布団が敷かれ、その上に祖母の美津代が浴衣の寝間着姿で正座している。その両隣には、人形まで正座していた。
ただし、瞑った両目から夥しい血を流して。
よく見れば、祖母の手には血塗れのノミが握られていた。
『この子達は人をあやめたわ。二度とそんな事が出来ないように、目を削り取りました』
祖母は平然として言い遣った。そして続ける。
『この子達を連れて行きます。二人にはお願いがあるの。「雪月華」を私のところに持ってきて。必ずよ。忘れないでね』
あまりの事に健一も怜治も言葉を発せなかった。
そして健一の様を痛ましげに見遣り、
『健一、酷い目に遭わせたね』
労りある言葉をかけてきた。それから美津代は手を差し出す。
その掌の上には糸切り鋏があった。
『雪野、これをあの子達へ』
美津代の隣に座っていた雪野が目も見えない筈なのに、その手にある糸切り鋏を取り上げると二人の元へやってくる。そして怜治に向かい、鋏を差し出してきた。
「婆ちゃん、これ……?」
『黒い糸は私の髪。それを切るには私の鋏が必要なの。怜治、それで健一の糸を切ってあげなさい』
怜治は差し出された鋏と美津代とを見比べ、鋏を手に取った。それからその鋏を健一の目元に持っていく。
「健ちゃん、痛いかも知れないけど、ちょっとだけ我慢な」
その言葉に健一は一度小さく頷いて返した。
そして怜治は、そっと美津代の髪だと言われる黒い糸を切っていった。
ぱちん、ぱちん、と辺りに糸を切る音だけが響く。
糸が一本切れる度に、健一の瞼は震えた。同時に、針と糸を通された傷はすぐに癒えて、切られた糸は跡形もなく消滅していく。
怜治は時間をかけて、全ての糸を丁寧に切ってやった。全ての糸を切り終えて、
「健ちゃん、目、開けられるか?」
怖々と声をかける。
その言葉に、健一はゆっくりと目を開けた。目を開けて、恐る恐るぱちぱちと目をしばたたかせる。
その様子に、怜治はほっと息を落とした。言葉もない。
自分を心配げに見ている従兄弟を見遣り、目をしばたたかせながら健一は瞼を触った。
二人の孫の様子を見て、美津代は声をかけてきた。
『怜治、鋏を雪野に』
言われて振り返ると、両手を揃えて差し出した雪野がいた。その手に怜治は言われたまま鋏を置くと、女はすっと下がっていき、美津代に鋏を返してその隣に元通り正座した。
「婆ちゃん……」
二人の声が重なる。
『辛い思いをさせてごめんね』
そこで美津代はようやく微笑んだ。
『……さぁ、もう夢から醒める時間。「雪月華」を私のところに持ってくるのを決して忘れないで』
それだけを言い残すと、再び音楽室の扉は閉ざされた。
ゆっくりと。
何が起こったのか、怜治にも健一にも分からなかった。理解が追いつかぬまま数秒経ったあと、健一が音楽室の扉に飛びついた。
「婆ちゃんっ!」
がらっと扉を開け放つ。





