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雪月華  作者: 杏月飛鳥
月の瞳
27/39

 屋上の扉前まで行くと、健一が扉に耳をつけて中の様子を窺った。扉の向こうからは、笑い声も話し声も聞こえない。身を起こし、



「誰もいないみたいだ」



 怜治にそう伝える。そして把手(はしゅ)に手をかけて、ゆっくりと回した。

 扉は細く金属音を立てたが、その音に反応する者は誰もいないようだった。


 校内に入ると、また昼間に戻っている。外を振り返れば夜なのに、全く不可思議としか言えない。

 そこに再び足を踏み入れ、二人は扉を静かに閉めた。

 それから階段を下りていく。音楽室は四階だから、そのまま廊下を抜ければいい。


 階段を下りて四階まで戻ると、廊下を窺い見る。見える範囲では、やはり誰の姿もなかった。健一はそっと足音を立てないように一歩を踏み出す。そのあとに怜治も続いた。


 二人は足音を殺しながら、恐る恐るゆっくりと進む。

 と、突然、怜治は背後に引き倒された。短い叫びが上がる。


 それに振り向いた健一は、背後から羽交い締めにされてしまった。

 怜治を引きり倒したのは華緒だった。

 と言う事は、健一を羽交い締めにしているのは月姫だ。己の両脇を見れば、薄黄色の袖が目に入る。


 健一は拘束から逃れようと暴れたが、月姫の腕はびくともしない。月姫の方が健一よりも一回りも背が低いというのに、その力は酷く強かった。


 そして、引き倒された怜治の上に華緒がのし掛かる。怜治も暴れていたが、片手で頭を押さえられて、動きがままならなかった。それでも頭を押さえ付けている手を引き剥がそうと、両手に渾身の力を込める。



「動いちゃ駄目。雪野姉様が貴方の目を狙っているから、それを防いであげる」



 あどけなさを残した華緒の声が言う。



「何言ってる! 離せ!」



「雪野姉様はかんかんよ。顔を傷つけられたからって、仕返しをしようとしてるわ。貴方を八つ裂きにしてでも名前を聞き出すつもりらしいの」



「……え?」



 そう漏らしたのは健一だった。



「それは……っ、怜ちゃんは関係ない! あれは俺がやった事だ!」



 月姫が冷たい吐息でふわふわと健一に語りかける。



「知ってる。だからこれは、貴方に対する見せしめでもあるの。あたくし達だって目が欲しいんですもの。でも雪野お姉様が少しでも溜飲を下げてくれれば、あたくし達にも血が通う。片方の目だけでもいいの。それで我慢するわ」



巫山戯(ふざけ)ろ! この腕を離せ!」



 叫んで藻掻くも、やはりびくともしない。


 その間に、華緒は(たもと)から針を取り出していた。針には黒い糸が通されている。吐息で笑って、華緒はそれを怜治の顔に近付けていった。



「これで、瞼を縫いましょう。そうすれば、雪野姉様だって簡単に目玉を抉り出せない。針に通してある糸は特別なものだから」



「やめろ!!」



 華緒の言葉にぞっとして、健一と怜治の声が重なった。

 だが、それに頓着する様子も見せずに、瞼に針を近付けていく。


 怜治は咄嗟にその手を掴んでいた。押し退けようと力を込めるが、全く意味のない事のように針先はどんどん近付いてくる。


 全く生きた心地がしなかった。瞼を閉じる事も出来ずに、それどころか瞬きさえ出来ず、怜治は近付いてくる針の鋭さを凝視するばかり。これから起こる事を想像すると、自然と肌が粟立つ。


 その様を見て、健一を取り押さえている月姫がけらけらと笑った。

 それを耳元で聞きながら、



「やめろ! 化け物!」



 健一が叫ぶ。

 その健一を振り返り、華緒はあどけない声で言い遣った。



「この子が傷つくのは嫌? だったら貴方の目をちょうだい。そうすれば、この子は解放してあげる。……大丈夫よ。片目でも生きていける」



「名前を……教えればいいのか?」



 どこか覚悟を飲んだ声音だった。

 それを耳にして怜治が叫ぶ。



「駄目だ、健ちゃん!! やめろ!!」



 しかし健一は怜治の言葉を無視して、ゆっくりと言葉を吐き出した。



「俺の名前を言ったら、怜ちゃんは助けてくれるんだな? 目を奪わないな?」

「うん、私はね。月姫姉様はどうするか知らないけど」



 あっけらかんとした返答だった。

 その言葉に被せるように、月姫が冷たい息を吐き出しながら笑い含みに言う。



「あたくしも目が欲しいわ。華緒がこの子の目を貰うなら、あたくしはその子の目を貰う事にする。それであたくし達は人間に近付けるんですもの。大丈夫。なんの力も持たない目はいらないから残してあげます」



「それじゃあ、どっちにしろ俺も怜ちゃんも片目を失うって事じゃないか。なんの交換条件にもなってないぞ」



「そう言えば、そうね」



 月姫がけらけらと笑う声が廊下に響いた。

 そこに突然、一つの声が届く。



「お前達、そこで何をしているのかしら」



 地を這うような低い声だった。まるで怒りを(こら)えているような。

 その声に、月姫も華緒もびくりと身体を震わせた。


 健一の背後で月姫が振り返る気配がする。華緒も肩越しに振り返ったまま、月姫のその向こうに目を遣っている。


 そして恐る恐るといった風に、月姫が声の人物に声をかけた。



「雪野お姉様……」

「月姫、華緒。まさか、わたくしに無断で目を奪おうとしていたのかしら?」



 それに月姫も華緒も何も言わなかった。

 彼女らがさっき言っていたように、雪野は健一のした事に対して酷く立腹しているようだった。

 健一もなんとか首だけで振り返ってみる。

 廊下には、初めて情らしい情を晒した雪野の顔があった。


 ひび割れた雪野の面にあるのは憎悪。柳眉を跳ね上げ、両眼には憎々しげに怒りの色が激しく燃え立っている。


 雪野がすぅっと健一の前に移動してきた。そして健一を真正面からめ付ける。

 健一もまた雪野の両眼をめ付け、そして、



「よう、べっぴんさん」



 言って、口元を皮肉に笑ませた途端、横っ面を思い切り張られた。

 その拍子に雪野のひび割れた肌が更に崩れる。



「お前のせいで、わたくしは……わたくしはもう人間になれなくなったわ! お婆様がいない今、もうわたくしを直してくださる方がいないんですもの!」



 健一は殴られた時のまま、僅かに顔を俯けて聞き返した。



「お婆様って、婆ちゃんの事か?」



 目だけを雪野の方へ向ける。

 けれど雪野は怒りに震える吐息を零すだけで何も答えない。答えない代わりに月姫に命じた。



「いい事? しっかりと押さえているのよ。暴れても逃げられないようにね」

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