参
正直、不安も恐れもあるが、あの人形達に質したい事があるのも事実だ。どうして自分達の目に執拗なまでに執着するのか。そして、もし目を手に入れたら彼女達はどうなるのか。分からない事だらけなのだ。だからそれが知りたかった。知ってどうするかと問われれば、その答えはない。だが、知りたいと思う気持ちは多大にあった。
暫し沈黙して、顔を上げる。
と、そこに健一の姿はなかった。それどころか健一の部屋ですらなくなっている。そこは埃っぽく、薄暗い場所だった。
怜治が座っているのは、湿り気のある体育マットの上だった。
目をしばたたかせて辺りを見回す。
また飛ばされた、と頭の隅で思う。
「何が一体どうなってるんだ……っ。なんだって言うんだよっ」
知らず、怜治は言葉を吐き出していた。
今いる場所に見覚えはないが、ロッカーが並んでいるところから、どこかの何かの部室だという事が分かる。
服を見下ろせば、また制服になっていた。
怜治は生唾を飲み込むと、マットの上から立ち上がり、そろりと扉に近付いてみた。扉に鍵はかかっておらず、そっと力を入れれば、からからと軽い音を立てて開く。
扉を薄く開け、辺りの様子を窺った。
人の気配はない。しんとしている。
なるべく静かに扉を開け、部屋のプレートを見上げると、体操部と書かれてあった。その向こうのプレートには柔道部と書かれている。
と言う事は、ここは校舎から渡り廊下で繋がっている運動部の部室だけが存在する一棟だ。
怜治は音をなるべく立てないように、そっと扉を開いて廊下に出る。健一との約束を思い出して、足音を立てないように出来るだけ静かに走った。
確かに人形達には会いたい。会って話を聞いてみたかった。
しかし、今捕まるわけにはいかないのだ。せめて健一と合流してからだ。
ここの渡り廊下は二階にしかない。階段を駆け上がって、渡り廊下から本校舎に入る。ここからだと図書室までかなりの距離があるが、雪月華に遭遇せずにいられるかどうかが問題だった。
すぐ傍の角を曲がると、階段と真っ直ぐに伸びる廊下が続いている。その途中途中に渡り廊下が存在するが、昨日のように渡り廊下に誰がいるかも知れなかった。けれど、下手に時間をかけるわけにもいかない。まずは三階へ上がらなければならなかった。図書室があるのは三階だ。しかも、ここからでは真逆の位置にある。つまり、かなり離れた場所に飛ばされたという事だ。
怜治はまず階段を駆け上がった。それから廊下を盗み見る。
辺りにはやはり人の気配も何者の気配もない。それでも辺りの気配を窺いながら一歩を踏み出した。
途端、女の笑い声が響いた。
──見つかった!?
そう思うが、声は近付いてこない。むしろ遠くへ消えていく。
それにほっとしながら、足音を立てないように小走りに駆け出した。しかし渡り廊下に差し掛かる度に立ち止まった。そこに誰かいやしないかと。
が、幸いな事に誰の姿も見る事なく図書室まで辿り着く事が出来た。
その時、また女の笑い声が聞こえてきた。さっき聞いた声とは違うが、今度はこっちに近付いているようだった。辺りを見回すが、姿は見えない。怜治は急いで図書室の扉を開けると中に滑り込み、静かに扉を閉める。
扉を閉めてそれに凭れ掛かると、はぁ、と大きな溜息が独りでに出た。そのままずるずるとへたり込みそうになったが、それを堪えてそっと健一の名を呼んでみた。しかしそれに返る声はない。図書室の中は静まり返ったままだ。
「健ちゃん、いないのか?」
声を潜めたままもう一度声をかけるが、やはり反応はない。誰もいないようだった。
怜治は足に力を入れると、図書室の一番奥へと向かった。雪月華が来ても一目では分からないような書架の陰に怜治は腰を下ろす。あとは健一が来るのを待つだけだったが、さっきから廊下で聞こえていた女の笑い声が気になっていた。
彼女らに足音はない。地を滑るように移動する。少なくとも雪野はそうだった。昨日、彼女の足音一つ、怜治は聞かなかった。それなのに追い縋ってきたのだ。
それを思い出し、ぞっとする。
一つ身震いすると、それを紛らわせるように、手近にあった一冊の本を手に取った。誰の、なんという本かも確かめずに、手に取る。そしてページを捲って驚いた。
夢の中だからなのか、紙に印刷されている文字が、それぞればらばらに泳いでいるのだ。文章を追う事が出来ない。否。文章にすらなっていない。ページの中で泳ぐ文字が、雪野の振り袖の中で泳ぐ金魚を連想させて、慌てて本を閉じる。そして本を書架に乱暴に突っ込んだ。
怜治は両手を組み合わせて、早く健一がここに来る事を願うばかりだった。
そうして何分が過ぎただろう。五分か、十分か。それとも十五分は経っただろうか。待ちに待って、もう結構な時間待っている気がしていた。それなのに、健一は一向にやって来ない。
怜治の胸中は不安で満たされていた。
もしかしたらさっきの笑い声は健一を追いかけている時の笑い声ではなかったか、と思い始めたのだ。女達が三人一組で健一を追い詰め、名を問い詰め、目を抉り出そうとしているのでは? と。
あり得ない話ではない。いくら待ってもここに来ないのは、追われているからなのかも知れなかった。来たくても来る事が出来ないのだ。
怜治は覚悟を決めて図書室から出ようと思った。まずは、扉の前で外の様子を探ってみる。しんとしていた。今はもう、女の笑い声一つ聞こえてこない。それを確かめて、ゆっくりと静かに扉を開けてみる。
やはり誰の姿もなかった。
怜治は図書室の扉を閉めて、廊下を歩き出した。
今はまず、女の声を捜さなければならなかった。自身が見つかるのはまずいが、女達が健一を追っているのならば、笑い声が目印だ。耳を欹てながら歩く。その耳に、上履きの音が異様に大きく響いた。自分の足音で、微かに響く女の笑い声が消えてしまいそうだとさえ思うほどだ。
そうして廊下を端から端まで歩いたが、さっきは聞こえていた声はどこからも聞こえてこなかった。そのまま階段までやって来て、怜治は僅かばかり考え込んでしまう。果たして健一はどこへ行ってしまっただろうか、と。
その時ふと、音楽室、と言う言葉が脳裏を過ぎった。
そうだ、音楽室。現実に一番近いかも知れない場所だ。もしかしたらそこに? と思った。
音楽室は四階にある。怜治は迷う事なく階上へと足を向けた。そして、段飛ばしに階段を駆け上がる。四階に来て再び辺りを窺ったが、なんの気配も感じられなかった。それをいい事に、今度は音楽室を目指して走る。一刻も早く健一を見つけたかったのだ。





