六
後ろ手に扉を閉めた瞬間──。
「健ちゃん!」
目の前に、右目の下──頬の辺り──から一筋の血を流した怜治の顔を見つけた。
いきなり現れた怜治の姿に、健一は大きく息を吸い込んで、咄嗟にその両腕を掴んでいた。
「健ちゃん、大丈夫かっ?」
言う怜治の表情は必死だった。
「怜ちゃん! 今までどこに……」
そこまで言って、健一は自分の格好に気付く。もう制服姿ではなかった。
辺りを見遣ると、そこは自分の部屋だった。パソコンのスピーカーからはキラー・ビーの曲も延々と流れている。それに、肩には怜治の指が深く食い込んでいた。
「目が醒めたか? 大丈夫か?」
怜治が心配そうに問いかけてくる。
あぁ、と溜息とも吐息ともつかない声を出し、健一は幾度か瞬きを繰り返した。その時になって始めて気付いたが、健一はベッドの上に仰向けに倒れていた。
「あ、れ……?」
怜治の腕を掴んでいた手を離して、起き上がる。
そして改めて怜治の怪我を目に止め、
「俺は大丈夫だ。怜ちゃんこそ、目の下……」
真一文字に引っかかれたような傷口から血の流れる跡を指摘した。
そこで怜治はようやく健一の肩から手を離し、目の下へ指を這わせる。
頬を汚す血がまだ生乾きなのか、怜治の手まで汚した。指先で血を擦り合わせながら、
「雪野にやられたんだ」
怜治は何を思い出したのか、忌々しげに呟く。
「怜ちゃん、眠ってる間に一体何があったんだ?」
それを受けて、怜治は雪野に追われた事を話し出した。
健一に時刻を告げられた直後、教室にいた事。そして健一を捜している最中に雪野に見つかり、保健室に隠れたが、雪野に追い詰められた事。そこで雪野が襲い掛かってきた事を。
「雪野に見つかって、襲い掛かられたんだ。物凄い力で押さえ付けられて……右目を弄りながら、俺の名前を聞いてきた」
「それで?」
勢い込んで健一は聞き返した。
「なんか、凄くしつこいんだよ。お前の名前を教えろって。だから……ほら、健ちゃんが言ってただろ? 名前、偽ろうって」
それに対して健一は頷いた。
「首を押さえ付ける手をどうしても外せなくて……、そのうち頬に爪を立てられて、そのまま目まで抉り取られそうだったから、言ったんだ。雪野に『怜一』って。そうしたら、雪野が吹っ飛んだ」
「吹っ飛んだ?」
「うん、まるで電流でも流されたみたいに弾かれて、壁まで吹っ飛んだ」
健一はごくりと唾を飲み込んで、更に聞いた。
「それで? それからどうしたんだ? そのまま目が醒めたのか?」
怜治は目を瞑って首を振る。
「目は醒めなかった」
そこで大きく息を吸い込むと、瞑った目を開けて続けた。
「俺、兎に角、雪野から逃げ出すのに必死になって、屋上まで行ったんだ」
「屋上に行ったのか?」
「うん。……でも、変だった」
「何が?」
「屋上に出たら、外が真っ暗だったんだ」
それを聞いて、健一の眉が怪訝そうに寄せられる。
「兎に角真っ暗で……夜なんだよ。それまでは明るかったのに。月も出てた」
「どういう事だ?」
「分からない」
言って、首を振る。
「でも、夜だった。俺、暫く屋上に隠れてたけど、そのままもう雪野は出てこなかった。暫く待ってみたけど誰も来ないから、健ちゃんを捜すのにまた校舎の中に入ったんだ。そうしたら、また昼間に戻ってた」
夢だから整合性が合わないのは仕方がないけど、奇妙だったな。と怜治は語る。外は夜なのに、学校内は昼間だったというのだ。
不可思議そうに言うが、更に怜治は続けた。
「屋上から中に戻ったら、今度はギターの音が聞こえてきたんだ。ほら、キラー・ビーのギター。最初はどこから流れてくるのか分からなかったけど、音を辿っていったら、音楽室から聞こえてきて、慌てて中に入ってみたら、そこで目が醒めた」
「音楽室……」
考え込むように健一は呟いた。
「うん、音楽室。それで目が醒めて、健ちゃんを見たら倒れてたから、急いで揺さぶってみた。……もし健ちゃんの目が醒めなかったらどうしようと思ったよ」
瞬間、怜治は泣き笑いの顔になった。
「俺はすぐに目を醒ましたか?」
「うん、声をかけたらすぐ」
「そっか」
言って、溜息を落とした。
「健ちゃんこそ、どうしてたんだ? 夢でどんな目に遭ってた? 夢、何か見たんだろ?」
「俺は……」
怜治に促されるままに夢の中での事を語った。気付いた時には学校の体育倉庫に閉じ込められていた事から、どうやってそこから逃げ出したか、保健室の有様を目にした事も全て。そして、怜治と同じように音楽室から音楽が聞こえてきて、中に入ると目が醒めていたと。
「なんで今日は学校だったんだろう……。それも二人揃って」
怜治は怪訝そうに口にする。
「それは……分かんねぇけどさ、華緒が妙な事言ってたな」
「妙な事?」
僅かばかり考え込む風にしてから健一は言った。
──折角三人揃ったんだもの。ここに引き込んだのも私たちの力じゃない──
その言葉を。
「なんだ、それ?」
「俺にもよく分かんねぇよ。ただ、華緒がそう言ってたんだ」
それを耳にして、怜治は横目に目を眇めて口を開いた。
「それって、あの三人が揃った事で俺達を学校に引き込む事が出来たって意味?」
「……多分な。なんだって学校だったのかは分かんねぇけど」
「兎に角、俺達は引き摺り込まれた。あの三つの人形の力ってやつで。そして引き摺り込んで、逃げ回る俺達を追い詰めて……遊んでるのかな?」
怜治は自分でも嫌な事を口にしていると思った。それでも、そんな事もあるかも知れないと思う。
それを肯定するように健一も口を開いた。
「華緒だけど、俺を見つけて凄く嬉しそうだった。笑いながら追いかけてきやがった」
「笑いながら?」
「うん……。怜ちゃんの言ってる、遊んでるって表現、あながち間違いじゃないのかも知れねぇな」
答えて、あの時の華緒の表情を思い出し、粟肌を立てた。
それは怜治も同じ思いだった。雪野が自分を見つけた時、彼女は硝子玉の瞳を見開いて、笑みの形に口をぱっくりと開いていたのだ。その表情のまま怜治を追いかけてきた。カーテンレールに雪野の顔を見つけた時も全く同じ情をしていた。それを思い出して、思わず自分の腕を自分で抱いていた。
それぞれに嫌な思いをしていたが、健一は更に嫌な事を言わなければならなかった。
「なぁ、怜ちゃん」
「うん?」
「確かさ、殺された坊さんの名前だけど、慈海って言ったよな?」
「そうだよ」
「じゃあ、やっぱりそうなんだな」
「何?」
健一は一度何かを納得するように一度頷いた。
華緒が慈海の名前を知っていた事だ。そして雪野が怜治の名前を知りたがっていた事。偽の名前を告げた時、雪野は拒絶されるように弾き飛ばされた。
つまりそこから導かれる解は、己の名を知られると彼女らに自分達の目を抉り出す事を許してしまうという事だ。
それをそのまま健一は怜治に話して聞かせた。
「それじゃあ、健ちゃんの案がなかったら、今頃俺、目を刳り抜かれてたって事か?」
「実際、坊さんは名前を知られて、華緒に目を刳り抜かれてる。華緒も坊さんの名前を知ってた。……そう言う事だろ?」
「健ちゃんは俺の恩人だな」
怜治が言って、二人ぞっと身震いをしたその瞬間、目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。
揃って飛び上がり、机の上を見る。
そして凍り付いた。
目覚まし時計の隣に、寺に預けてきた筈の人形が置かれてあったのだ。
雪月華。
ご丁寧に木箱もおいてある。





