弐
それから暫く経った。昼食の時間になったが、怜治は健一を起こす事はしなかった。ぐっすり眠り込んでいる健一を起こす気になれなかったからだ。このところ互いに嫌な夢を見続けていたから、健一が言っていたように神経が参っているのだと思ったのだ。
文代伯母には適当に言い訳をして、昼食は三人で摂った。
母親と伯母と共に摂った昼食時には、自然と大学進学の話が持ち上がった。勉強の話になった途端、怜治は元々なくしていた食欲が更になくなった気がしたが、しかしこれが現実なのだと思うと心のどこかで安堵する感情が頭を擡げた。
怜治の頭の中で、そうだ、と声がする。これが当たり前の日常なのだと。ここのところ体験した異常な夢は、大きく日常から逸脱したものなのだ。
だが、それをどうする事も出来ないのも事実だった。人も死んでいる。それを思うと改めてぞっとすると同時に、無力な自分にも辟易する思いだった。
昼食の席で散々受験の事や成績の事で振り回されたが、食事を平らげると、怜治はさっさと部屋へ戻っていった。
部屋へ戻っても、変わらず健一は眠っていた。時折寝返りを打つ以外に特に変わったところはない。うなされるでもなく、苦悶の表情を呈するでもなく、深く眠っているままだ。
そんな健一の様子を見ながら、本棚から引っ張り出した漫画をあらかた読み終えてそれらを片付けると、今度は小説を読み始めた。手に取ったのは倒叙物のシリーズだ。壁に凭たれ掛かって小説を序盤過ぎまで読み進んだ時だった。健一がむくりと起き上がる。
「起きたのか?」
怜治の言葉に健一は眠そうにしながら、「ん~」と伸びをする。
「あぁ、なんかすげー寝た気がする」
ぼんやりしたまま時計を見ると、もう午後三時だった。
「俺、何時頃寝たっけ?」
「十時前には寝てたよ」
「じゃあ、五時間は寝たって事か」
「……なんか、変な夢は見なかったか?」
それを耳にして健一は怜治を見遣った。だが、そのまま首を横に振る。
「あいつらが出てくるような夢は見なかった」
「そうか」
「やっぱりあいつらは夜見る夢にだけ現れるんだと思う。さっき言ったみたいに、この間、怜ちゃんが大丈夫だったのと多分同じ理由だ」
「そうなのかもな」
読んでいた本を脇に置きながら短く答える。
「なぁ、怜ちゃん。昨日、俺達は確かに起きてたよな?」
それに対して怜治は頷いた。健一はそのまま苦々しい顔で言い遣る。
「でも、いつの間にか眠ってたな。どんなタイミングで眠ったのか分かんねぇけど、俺も怜ちゃんも気がついたら夢の中だった」
「あいつら、雪月華の名前の通り、雪、月、華の順で現れた。しかも健ちゃんは二度も狙われてる。月姫と華緒に」
「どういう事だよ?」
「うん……、これから暫く健ちゃんは昼間眠った方がいいのかな、って思って」
「それじゃ怜ちゃんはどうするんだよっ。まさか普通に寝るつもりか? そんな事したら危ないのは一目瞭然じゃねぇかっ」
それに怜治は答える事はなかった。ただ壁に凭れて項垂れるだけだ。
その様を見て、健一はベッドから降りると怜治に詰め寄った。
「なんか馬鹿な事考えてるわけじゃないよな?」
「馬鹿な事って?」
顔を上げずに返す。
「怜ちゃんが俺の分まで身代わりになるとか、そう言う事だ。どうせ、まだ自分のせいだとか思ってんだろう」
怜治は健一から顔を逸らした。それはあからさまな肯定だった。
と、その時、怜治はいきなり布団に引き摺り倒された。
「何する……っ」
「取り敢えず、寝ろ!」
起き上がろうとする怜治の頭を無理矢理に押さえつけて健一は強く言った。
「いいから寝ろって!」
「なんで」
眉を顰めて健一を見る怜治を、怒ったような顔をして叱りつける。
「俺が疲れてたように、怜ちゃんも疲れてる筈だっ。だから晩飯までは寝てろ! あとで起こしてやる。雪にも月にも華にも何もさせねぇ!」
それでも何か言おうとする怜治の機先を制して、健一は怜治の瞼の上に手を置き、もう片方の手で手を握ってやった。
「俺がちゃんとここについてる。手も握っててやる。だから怖くない! 少し寝ろっ」
「……健ちゃん」
それにどこか脱力したような声が出る。
「怜ちゃんは昔から考えすぎる悪い癖がある。何も考えなくていいから、今は兎に角寝ろよ」
「……でも、華緒はいつの間にか俺達を夢の中に連れて行った。徹夜しようとしても、無駄かも知れない」
「そんなの分かんねぇだろ? 昨日はたまたまそうだっただけかも知れない。それに、あいつらの事なんて何も分かってねぇんだ。抵抗しようと思えば、出来なくないかも知れないだろ? やってみなきゃ分かんねぇ事だらけだ」
言って、手をぐっと握りしめる。
「今分かってる事は……そうだな、昨日は怜ちゃん夜の十二時くらいに夢見たって言ってたよな? そのくらいからがやばいって事じゃないか? それまでは安全な筈だ」
「瞬きするだけで、気付かないうちに夢の中だ。起きているつもりなのに、二人共夢の中にいる。……でもこれは華緒の力なのかな? 雪野の時は俺だけ。月姫の時は健ちゃんだけだった」
「実際、分からない事の方が多すぎる。……考えすぎるのはやめよう」
それにどこか仕方なげに、うん、と返して怜治は瞼を閉じた。
健一も掌の下で怜治が瞼を閉じたのを感じて、手を退ける。そして怜治の腹の上にタオルケットを掛けてやった。これは健一の癖のようなものだ。母の文代に、「どんなに暑くても、お腹の上にはタオルケットを掛けなきゃ駄目よ」と子供の頃から散々言われ続けたせいだ。自分でもそうするように、怜治にもそうしてやった。
暫くは沈黙の時が流れた。健一も怜治も身じろぎ一つしない。
健一がそのままじっとしていると、いつしか怜治は静かに寝息を立て始めた。繋いだ手からは力が抜け落ち、瞼の下では目玉が動き出している。夢を見始めたのだ。しかしその顔に苦しげな色は微塵もない。
少しでも苦しげならすぐに起こしてやろうと思っていたが、その必要はないようだった。それだけでもほっとする。溜息を零して、知らず苦笑していた。
健一は怜治の手を取ったまま、ベッドの上に置きっぱなしにしてあった漫画を手に取ると、ベッドに背を預けてぱらぱらと見るでもなしに眺めていた。
その間中、壁掛け時計の秒針の音が空気を微かに震わせながら、ゆっくりと確実に時間を刻んでいく。部屋の中も時間が経つごとに徐々に薄暗くなってきた。顔を上げて時計を見れは、もう六時半を過ぎていた。そろそろ階下から夕食が出来たと声が掛かる頃。
健一は怜治を起こす為に肩に手をかけた。