六
確かに華緒が落ちた音を聞いたが、街灯の明かりに照らされたそこには何もない。それからすぐに窓の上を見てみた。さっき華緒は窓からぶら下がっていたからだ。しかし、そこにも何者の姿もなかった。それを確かめて、網戸を閉めた。
その様を見ていた健一が声をかけてくる。
「なんかあったか?」
「いや、何も。華緒が落ちた場所にも何も変化はなかった。窓の上にも」
それを聞いて、健一は大きく溜息をついた。
「夢なのに、どうやって夢から醒めればいいんだか分かんねぇ……。こんな事が人形供養を受けてくれるところを探すまで続くのかよ」
文字通り頭を抱えて弱々しい声を出す健一を、怜治が叱咤した。
「こんな夢なんかに負けるな! 俺だっているだろ!」
それを受けて目を瞑り、少し考え込んだ健一が「そう……だな」と返した時、耳に聞き慣れたけたたましい音が響く。それを不思議に思ってうっすらと瞼を開けると、健一はベッドの上で横になっていた。頬にタオルケットの優しい肌触りがある。そして手にはスマートフォンが握られていた。
次の瞬間、スマートフォンを投げ出して慌てて飛び起きた。
カーテンは開け放たれたままで、太陽が煌々と部屋を照らしている。照明もついたままだ。その中で、机の上に置いた目覚まし時計が起床時間を知らせるように鳴っている。
「夢から……醒めた」
呆然として呟く。そしてはっとする。
怜治がどうなったのかと。
見れば怜治は、壁に寄り掛かって項垂れていた。どうやら眠っているようだ。
健一は目覚まし時計が鳴り続けるのも無視して、壁に寄り掛かって眠っている怜治に飛びついた。
「怜ちゃん! 怜ちゃん!」
肩を掴んで激しく揺さ振る。
すると瞼が震え、怜治はうっすらと目を開けた。そして、ぼんやりしていた眼差しに急に光が灯る。自分の肩を掴む健一を見止めると、大声を出した。
「健ちゃん、どこ行ってたんだ! 急に……っ」
そこまで言った時、怜治は辺りを見回し、怪訝な顔をする。壁に寄り掛かって眠っていた事に今更ながら気がついたのだ。傍らには空になったマグカップが置かれている。
「あ、れ……? なんで、俺……? また夢だったのか?」
「夢? どんな夢だった?」
「その前に、目覚まし時計止めてくれよ。煩い……」
「あ、あぁ」
怜治の言葉に、健一はすぐに目覚ましを止めた。それからベッドに腰掛けて、身を屈めるようにして膝の上で両手を組んだ。怜治の話を聞こうと。
それを見止めて、改めて怜治は口を開いた。
「なぁ、健ちゃん。昨日お互いに相手が眠った時には起こすって約束したよな?」
「うん、した」
その返答に怜治は頷く。
「じゃあ、そこまでは起きてたって事だな。……そのあと、漫画を読んだりスマホのゲームで遊んだ事は覚えてるか?」
健一はそれに対して頷いてみせた。そして言う。
「俺はそのあと眠っちまったみたいなんだ。さっき、目覚ましの音で目が醒めた。スマホ握ったまま眠ってた」
「そうなのか?」
「うん。だから怜ちゃんが眠ってるのにも気付かなかった」
「多分、俺も知らないうちに寝てたんだな。健ちゃんが眠ってるの知らなかったし。でも、そのあと夢を見た。酷い夢だった……」
そう切り出して、怜治は夢の内容を詳しく話し出した。
だが、その夢の内容はおぞましいものだった。何故ならそれは、健一が見た夢とほとんど同じだったからだ。否、全く同じ夢だった。怜治が語る夢の中での会話も全く一緒なのだ。互いに「これは夢だ」と感じた事も、どっちが眠っているのか分からないと困惑した事も同じだった。それ以上に、華緒の行動までもが同じなのだ。それにどう対処したのかも。まるきり二人の夢はシンクロしていた。それを感じて、健一の唇が震え始める。怜治を見詰めていた視線は、手元に向かった。
その様子に気付いて、怜治は語る口を閉ざした。
「健ちゃん?」
「……どうしてだ?」
健一は呻くように口にする。
「何が? 何が、どうしてなんだ?」
「同じなんだよ、……俺が見た夢と。細かいところまで」
その言葉に、怜治はさっと青ざめる。
「同じ? どういう事だよ……」
「なんでだか分かんねぇけど、俺の見た夢、怜ちゃんが見た夢とそっくり同じだ。これってどういう事なんだ?」
「まさか」
怜治は言って笑もうとしたが、口元が僅かに歪んだだけだった。そしてその瞳には、怯えの色がありありと浮かんでいる。
「二人で同じ夢を見たって言うのか? あり得ないっ」
混乱した様子で怜治が言葉を吐き出す。
そこで健一が視線を怜治に移した。
「でも話を聞いた限りじゃ、同じなんだ」
「じゃあ……じゃあ、夢の中で健ちゃんが突然目の前から消えたのは、健ちゃんが先に目を醒ましたからなのか? そんな馬鹿な事があるわけない!」
「消えたのか? 俺が?」
「消えたよ……。まるで、煙みたいに。俺が『こんな夢に負けるな、俺がいるだろ』って言って、健ちゃんが『そうだな』って答えた途端に消えたんだ」
その言葉に、健一は眉を険しく寄せた。
「怜ちゃん。俺、その時に目が醒めたんだ。そうだな、って言った直後に目が醒めた」
真剣な表情で言い遣る。そして続けた。
「怜ちゃんはどうやって目を醒ましたんだ?」
「俺? ……俺、は……」
どこか戸惑いがちに口を開いた。
「目の前から健ちゃんが消えて、驚いて目を擦ってたんだ。そうしたら、いない筈の健ちゃんの声が聞こえてきて、ゆっくり瞬きをしたら健ちゃんが俺の肩を掴んでた」
それを聞いて、もう一度健一は両の手に目を落とした。
「兎に角、これだけははっきりしてる。理由や理屈は兎も角、どうしてか俺達は同じ夢を見たって事だ」
「そんな……信じられない」
「でも確かな事だ。俺は首を絞められた事も、その感触もはっきりと覚えてる。怜ちゃんが助けてくれた事も、背中をさすってくれた事もだ」
言い切って、深い溜息をついた。
その時、階下から声が聞こえてきた。
「健一、怜治君、まだ寝てるの~? 朝ご飯出来てるわよ~」
健一の母、文代の声だった。その声を聞いて、二人ははっとした。現実世界にいるのに、急に第三者の声によっていつもの日常を突きつけられた気がしたのだ。健一は俯けていた顔を跳ね上げ、怜治はドアの方を咄嗟に見る。
文代が階段を上ってくる気配はない。それなのに二人は暫しドアを注視していた。無意識のうちに、華緒に襲われた時の事をそれぞれに思い出していたのかも知れない。
だが、そんな気持ちを払拭するように、わざと健一は暢気な声を出した。
「まぁ、難しい事はあとでいいや。さっさと着替えて、飯食いに行こうぜ」
そう言って立ち上がると、健一は着替え始めた。夢の話から逃れるように。
健一の言い草には納得しかねたが、文代伯母を待たせるわけにはいかない。怜治も仕方なく、もそもそと着替え始める。
階下に降りて顔を洗って歯を磨き、リビングへと入ると、母親達は先に朝食を食べ始めていた。健一の父、浩一は既に出社していない。
朝の挨拶を交わして座卓につくと、怜治も健一も用意された食事に手をつける。しかしその動きはのろのろとしたものだった。
怜治は味噌汁を飲みながら何気なくテレビに目を遣った。テレビでは丁度ニュースが流れている。それをぼんやりと眺めていると、不意に見覚えのある建物が目に入った。その建物はブルーシートで覆われていたが、確かに見覚えがある。
テレビに映っているのは、昨日訪れた寺だった。
怜治は隣で食事をしている健一の腕を肘で突いた。そしてテレビを顎で示す。それに促されて健一もテレビに目を移した。
音量は小さめだが、それでもなんとかニュースキャスターの声は漏れ聞こえてくる。二人はキャスターの言葉に耳を欹てた。
『──警察の発表によると、浄眼寺の住職で小森慈海さん、七十三歳は、昨夜十時から十一時の間に殺害されたとの事です。小森さんは部屋で倒れているところを家族に発見され、救急搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は絞殺との事ですが、両目を抉られ、そのあと首を絞められた事が確認されています。今のところ不審者を目撃した者はなく、目を抉るという猟奇性から警察は、怨恨の可能性、または異常者の犯行の両方を視野に入れて……』
キャスターが原稿を読む傍らで、現場付近の様子が映され続ける。
テレビの中で流れる映像とその事件の内容に、怜治は箸を取り落とし、健一は茶碗を座卓の上にがたんと落とした。
その様に、文代と菊代は不審な顔をしていた。
「どうかしたの?」
文代が二人に声をかける。
それに反応を返したのは健一だった。
「いや、なんでも。ただ、気持ちの悪い事件だな、と思ってさ」
「そうよねぇ。今朝早くからこのニュースばかりだもの。目を抉るなんて怖いわ。お寺の住職さんが恨みを買うわけがないから、きっと頭のおかしいのがいるのね」
菊代が頬に手を当てながら言った。
それに合わせるように文代も声を零す。
「市内だしねぇ、気味が悪いわよねぇ」
怜治はそれを聞きながら、取り落とした箸を拾い上げ、食事を再開する。が、特にニュースの内容については言及する事はなかった。黙々と食べ続けているが、内心では砂を噛むような気分だった。
昨夜の華緒の両手は真っ赤だった。あれは多分血だ。住職の目玉を刳り抜いて首を絞めたのは、華緒に違いないという確信めいたものがある。
それは健一も同じ気分だった。夢の中で首を絞められた感触が蘇る。
ニュースを見たお陰で二人の食欲は全くなくなっていたが、敢えてそれを無視して無理矢理朝食を腹の中に詰め込んだ。それから食器の後片付けをして、二人は言葉少なに部屋へと戻っていった。