四
叫んだ瞬間、
「怜ちゃん、ちょっと退けよ」
不意に聞き覚えのある声が聞こえてきた。女の声ではない。
硬く瞑った目を開くと、視界がおかしかった。視界の中が直角に歪んでいる。いや、自分が横になっていると気付くのに数秒かかった。手元を見てみると、左手で単行本をきつく握り締めている。
「怜ちゃん、起きろ。ドア開かねぇって」
怜治は慌てて起き上がった。知らぬ間に眠っていたらしい。そしてドアの前に寝転んでいたのだ。
ようやく扉を開けて入ってきた健一が不思議そうな顔をしていた。
「寝オチか?」
そんな言葉を聞きながら時計の針を見ると、さっきと同じように午前零時にさしかかっている。どこまでが現実で、どこからが夢なのか分からない。見当もつかなかった。
怜治は前髪を掻き上げながら、健一に尋ねた。
「ドア、どんどんやってたか?」
「は? いや」
言って、健一は首を振る。
「夜中だし、あんま煩くできねぇから。ただ、ドア開けようとして押してはいたけど」
「……そうか、そうだよな」
「どうした?」
そう声をかけられて、大きく息を吸い込んだ。そして吐き出す息と共に、
「随分長い事、階下にいたんだな」
僅かばかり非難めいて言う。
「それがさ、インスタントコーヒーなくて、豆しかなかったからミルで挽いてたんだけど、随分遅くなっちまったな」
悪い、悪い、と苦笑いしながらドアを閉めて、手にしていたマグカップの一つを怜治に手渡した。
「あ、サンキュ」
健一はベッドに腰掛けながら、
「それよりどうしたよ? 寝ないって言ってたのに、やっぱり眠くて寝オチしたか?」
言いつつ、コーヒーを啜った。と、そこで思い出したように言う。
「あ、コーヒー沢山煎れてあるから、なくなったらコーヒーメーカーから勝手に入れてきていいからな」
「……うん、分かった」
答えたが、覇気がない。
それに不信感を覚えたか、健一が声をかけてくる。
「なんかあったのか? 酷い顔して……」
そう口にして、急にはっとして口を噤んだ。そして、恐る恐る口を開いた。
「夢、見たのか?」
ここまできて怜治も隠すつもりはなかった。隠すだけ無駄だからだ。それどころか、隠せばもっと悪くなると思えた。だから健一の問いに頷いた。
「『華』……か?」
「多分。華緒って言ってた」
「華緒?」
それにもう一度頷いて、今さっき見た夢の内容を話した。粟肌立つ身体を少しでも温めようと、マグカップを両手で握り締める。
「どこまでが現実で、どこまでが夢か分からない。それにあいつ、俺の名前知ってた」
それを聞いて、健一はすまなそうに肩を落とす。
「それは多分、俺のせいだ。話したろ? 俺が今朝見た夢。あの夢の中で怜ちゃんの名前呼んだんだ。だから知ってるんだと思う。きっと月姫が教えたんだ。……ごめん」
すっかりしょぼくれた健一に、怜治は言った。
「そうか。それで知ってたのか。……いや、いいんだ。健ちゃんのせいじゃない」
それに、と付け加える。
「あいつらに俺の名前そのものが知られたわけじゃないし」
「……どういう事だ?」
「怜治って名前が知られたわけじゃないって事だ。あいつ、俺の事、『れいちゃん』って呼んでたから」
「それが……何?」
きょとんとする健一に、怜治は少し笑んで言った。
「名前には魂が宿るって話、聞いた事ないか?」
その話に健一は、「いや」と言って首を振る。
「名前には意味があるだろ? それはその人そのものを表す言葉だ。名前は霊魂の宿る言葉だって言われてる。『真名』ってやつだ。でも俺の名前をあいつらに知られたわけじゃない。だから多分、大丈夫だ」
健一は目をしばたたかせて、不思議そうにしている。
それを見返して怜治が更に言う。
「意味、分かんないか?」
「いや、理解は出来た。でもさ……」
「怜ちゃんって呼び名がばれても構わない。怜治って名前じゃなきゃ」
「まぁ、確かに『怜ちゃん』はただの呼び名だからな……」
「なんか、あいつらに怜治って名前が知られたら、俺、何かされそうな気がする」
「どういう事だ?」
怜治は考え込む風に一度口を噤んでから口を開いた。
「なんて言えばいいんだろうな……、自分でもよく分からないけど、勘みたいもんかな。兎に角、何かされそうだなって」
「何かされる……?」
呟くように言って、急に健一は何かを思いついた顔になった。
「だったらこうしねぇか? もしあいつらに名前を言わなきゃならなくなった場合、別の名前を名乗るってさ。……そうだな……」
健一は顎に手を添えて考え込む。
「俺は……建治、怜ちゃんは怜一って言うのはどうだ?」
「名前の下を取り替えるのか。……そうだな、もし本当に名乗らなきゃならなくなったら、そう名乗ろうか。どうせあいつら、俺の呼び名しか知らないしな」
お互いに目を見交わし合い、頷きあった。それからコーヒーを飲む。