参
帰りのバスの時間まで、二十分ほどあった。地下鉄駅まで歩こうかとも考えたが、日差しが強すぎて歩く気にもならない。二人は近くの建物の陰に入り、涼みながらバスを待つ事にした。
「どうなるか、だな……」
日陰でしゃがんでいた健一がぽつりと言う。
「うん」
その隣に立って、建物に背を凭せていた怜治が返した。そして続ける。
「でも俺、今日は寝ないでおこうと思う」
「なんで」
傍らで怜治を見上げる健一に、
「昨日、今日、寝たら出てきただろ? 人形が手元にないとは言え、住職さんが『気をつけろ』って言ったんだ。なんか安心出来ない」
どこか無表情で答える。
「まぁ……、そうだな。寺内で相談するって言ってたし、確実に人形供養して貰えるってわけじゃねぇもんな」
「彼岸にいる存在か……」
「え?」
「あの人形は彼岸のものだって言ってたじゃないか」
「あぁ、その話な」
「健ちゃんが言ってた事そのまま口にするわけじゃないけど、本当に気味が悪い」
そこで健一は嘆息を落とし、励ますように敢えて声を張った。
「でも、今夜くらいは大丈夫だろ? 人形は遠く離れた場所にあるんだから。歩いて帰ってくるわけじゃない。そう言ったの、怜ちゃんじゃんか」
それに対し怜治は、う~ん、と腕を組んで難しく唸ってみせる。
「ちょっとは落ち着けよ、怜ちゃん。俺達に出来る事はしたんだ。後は連絡待ちだろ?」
「まぁ、そうなんだけど」
「だったら、今はぐずぐず言わない!」
言って、怜治の足を叩く。
足を叩かれ、「痛って」と軽く巫山戯て文句を言うと、その場に足を投げ出して座り込んでしまった。そのまま軽く息をついて、再び壁に凭れ掛かる。
そうしてバスを待っている間中、二人の間に特に会話はなかった。それは地下鉄に乗って、健一の家についても変わらない。
怜治はどこか塞ぎ込んだ風で、健一には声をかける事が出来なかったのだ。
少し話をするようになったのは、夕食近くになってからだ。だがその話の内容は、人形についての事ではない。怜治が漫画が読みたいというので、本棚から引っ張り出してやった漫画を読みながら誰の漫画が好きだった、好きじゃなかった、あるいは嫌いだったなどと言う他愛もない事だった。
夕飯と風呂を終えて健一の部屋に戻っても、二人はほぼ無言で漫画を読み漁っていた。
しかし、先にそれに飽きたのは健一だった。長時間同じ姿勢で漫画を読んでいたせいで、首周りと背中が痛くなっていた。伸びをするように欠伸をした健一の目に飛び込んできたのは、壁掛け時計だった。もう十一時になろうとしている。
結局、寺からの連絡は今日中にはなかった。明日になるのだろうと思う。
怜治は壁により掛かって、周りに沢山の単行本やら文庫本を積み上げて漫画を読み続けていた。健一はそれを見詰めながら、本当に寝ないつもりなのか? と思う。眠るのを酷く怖がっているようだったから。
健一は大きな息をついてベッドの上で大の字になった。このまま目を瞑れば、簡単に眠りの淵に落ちていけそうだ。その健一を、怜治は顔を上げずに上目遣いで見遣っていた。健一の様子を見遣って、眠るつもりなのだろうか、と思う。怖くはないのか、と。
確かに今、この家にあの人形はない。独りでに帰ってくるわけがないのは分かっている。それでも怜治は何故か安心できないのだ。寺の住職はあの人形が悪鬼になりかけていると言った。そして、彼岸のものであるとも。普通では有り得ない事を言ったのだ。その言葉がどうにも気にかかって仕方がない。人形供養を断りかけられた。自分の手には負えないと言って。それを無理矢理なんとかして欲しいと自分達は頼み込んだのだ。寺の住職ともあろう人物が「手に負えない」と言ったのに、それを押し付けてしまった。
どうしても不安が募る。
健一に向けていた目を本に戻しながら、
「健ちゃん、寝るのか?」
どこか突っ慳貪に問いかけた。
そんな声音にも構わずに、健一は怜治を見ぬままに答える。
「ん~、寝ようと思えば寝られるな。でも、長時間同じ姿勢でいたから疲れただけだ。……それより、怜ちゃんはマジで寝ないつもりか?」
「寝るつもりはないな。今夜は徹夜だ」
怜治も本から顔を上げないまま返す。
「同じ姿勢のままでいたら、身体固まらねぇか?」
「時々、首動かしてるから平気」
「……そっか」
溜息混じりに呟いて、健一は勢いをつけて起き上がった。
「俺、コーヒー煎れてくるな。熱いのでもいいよな?」
「いいよ。サンキュな」
礼を言うも、やはり怜治は本から顔を上げなかった。
そのまま漫画を読み続けていたが、いくら経っても健一は戻ってこない。ふと不安になって壁掛け時計を見ると、午前零時に迫ろうという時間だ。怜治には健一が部屋から出て行ってどのくらい経ったかは分からなかったが、少なくとも三十分は経っているだろうと思えた。
たかがコーヒーを煎れに行って一体何をしているのか、と思う。
と、その時、小さくドアをとんとんと叩く音がした。
ようやく健一が戻ってきたのか、と思った。多分、マグカップを両手に持って、手が塞がっているのだろうと無造作にドアを開ける。
だが次の瞬間、怜治はドアをばたんと音高く閉めていた。
今、自分が見たものがなんなのか理解できなかった。否、理解したくなかったのだ。
それでも脳裏で、見たものの像が勝手に結ばれていく。
まず、真っ赤な両手が見えた。その奥には薄桃色の振り袖。桜の花びらがひらひらと舞っていた。更にその奥には、硝子玉の大きな瞳があった。なんの感情も浮かべぬ、あの硝子玉の瞳だ。一度見たら忘れられない瞳。
「れい、ちゃん?」
女の声がする。甘やかで、どこかあどけない声音だった。
「貴方、れい、ちゃん?」
名を呼ばれた事が恐ろしくて、怜治はドアを必死に抑えた。何故、名前を知っているのか知らないが、中に入られたら終わりだと思った。絶対に入れてはいけない。なのに、ドアがどんっと大きく叩かれた。ドアノブもがちゃがちゃと乱暴に回される。かと思えば、またしてもドアが大きく叩かれた。
まるで中に入れろとでも言うかのように。
身体全体に振動が伝わってくる。
恐ろしい振動が。
ドアを押さえる両手に力を込めて、硬く目を瞑った。
「れい、ちゃん……私、華緒。貴方の目を貰いに来たのよ。ちょうだい」
言う間も、どん、どん、と扉が叩かれ、ドアノブが回される。
「煩い! 誰がお前にやるか! どっか行けっ!」