弐
健一と怜治は、地下鉄からバスを乗り継いで目的の寺にやってきた。
浄眼寺。
その寺は住宅地の中に、ぽっかりとあった。随分古くからあるらしく、敷地も広い。高い塀には苔が生えたり漆喰が剥げている部分もあって、二人は多少怖い印象を受けた。それでも取り敢えず三門を潜り抜けて境内に入ると、まず右手に鐘楼があり、そのまま進むと住職一家が住むと思われる家──庫裡──と真正面には大きな本堂が見えた。
庫裡とは元は厨房を指したが、現在では寺務所や僧の住む家となっている。
二人はまず、庫裡を尋ねた。
庫裡は一般的な家屋に見える。実際、住んでいるのも、大概が住職とその家族なのだから一般家屋でも問題はない。だがよく見ると、その家屋から回廊で本堂へ繋がっているようだった。
まずは庫裡でインターフォンを鳴らしてみる。少しすると横開きの扉が開き、中から長襦袢に黒の紗を着た老人が現れた。一見して、僧侶と分かる出で立ちだった。
その人物は酷く神経質そうな顔をしている。老齢な年齢からして、ここの住職なのだろう。
「何か、ご用ですか?」
神経質そうな顔に違わず、やや高い声を出す。
「あの、さっき人形供養の事で電話した高橋です」
怜治が口火を切る。
それを聞いて、住職は僅かに頬を緩めた。その途端、その面差しは神経質そうなものから急に懐深く柔和に変化して見える。
「人形供養の方でしたか。私は住職の慈海と申します。お待ちしていました。どうぞ上がってください。若い者も留守居の者も出掛けておりますが」
すっと右手で促されるまま、健一と怜治は庫裡の中に通され、住職のあとをついていくようにそのまま廊下を延々と歩かされた。
回廊を抜けて本尊のある広間を逸れると、別の部屋へと案内される。そうして襖を開けて、「どうぞ。ここがお人形様のお部屋です」と促されるままに二人が入った畳二十畳ほどの広い座敷には数多くの人形が置かれていた。日本人形、西洋人形、ひな人形、五月人形、ぬいぐるみ、こけし、中には羽子板や超合金のロボットまである。
その光景に唖然としていると、
「少々お待ちください。暑い中、ここまで来られるのは大変だったでしょう。今、お茶をご用意します」
広い座卓の前に二人分の座布団を用意して、慈海は出て行ってしまった。
ぽつんと取り残された二人は、妙な居心地の悪さを感じていた。人形の視線が気になってしようがないのだ。積み上げられた人形は全部こちらを向いている。そして、そこに線香の匂いが混じっているのだから、座る事すら躊躇してしまう。
暫くぼうっとしたまま無言で佇んでいたが、不意に背後の襖が開かれた。慈海がお茶を用意して戻ってきたのだ。
「おや、お座りではなかったのですか?」
それに反射的に応えたのは健一だった。
「いや、人形の数の多さに圧倒されてしまって」
「魂の宿ったお人形様達ですからね。気圧されたのかも知れません」
言いながら、慈海は部屋の中へと入って襖を閉じる。
「さ、どうぞお座りください、高橋さん……と、お友達ですか? それともご兄弟?」
健一を見て問う。
「あぁ、従兄弟の立脇健一です。自己紹介が遅れてしまってすみません」
それに、「いえいえ」と頭を振って、座るように再度促す。
健一も怜治も、今度は素直に従って座布団の上に正座した。そこに冷茶が配られる。
「これらのお人形様には三ヶ月から半年かけて、毎朝、夕と読経を差し上げるんですよ。そして毎月、吉日を選んでお焚き上げをするんです」
「そう、なんですか」
怜治が言葉を絞り出すように答える。
「それで、供養して欲しいお人形様とは?」
その言葉に、健一は迷彩色のバックパックの中から木箱を取りだした。そして蓋を開けると、
「この人形です。元は俺達の祖母のものなんですけど。家にありました」
言って慈海に手渡す。
人形の入った木箱を受け取り、中から人形を取りだした途端、慈海の表情がくっと歪んだ。
その変化に、健一と怜治は顔を見合わせる。
だが、慈海は二人の様子に関わりもせずに、些か低い声で問いかけてきた。
「……このお人形様は、お婆さまの遺品、と言う事ですね?」
「はい。そうですけど」
健一が答える。
「……『せつげっか』、と言いませんか? 『はな』は華々しい『華』で『雪月華』と」
急にじろりと睨むように慈海は二人を見た。
その言葉に、健一と怜治の心臓がどくりと脈打つ。自然、嫌な汗が背中に滲み出してきた。
「どうして……それを?」
怜治が押し殺したような声音で尋ねた。
慈海は険しく眉根を寄せ、一拍おいて返す。
「このお人形様には確かに魂が宿っているようです。所謂、魂魄。『魂』は霊の働きがあって形がないもの、『魄』は形があって霊の拠り所となるものを指します。このお人形様はまさに魂魄なのです。だから自然と名前が分かりました。これはもう、普通のお人形様ではない。異形のものです」
慈海の話に健一は生唾を飲み込むと、行儀は悪いと知りながら左足を立てて、靴下を下ろしてジーパンの裾をたくし上げて見せた。そこにはくっきりと月姫に掴まれた跡があった。
「これ、今朝方ついたものなんです」
そして夢で見た事を話し出した。が、それには怜治の見た夢から話さなければならず、話し終わるまでに随分と時間がかかった。それでも、足首の跡は月姫の手形であるだろう事はしっかりと伝えた。それから改めて座り直す。
「……今の話、どう思いますか?」
慈海は両目を伏せて、ふむ、と唸った。暫しそのまま考え込む様子を見せてから、おもむろに呟く。
「今の話が本当なら、このお人形様は悪鬼になりかけているという事でしょう」
そして、早々に供養してやらねば何が起こるか分からない、と続けた。
「早々にとは、どの程度ですか?」
怜治が尋ねる。
「申し訳ありませんが、うちでは扱えません」
「どういう事です?」
健一と怜治の言葉がぴったり重なる。二人共身を乗り出していた。
伏せた瞼を開けると慈海は真剣な顔で、呻くように言った。
「このお人形様はもうこちらの世界のものではないのです。あちら側のものになってしまっている。私どもの手には負えない……」
健一はばっとその場に手をついた。
「そこをなんとかして貰えませんか? 俺達、怖いんです!」
健一が頭を下げたのと一緒に、怜治も頭を下げる。
「なんとかして差し上げたいのはやまやまですが、しかしこれはもう彼岸のもの。彼岸にあるものを彼岸に還す事は出来ません」
「そこをどうにかしてくれるのがお寺さんなんじゃないんですか? このままじゃ、俺達祟り殺されてしまう!」
健一が言い募るのと同時に、慈海は目を閉じ、低い呻き声を上げて腕を組んだ。その間、たっぷり十分はあっただろうか。やがて目を開き腕組みを解くと、その視線を健一と怜治の二人に向けた。
「では、こういたしましょう。寺内の者にも相談させてください。その結果を今夜か明日の朝連絡を入れる、と。流石に私一人の手には負えませんからなぁ」
慈海は如何にも難しげな声を出した。それに健一と怜治が顔を見合わせたが、すぐに怜治が声を上げた。
「それじゃあ、人形はどうすれば……。もしかしたら今夜もまた何かあるかも知れません」
その言葉に小さく首肯して、慈海は言った。
「そうですね。……お人形様は一応預からせていただきましょう。その方が貴方達にも危険は少ないと思いますから」
健一と怜治はその一言に救われる思いだった。不安げではあったが、それでも笑みが浮かぶ。
二人は取り敢えず人形から離れる事が出来、ほっと胸を撫で下ろして、「宜しくお願いしますと」と辞去したが、慈海もまた、「お気をつけなさい」と言葉を返してくれた。
連絡は怜治の携帯に貰う事になっている。どう転んだところで、文代に知られる事はない。