黄昏の約束を、君に
「あの……」
奥から出てきた女性が声をかけてくる。亜希と衣川の記憶が正しければ、その人は陽斗の母親だった。
「どうしたんすか?」
衣川が先程の暗い表情を払い、仄かに笑んで問いかける。衣川は陽斗の母が何をしていたか知っていたから。
陽斗の母は、残りが短いとなった陽斗のことを知らせられ、病院に駆けつけていた。陽斗はしばらく息はあったものの、目を開けることはなく、そのまま息を引き取った。傍らでそれを看取った母親は、今陽斗のベッド周りの遺品を整理していたはずだ。まあ、遺品といっても、陽斗は突然倒れてからあまり起き上がることがなかったようなので、あまり私物はなかったが。
陽斗の母は戸惑ったように二人に便箋を一つ見せた。
「木原先生も、衣川くんも、陽斗と同じクラスでしたよね? この名前の陽斗の友人をご存知ないかしら……?」
差し出された便箋の宛名には陽斗の筆跡がある。筆ペンで書かれたのであろうそれは二人の知る鉛筆の文字とは違い、すらすらと流麗に綴られていた。
そうして書かれた宛名の文字の羅列に、二人は息を飲む。
「キヌへ」
陽斗の母は首を傾げる。
「最初は衣川くんのことかしら、と思ったのだけれど、別にこんな呼び方はしていなかったと思って……キヌという名前なら、女の子かしらね。女の子の友達がいるなんて私はついぞ聞かなかったのですが……ご存知ありませんか?」
その問いに衣川が顔を歪める。辛さを隠さないまま、応じた。
「陽斗が、前、好きな人ができたとか言ってませんでした?」
「あら、そういえばそんなこともあったわねぇ。その子かしら?」
「……ええ、きっと」
衣川も亜希も察していた。「キヌへ」と書かれているからには、陽斗は田島陽斗としてでなく、ヨウとして、その手紙を綴ったのだろう。キヌに対して。
亜希が衣川の表情を窺う。亜希に返すまで、キヌの記憶を持っていたのは衣川だ。彼にだって、読む資格はあるだろう、と思った。
衣川は神妙な面持ちで便箋を受け取り、「確かに、預かりました」と告げた。
「受け取りました」ではなく、「預かりました」。暗に、「キヌ」という人物を知っているということを示し、その人物の正体を陽斗の母に知らせないことを示している。
当然、陽斗の母は訝しんだ。けれど、衣川は首を横に振り、少し寂しげに微笑んで告げた。
「あれは、田島の片想いですから。いくら想いが綴られていたとしても、それがその人に届いたとしても、もう陽斗はいない。……どうしようもないんですよ。その事実を『キヌ』に突き付けることになるんですから……まあ、内輪で終わらせた方がいいと思うんです」
俺に任せてください、と告げる。少しの間を置いて、陽斗の母はそうね、と呟いた。
「私は顔も知らないのだし……衣川くんなら、上手くまとめてくれそうだから、お任せするわ。ごめんなさいね」
「いえ、任せといてください」
大船に乗ったつもりで、なんて衣川が付け加え、まあ頼もしい、と陽斗の母が笑う。少しお通夜のような雰囲気なのが拭われた。
見ていた亜希は、ただただすごいな、と感嘆する。衣川の人を励ます才に。自分が傷ついていることをおくびにも出さない様子に。……自分だったら、ただ泣くしかできないのに。
亜希の見ている脇でいくらか衣川と陽斗の母が談笑し、陽斗の母はやがて診療所の奥へ戻っていった。それを衣川がにこやかに手を振って見送る。
陽斗の母の姿が見えなくなると、衣川はくるりと振り向いた。そこに笑みは一欠片もない。
「読めよ」
攻撃的な雰囲気で、亜希に便箋を突き付ける。亜希は驚いて便箋と衣川を交互に見た。
「いいの? 衣川くんだって……」
「同情なんかいらない。何がどう転がったって、『キヌ』は俺じゃなくてあんただ。陽斗はそうだとわかってた」
そう、陽斗にとってのキヌは亜希だった。魂が惹かれて、直感的に彼女はキヌだと知った。記憶がなくても、陽斗にとってのキヌは亜希しかいない。
──譬、キヌの記憶を持っていたとしても、衣川ではキヌになり得ないのだ。
衣川は記憶によって、陽斗に惹かれていた。今もその想いは変わらない。だが、陽斗にとって、衣川はクラスメイトの友人でしかないのだ。それに、衣川がキヌの記憶を持っていたなんて、知りはしない。
だから、手紙を受け取るべきは亜希なのだ。そう目線に込めて、便箋を突き付ける。亜希はその目に圧されて、震える手で便箋を受け取った。
衣川が部屋から去ったところで、亜希はそろりと便箋を開ける。
そこには──
「黄昏に けふは届かぬ想ひとも 季節の廻る如くに廻りて」
短い歌だった。だが、その意味を知り、亜希は涙した。
この短歌には二つの意味がある。
「あなたは誰か、と京の都まで届けと思うほどの想いが届かずとも、季節が何度も廻るように、私はまた廻っていく」
「黄昏の約束を今日も思う想いは届かなかったけれど、季節の移ろうように私も廻って、またあなたと会おう」
便箋の隅は、少し赤く汚れており、文字は震えている。病床で喀血しながらも、懸命に書いた姿が思い浮かび、またぱらぱらと手紙の上に雨を降らせた。
文字が滲んでいく。
「……また来世、黄昏の約束を……」
そう呟いて、亜希は手紙を抱きしめた。
原案:水音(2017年8月時点)
著:九JACK