橘
「あ、木原先生、目を覚ましたんですね」
ベッドの傍らに腰掛けていたのは、衣川だった。その表情は少し暗い。
だが、そこに言及するほどまでには、亜希はまだ頭が回っていなかった。まず、ここが島唯一の診療所だということはなんとなく内装を見てわかった。問題は、自分が何故ここにいるか、だ。
記憶を辿る。確か自分は衣川と少し話をし、衣川が怒って帰ってしまった後、一人で色々悩みながら歩いて……そこから先の記憶がないことに、亜希は戸惑う。
そんな亜希の様子を察したように衣川が口を開く。
「あんた、道端で倒れたんだよ。どさりって音がしたから、慌てて戻ってみたら、気を失ってたんだ。大わらわで診療所に運んだってわけ。ちなみに今は、夜になった頃かな。……黄昏を過ぎた辺り」
黄昏、という言葉に、亜希は反応せずにはいられなかった。真っ先に思い浮かんだ名を口走る。
「陽斗くんは!?」
すると、衣川は俯いた。その表情の翳りに、亜希は一抹の不安を抱く。
数瞬の沈黙。長くはなかったが、永遠に続くようにも感じられたその時間を破ったのは、衣川だった。
「……間に合わなかった、か……」
そこから、彼は独白する。
俺は木原先生と別れてから、診療所に寄ろうとしたんだ。面会はできないが、医者から容態くらいは聞けるだろうと思って。
そう歩を進めようと思ったら、後ろで人が倒れる音がした。
慌てて駆け寄ったら、それは木原先生だった。木原先生にきつい物言いをした自覚はあったから、一抹の責任を感じ、俺は木原先生を背負って診療所に向かった。
診療所で木原先生を寝かせてもらうと、俺は診療所に来た当初の目的である田島の容態を医者に聞いたんだ。
告げられた内容は。
「彼はどうやらただの風邪ではなく、肺癌のようです。この孤島では検査機器が揃っていないため、早期発見ができず、田島さんはお若いですから病状の侵攻も早く……ステージ4の状態です。まだ生きていますが、いつ死んでもおかしくない状態なのです」
「そんな……」
田島が死ぬかもしれない。その可能性を提示されたとき、俺は愕然とした後、一つの決意をした。
ベッドで眠る木原先生の手に自分の手を重ねて、「キヌの記憶」を思い浮かべる。すると、瞼の裏に浮かんだ光景はみるみるうちに消えていき……俺が余分に持っていた記憶は綺麗さっぱりなくなった。
「元々はあんたのものなんだ。……返すよ」
寂しくはあったが、俺が祈るのは、田島の幸せだった。
「……でも」
衣川は暗い顔で告げる。
「間に合わなかった。田島は、死んだんだ、ついさっき」
「う、そ……」
あまりもの擦れ違いと入れ違い。
それが無惨な結末を生み出した。
「そんな……やっと、会えたのに……」
ぽろぽろと涙を流す亜希に、衣川はかける言葉がなかった。
二人共、後悔していた。
衣川は早く亜希に記憶を渡さなかったことに。
亜希は早く思い出してあげられなかったことに。
どんなに自責の念を抱こうと、田島陽斗は、もう戻ってこない。
後悔は決して、先に立たないのだ。
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