激昂
だが、陽斗は何日経っても退院して来なかった。咳が続き、熱に魘され……感染症にかかるといけないから、と面会も禁じられていた。
衣川にとって、陽斗のいない日々は悪夢のようだった。実際、陽斗が入院してからというもの、衣川は毎晩悪夢に魘されているのだ。
小さな映画館の映写室で、からからと映写機が回る音を聞きながら、「黄昏の約束」という映像を見つめる陽斗を見るという夢。夢の途中で、キヌの魂を持つ亜希が入ってきて、陽斗の隣に座る。それを見ると、例の如く、自分の中から「キヌ」の記憶が奪われていくような心地がして、映写室を飛び出す。ここまでは同じだ。
だが、あるときから、映画館の中に入る扉が開きにくくなっていった。開けられないわけではないが、「黄昏の約束」の途中から半途に流れてくる映像を見、衣川は呆然と立ち尽くす。
間に合わなかった。
そんな思いが衣川の胸中を満たす。衣川は陽斗の隣に座す亜希に敵意のある視線を向けた。
彼女が、自分から記憶を奪っていくのだ。
夢を見るごとに、欠落していく記憶。キヌである亜希に戻るべき記憶であるが……大切なものを奪われ続けていく夢は、衣川にとって、悪夢でしかなかった。
だいぶ記憶が削られたある日。
衣川は陽斗の後任として、亜希の資料運びの手伝いをしていた。
授業が終わり、資料室に地図を片付けに行く。次は昼休みだ。教室に戻ろうとした衣川を、亜希の「あのっ」という遠慮を孕んだ声が引き留めた。
「……なんすか?」
衣川にとって、亜希は大切な記憶を日に日に奪っていく憎たらしい存在であった。そのため、声は冷たい。
だが、そんな衣川の様子を気にしたようでもなく、亜希は続ける。
「ちょっと変な話だけど……最近、不思議な夢を見るの。田島くんと、君が出てくる夢」
「……それがどうしたんです?」
夢がリンクしているとか、衣川にはこの際どうでもよかった。その夢の中で、自分は大切なものをこいつに奪われ続けているのだから。
だが、亜希にご執心の陽斗の様子を見ていると、一概に悪いとも責め立てられない。……衣川は陽斗が好きだから、陽斗が幸せであればいい、という思いもなくはなかった。
「それで、夢を見るごとに、私はだんだん田島くんのことが気になって……でも、夢の途中で君が出てきて止めようとするから……まあ、夢の話だから、って気にする必要はないのかもしれないけれど……君なら何か知っているんじゃないかと思って」
亜希の推測は間違っていない。衣川は二人の関係に大きく関わっている。
だが、それを答えてやる義理は果たしてあるのだろうか。
考えていると、沸々と怒りが沸いてきた。亜希が年上だということも忘れて、睨み付けた。
「そんなの、自分で考えてくださいよ、『キヌ』」
「え……?」
亜希が衣川の言葉に首を傾げる。
「田島田島田島って、そんなに気になるんなら、思い出してやりゃいいじゃないっすか。夢で俺から……奪っていくくせに」
「衣川くん?」
「俺は『キヌ』じゃないんですよ!!」
衣川が叫ぶが、亜希はいまいち意味をわかっていないらしい。衣川は歯噛みした。もう記憶の半分くらいは持って行っているくせに、まだ陽斗のことを──ヨウのことを思い出していない。
その事実に苛立ちを覚える。いくら、魂と記憶が分離していたとはいえ、これでは……亜希をキヌだといち早く気づいた陽斗が浮かばれないではないか。
「あんた、ちゃんと『黄昏の約束』を見てないだろ?」
衣川は亜希を睨み、問う。
黄昏の約束──夢の中の映画館で上映されている、キヌとヨウの大切な記憶の物語だ。
陽斗はずっとそれを眺めていた。衣川も映写室から途中まで眺めている。だというのに、亜希はどうだ? ──途中から入ってきておいて、陽斗ばかりを見て、スクリーンを一切見ていない。
それが記憶の戻らない原因だ、と衣川は察していた。腹が立つ。陽斗への思いはあるはずなのに、一番大切な記憶を思い出そうとしない亜希に。
自分はもう、キヌの記憶を半分以上失っている。それでも衣川が正気を保っていられるのは、元々衣川がキヌでないから。けれど、キヌの記憶が衣川の中にあったことは「なかったことにはできない」事実で、……陽斗を思う気持ちもそう簡単には消えない。
いっそ、もう何もかも忘れられてしまえばいいのに。
早く思い出せよ、ともう一度低く、衣川は亜希に告げた。