道化の朝
「行かないで!!」
悲痛な叫び声を上げて、衣川は目を覚ました。夢の余韻で呼吸が乱れて苦しい。
伸ばした手は、空を掴んだ。当たり前だ。ここは自宅。……そのはずだ。
夢を……見ていたのだ。小さな映画館で「黄昏の約束」の映像が映し出される夢を。自分は何故かフィルムの回る映写室にいて、からからと回るフィルムの音を聞いていた。小窓から見える客席には、ぽつんと一人、陽斗がいるだけ。ただそれだけの夢のはずだった。
だが、静かに映写室と逆側にある扉が開いて──そこから亜希が入り、導かれるように、陽斗の隣に座って「黄昏の約束」という記憶を見ていた。
そこで衣川は言い様のない予感に襲われ、映写室を飛び出し、亜希が開けたのとは逆側の扉を開け放って叫んだ。
行かないで──と。
まるで、陽斗の隣が盗られてしまうように感じたのだ。否、正確には、陽斗の隣はキヌである亜希で間違いないのだが。
そう、あれは。
大切にしていた記憶が、奪われていくような感覚。
衣川は陽斗と出会ってから、キヌの記憶を大切にしてきた。大切に大切に抱えて、陽斗の隣にいようと必死でいたのだ。
そこに、亜希が現れて……元々は彼女が持つべき記憶なのだから、彼女の元へ帰ることが正しい。そのはずなのに……衣川はぱらぱらと雨のように零れ落ちて布団を濡らしていく涙を止めることができなかった。
「く、そ……」
陽斗を思うのは俺の心なのに……と衣川は拳をぎゅ、と握りしめた。
幸い、早く起きたため、誰にも見られることなく、衣川は泣き腫らした顔を洗った。水が冷たくて気持ちいい。
気分を切り替えるために、ぱしん、と自らの頬を叩くと、衣川はいつも通りの笑顔を作り、鏡に向かって笑った。完璧だ。
朝食を食べて、学校に向かう。教室にはそこそこ生徒が来ていた。が、衣川の隣の席は空いていた。
「およ? 田島のやつ、まだ来てないのか」
衣川の知る限り、陽斗は目立ちこそしないものの、きっちりしていて、朝は早めに来ている。遅刻なんて聞いたことがない。
そう思いながら隣の席を眺めているうちに、予鈴が鳴った。後ろの席から「田島、来ねぇな」「衣川、恋人でも待ってるみたいな目してんぞ」と声がし、からかいとわかりつつ「うっせ」と返した。
しかし、この時間まで陽斗が来ないとは……何かあったのか? と胸騒ぎがする。振り払うように首を振って、黒板を見ると、静かに前の戸が開かれた。入ってきた担任の顔が、どことなく浮かない。
まさか、という思いがよぎった。
皮肉なことに、この世には「嫌な予感ほどよく当たる」という格言があり、
この朝もその例に漏れなかった。
「田島陽斗くんですが、今朝発作を起こして倒れ、島の診療所に入院になりました」
担任の声が、遠く感じた。
倒れた……? 入院……? と衣川はぼんやりと担任の言葉を反芻した。
「……る、明」
「ん……」
後ろのクラスメイトに声をかけられ、ようやく意識が戻ってきた。
「あ、ごめんごめん、ぼーっとしてたわ」
「明まで風邪かいな? 移さんといてよ」
「風邪じゃねぇよ」
どうやら、陽斗は風邪らしい。だが、元々喘息持ちであるし、倒れたということもあって入院ということになったとか。
島の診療所と言ったら一つだ。
「よっしゃ、後で見舞いに行くか」
「騒がないんだぞー、明」
「俺は餓鬼か」
そんな他愛のないやりとりにどっとクラスが沸く。
そう、こうやって、ムードメーカーをやっていればいいのだ。それが衣川の常。
陽斗と結ばれることなんてあり得ないのだから、自分はクラスのムードメーカーというお道化の仮面を被って過ごしていればいいのだ。