教師と生徒
お前の方が心配、という衣川の言は正しい。亜希に対する執着もそうだが、体調もだ。
衣川と馬鹿話して、普通に生活している隙間隙間で、陽斗は発作に見舞われることが多くなった。時には、衣川の前でも。初めて衣川の前でなったときは、さすがの衣川もあのへらへらとした顔を青ざめさせて、どう対処したら、とあたふたしていた。笑い事ではないが、衣川の動揺した姿なんて、滅多に拝めるものではないから、面白くもあった。
だが、懸念事項であることに変わりない。定期通院で医者にかかったとき、最近発作の頻度が多いことを話したら、「精神的に辛いということはないか」と聞かれた。そのときうっかり口を滑らせて「好きな人ができたんですが告白できません」と陽斗的にはだいぶオブラートに包んだ状態で話したところ、母が根掘り葉掘りと聞いてくるものだから、気が滅入って、諦めることにする、と言ったのはまだ記憶に新しい。
その実、諦めたわけではない。亜希とは何度か接触を試みているが、やはり教師と生徒という関係からはみ出すことはない。
今日も今日とて、授業のための資材運びに駆り出されている。他の生徒は嫌がるが、陽斗は亜希に近づきたい一心で買って出た役職である。
「今日は地図だよ。あ、埃払うから避けてて」
亜希が黒板に貼る地図を引っ張り出す。亜希は歴史教師だ。地図というと地理教師のイメージが強いが、日本史だろうが、世界史だろうが、地図が絡むことがある。簡易地図を描いて説明する歴史教師もいるようだが、中途半端なことはしたくない、と亜希はよくよく地図を使う。
まあ、実を言うと、亜希は画伯なのである。日本を何度か黒板に描いていたが、それはもうひどくて、生徒があんぐり口を開けたまま、何も言えない状態になったことは何度もある。
本人にもその自覚はあるようで、地図が必要なときは大体資料室から持ち出すのだ。
といっても、やはり歴史は地理と比べたら、地図を使う回数は少ない。それに地理教師は大体の世界地図が描けるから、いちいちこんな重たい資材を使わない。
そのため、ほったらかしの資料室にある地図は埃を被っているのだ。
「けほっ」
離れたつもりだったが、埃を吸ってしまったらしく、陽斗は咳を一つこぼした。亜希が半分振り向いて、「悪いね」と謝る。
「大丈夫で……ひうっ」
息を変な方に吸い込んだ上に埃が喉に入った。……これは自ずと、最悪の事態が導き出される。
「げほげほげほっごほっぐふっがはっげほっげほっぐっ、くふっ、くふっ……かはっはっはっはっはっはっ……」
発作からの過呼吸。この状態になると、頭がぼんやりとしてくる。おそらく、酸素不足なのだろう。だが、望んで止まるものなら、苦労はしない。
床に踞り、咳だか過呼吸だかわからないものを続ける陽斗をさすがに亜希も見兼ねたようで、地図を置き、陽斗に肩を貸しながら、保健室へと連れていった。
五分くらい、咳が続いて、それからぜぇぜぇと耳障りな呼吸に切り替わる。陽斗は力なくぱたりとベッドに倒れた。
「田島くん……」
心配そうに陽斗を見つめ、手を握る亜希。その温もりが愛しかったが、陽斗はふるふると首を横に振った。
「先生……授業に行かないと……」
「でも」
「俺は、慣れてますから……」
養護教諭が、寝かせてあげてください、と亜希を優しく諭す。それでも不安そうな亜希の元に、がらがらと保健室の戸が開く音が訪れた。
現れたのは、衣川だった。
「次の時間歴史で、田島が資料取りに行ったのになかなか来ないと思ったら……やっぱりここだったか」
ふう、と息を深く吐き出す衣川は、つかつかと陽斗のベッドに歩み寄ってきた。ちなみに、もう始業の鐘は鳴っているから、授業を抜け出してきたのだろう。といっても、担当の亜希がここにいるから、始まってもいないのだろうが。
「無事か?」
「一応……」
「全然無事じゃないやん」
いつものような言葉の応酬を終えると、衣川は、鋭い目付きを亜希に向けた。
「木原先生、田島は寝てれば大丈夫だから、授業に来てください」
「……わかりました」
亜希は心配そうに陽斗を見たが、やがて衣川の雰囲気に気圧されたように立ち上がり、おずおずとその場を去っていった。
あんなにつんけんしなくてもいいのになあ、と思いつつ、陽斗は眠りに身を委ねた。亜希に握られていた手は、まだそこに残る温もりをこぼさないように、と握りしめられていた。