第五話 フヴァール村にて
うっすらと目を開けた途端、濁流のごとくなだれ込んできた強烈な光が、瞼の内側に一面の白をぶちまけていた。
ちくちくと疼く目元を両腕で覆い隠した私は、思わずぎゅっと瞼に力を込める。
「リュシエンヌ様、お気づきになられましたか!」
いくらか聞き慣れつつあるその呼び声に驚いた私は、はっと目を開けた。
「あれ……? ファーディアさん……?」
白一面だった世界が、突如として無数の色彩を帯びてゆく。視覚を通じて得た情報がどっと頭の中を駆け巡り、そのあまりの膨大さに、私はくらくらと目眩をおぼえていた。
「ルルちゃん! 大丈夫かい?」
“呼び声”はもうひとつあった。よくよく見てみると、ファーディアのすぐ側から、覚えのある人影がこちらを覗き込んでいる。
「エレミヤさん……?」
お尻の下が、とてもゴワゴワする。
ここでようやく私は、藁を詰め込んで作られた簡素なベッドの上に寝かされていることに気付いたのだった。
「ここって、フヴァール村……ですよね。そっか……もうこんなところまで下りて来てたんだ」
鼻の奥をほんのりとひりつかせる、ハーブのスパイシーな香りが薄く漂う室内。わずかに身じろぎするたび、リネンのシーツに染み込んだ爽やかな石鹸の香りがふわりとのぼってくる。
ここは、谷の麓のフヴァール村。旅人や行商が、谷越えの前に立ち寄る小さな宿村である。
「ああ、良かった……良かったよ」
傍らから心配そうに私を覗き込む、ちょっぴりふくよかで人の良さそうなおばさんは、私が日頃から贔屓にしている薬草店“銀の月”の女店主、エレミヤさんだ。
谷から外に出ることは滅多にない私だったが、この村には研究用の薬草を調達するために、以前から度々訪れることがあった。ごくごく小規模の村ということもあって、もちろん彼女だけではなく、この村のほとんどの人たちが顔見知りばかりである。
知ってる顔があるってだけで、こんなにも安心出来るものなんだ。
お城にはおそらく誰ひとり知り合いなどいないであろう私にとって、この村は想像以上に落ち着ける場所だったらしい。馴染みの女店主の曇った面持ちとは裏腹に、私の心はかえって晴々としてくるのだった。
「あんたが倒れちまったって聞いて、みんな心配してたんだよ。どこも痛いところはないかい?」
腰をかがめてこちらをじっと伺いながら、エレミヤさんは私の両頬をするすると撫でてくれた。
小柄な彼女の体格に見合った、小さな手。
ついさっきまで、お店の品物を触っていたのかな――微かにローズマリーのような安らぐ香りのする、とてもあったかい手だ。
家族のいないエレミヤさんは、お店で顔を合わせるたびに、私のことを本当の娘のようだと可愛がってくれていた。
そんな優しい“お母さん”の不安を一刻も早く取り除いてあげたくて、私は彼女のぷくぷくした両手をしっかりと握って、満面の笑みでもって応える。
「心配かけてごめんなさい、エレミヤさん。大丈夫です」
それでどうにか安心してくれたのか、彼女は強張った表情をすぐさま引っ込め、屈めていた腰をトントンと叩いて、どっこらしょの掛け声とともに背筋を伸ばした。
けれど彼女はすぐにまた、何やら気遣わしげに身を縮こまらせ、しきりに頬のあたりをさすり始める。
「昨日はいろいろあったからね……今は村中が大騒ぎだから、あんまりお構いも出来なくて、申し訳なかったよ。でもまあ、ルルちゃんにはファーディア様がずっとついてらしたから、心配ないとは思ってたけど」
そう言ってエレミヤさんが脇のファーディアを見遣ると、彼は真一文字に引き結んだ口元はそのままで、返事の代わりに粛々とお辞儀をしてみせた。
彼が、ずっと私のところに――?
おそらく何となしに零されたであろうエレミヤさんのその発言に、私は軽い引っ掛かりを覚える。
だって、そうでしょう?
本来ファーディアがついているべきなのは、私なんかじゃなくて――
「そうだ……王子は? レオ王子とエイル王子はどこにいるんですか?」
二人が近衛のファーディアを側に置いていないなんて、少し妙だ。
違和感をおぼえたのは、ファーディアがここにいることというよりも、彼らがここにいないことの方だったのかもしれない。
「それは――」
彼はきっと、特別な理由があって、二人に固く命じられているのだ。
原因は、村で起きたという“騒ぎ”だろうか――?
はっと目を見開いた私は、射し込む光に目を細め、脇の小窓から外を見遣っていた。
――ちょうどその時のことである。
「ルル!」
慌ただしく玄関口の扉が開け放たれ、扉のどこかに付けられていたらしい魔除けのドアベルがカラカラと騒々しい音をたてた。
それと同時に、漆黒のガウンを羽織った長身の青年が、血相を変えてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
間違いない――あれはレオだ。
露出した肌のあちらこちらに包帯が巻かれてはいるものの、弱った様子もなく全力で駆けてこられたあたり、大きな怪我などは負っていないようである。
「良かった、気が付いたんだな! 真っ青な顔でぐったりしてたから、ほんと心配してたんだぜ」
気が付くとレオは、ほとんど鷲掴み状態で私の両頬を大きな手の中にすっぽりと収め、わしゃわしゃと乱暴に揺さぶっていた。
「ひゅみまへ……」
舌が回らない。何すんのよ、もう!
突然のこねくり回しに、私の意識は再び朦朧とする。
――剣の握り跡だろうか。レオの手の腹のあちこちには、私の手にはない硬いデコボコがたくさん出来ている。そんなゴツゴツした手の平にこねくり回されるのは、岩肌に頬ずりしてるみたいで辛いものがあった。
だけど、ちょっと意外だ。
いわゆる“温室育ち”の彼ならばきっと、生まれてこのかた一度たりと怪我なんてしたこともなさそうな、綺麗な手をしていると思っていたのに。
王族なんてものは皆、挫折や苦労などとは無縁の、煌びやかな世界の中だけで生きているのだと思っていた。ピカピカに掃除の行き届いた豪奢なお城の中で、とびきり高価な衣装を身につけて、美しいものだけを愛でながら気ままに暮らしているのだと、ずっと思い込んでいた。それなのに。
もしかして私は、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない――
確証のないものを、あたかも真実であるかのように思い込むことは、知識の探究者として最もやってはいけないことだ。
時には軽蔑さえ抱いていた彼らの暮らし振りというものが、偏見に満ちた空想の産物でしかないことに気が付くや否や、私は己の浅はかさを激しく悔やんでいたのだった。
「す、すみません。突然気分が悪くなってしまって」
だがそれとは別に、とりあえず当面の問題を何とかしなくてはならない。
渾身の力を込め、どうにかレオの両手を頬から引っぺがした私は、乱れたサイドの髪を手ぐしで整えながら、小さくため息をついた。
「いや、あんなものを見ちまった後なら仕方のねえ話だ。今が無事なら、それでいい」
ところが、またもや懲りもせずレオは、私の両頬を手で覆い、すいと鼻先を寄せてくる。
そうして、すっきりとよく見える額を私の額にこつんとぶつけてきた後で、彼は再びまじまじと私を覗き込んでいた。
「熱はなさそうだな。顔色も――良くはねえけど、まあ悪くもねえってとこか」
ぱちくりと目をしばたたかせて、私は間近に浮かんだ真紅の両眼を捉える。
レオって、何処からどう見ても男くさい顔にしか見えないと思っていたけど、こうしてじっくり観察してみると、意外にまつ毛なんかはフサフサしてるし、綺麗な目をしているかもしれない。
真面目な顔をしてさえいれば、ちゃんと肩書き通りの“貴い人”にだって見えなくもないのに、どうして普段はあんなにちゃらんぽらんなんだか。
珍しく彼が真剣な顔をしているせいなのか、距離を詰められるたびいつも身体中から生じてくる嫌悪感が、今日ばかりは一向に起こってこないのだった。
距離を――詰められる?
そこまで思いを巡らせた後でようやっと、私は自分とレオとの、鼻先がくっつきそうなくらいの距離感に気が付いていた。
普段通りなら考えるより先に体が動いて、無理やりにでも一定の距離を保とうとしているところなのに。
瞬時に茹で上がった私の脳みそは、すっかり抵抗する術を忘れてしまっていた。
レオの後ろから“あらやだ”とか何とか、エレミヤさんの黄色い声が聞こえてきたおかげで、私の頭の中は更なる動揺と混乱に塗り潰されてゆく。
「あ、あのっ……」
「何だ?」
しかしながら、相手はあのチャラいレオ王子である。外野のひやかしなど、どこ吹く風。わたわたとうろたえる私の気持ちなど察した気配もなく、彼は“顔色伺い”という名の急接近をやめようとはしてくれなかった。
「あの……近い、です」
「何言ってんだ、近くで見なきゃ何も分かんねえだろ」
「そ、それはそうなんですけど」
思わず俯いた私がレオの体を押し返そうとすると、彼はやや苛ついた声でもっともらしい台詞を口にして、私のささやかな抵抗をぴしゃりと撥ね付けた。
チラチラと上目にとらえた彼の表情は、露骨なくらいに怒気をはらんでいる。まるでいかにも、“この非常時に、細かいことを気にかけている場合か”とでも言いたげに。
――なんでよ、どうしてこんなときだけ正論ばっかり並べるのよ。
これでは何だか、私の方が非常識な人間みたいである。
バツの悪さにいたたまれなくなった私は、そそくさと話題を入れ替えることにした。
「あの。そういえば、ゆうべのドラゴンはどうなったんですか?」
ついつい忘れかけていたが、私は自らこうして口にしながら、ようやっと昨晩の一連をはっきりと思い出していたのだった。
森のひとところを覆い隠すほどの、途轍もなく巨大なシルエット。
この世のものとは思えぬほどの、禍々しい醜悪なディテール。
無造作に転がされた骸の山と、とめどなく拡がり続ける鮮血の海。
人喰いドラゴンの記憶が脳裏に蘇った途端、私の胸はたちまち激しい動悸に包まれていた。
「いや、それが――あいつには逃げられちまってな」
「逃げた?」
苦々しい表情で頭を掻いたレオを前に、私は憚らず素っ頓狂な声を浴びせてしまっていた。
向こうが逃げたって、どういうことなの?
あのときの私たちは、蛇に睨まれた蛙も同然だったはずだ。
活きの良い餌を目の前にした猛獣がすたこらと逃げ出す理由なんて、どこにも見当たらない気がするけれど――もしかして、私たちを食べる前にお腹いっぱいになっちゃったとか?
「そのことなら、エイル王子に聞いてみたらどうだい。今ちょうど王子が、村の被害状況を調べてくださってるんだ。あのでかいのには、随分畑や伐採場を荒らされたりしたからねえ……それに昨日は、他にも大変なことがあったんだよ」
首を捻り回して答えを探す私に語りかけて来たのは、エレミヤさんである。
「大変なこと?」
しかし、次々と湧いてくる疑問を何一つ解決出来ずにいる私は、もはや周囲で飛び交う言葉を、ただただおうむ返しにするしかなくなっていた。
「そりゃもう、びっくりしたよ。村の者がね、“盗賊団”に襲われちまったんだ」
「と、盗賊団!?」
ちょっと待って、ドラゴンの話はどこへ行ったの?
エレミヤさんの言葉を聞いた私は、混乱の渦の中へ真っ逆さまに突き落とされ、訳も分からぬままそこで、無理矢理こね回されているような気分になった。
たった一晩の間に、何が起きたっていうの?
のどかなフヴァール村を襲った騒動の全貌って、一体――!?