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双子の王子と運命の神姫  作者: タチバナ ナツメ
序章 運命の神姫は巣立つ
1/8

第一話 迎えにきた残念王子

 それはある日の、夕暮れ時のことである。

「さあ言えよ、ルル! 俺のこと好きなんだろ?」

「違うよね、ルル。君が好きなのは私だけなんだろう?」

 ああ、また始まってしまった。

 いつも通りに私の側で、やいのやいのと喚く二人を順繰りに見回して、私は盛大なため息をついていた。

「俺とこいつのどっちがいいか、今日こそははっきり決めてもらうぜ。お前が言うまで、テコでもここを動かねえからな。覚悟しろよ」

 そう言って、自らの頑なな意思を示すかのように、男はたくし上げた袖口から伸びた筋肉質な腕をがっしりと組み、眼前の古ぼけたテーブルにどっかと腰を下ろした。

 彼の名は、ライオネルという。

 鋭角を描く整った眉山にきりりと力を込め、目尻に向かって緩やかに下がった紅い瞳で、彼は私をじっと見下ろしている。

 広いテーブルのあちこちに散らばっていた羊皮紙を、無遠慮に堂々と尻の下に敷いて座るその姿に、私は露骨にイラッとさせられていた。

 ――それクッションじゃないんですけど。私の大事な研究資料なんですけど。

 書きかけの書類の上を選んでわざわざ腰掛けてくるあたり、“仕事なんていいからとにかく俺の話を聞け”とでも主張しているつもりなのだろうか。

 自分の都合ばかりを押し付けたがる身勝手な態度には心底うんざりする。けれど、さぞかし仕立ての良さそうなあのベルベットのガウンに、ちょうど今頃、書面のインクががっつり染み込んでいる頃合だと思うと、ほんの少しだけせいせいした。ガウンの色がインクと同じ黒でなければ、もっといい気味だったのに。

「恥ずかしがるのも分かるよ。しかし、もう我々にこれ以上待つ時間はないんだ。今日こそは私かレオか、君の言葉ではっきりと答えを聞かせてもらう」

 一方、長椅子に座った私の、真隣に佇むもう一人の男はエイルワードという。彼は無頼の自己中男“レオ”ことライオネルの弟だ。

 この二人は双子の兄弟らしいのだが、言われなければ一生気付かなかったのではないかというほどに、顔立ちも体つきも性格も全く似ていない。

 烏羽色(からすばいろ)の艶々とした黒髪と、スタイリッシュに整えられた顎鬚。くっきりと瞼の刻まれた甘い紅玉の瞳。浅黒く焼けた肌に、がっちりと引き締まった筋骨隆々の体躯。男臭さを押し固めて創られたような兄と比べると、弟の風采は対称的とも言えるほど優雅で、尚且つ繊細である。

 絹糸のような黄金(こがね)の髪に、ふさふさと柔らかそうなまつ毛の寄り添う、明るい空色の瞳。雪白のきめ細やかな肌。そして、すらりと伸びた細長い四肢。気安く並んで立つことがためらわれるほど、彼の顔面偏差値はとにかく高い。兄のレオも決して偏差値が低いと言っているわけではないのだが、彼とエイルとでは、方向性があまりに違いすぎるというか、何と言うか。

 一見すれば、知的で紳士的で品のある弟の方が、ずっと人格者であるように見えなくもないのだが――ところがどっこい、世の中そんなに甘くはない。外見も中身も体裁も何もかも、完璧な人間なんてそうそういるもんじゃないのだ。

「それにね、君にはまた私の研究の手伝いをしてもらわなくてはならないんだ。今の私の研究を成就させるためには、君の助力が不可欠なんだよ。だから私と一緒に来てほしいんだ。お願いだよ、ルル」

 つぶらな瞳を細めて、エイルはきらきらと屈託なく微笑んだ。空色の瞳が瞬くたび、羨ましいくらい上向きにカールした金色のまつ毛から、虹色の光の粒がこぼれる。何ともまあ――()()()優美な風采である。

 実はこう見えて彼は、王国内ではそこそこ名の知れた優秀な“錬金術師”である。畑は違うが、知識の探究者という点で共通項を持つ“魔法使い”の私も、彼の多岐におよぶ知識量と思考の柔軟性、そして探究への熱意の深さには一目を置いている。

 しかし――だ。

「あのう……念のため確認しますけど、貴方の研究ってどんなでしたっけ」

「嫌だなあ。何度も話したのに、忘れてしまったのかい。君のその薔薇のようなかぐわしい香りをいつでもどこでも感じたいから、君と同じ匂いを人工的に作り出す研究をしているところだって言ったじゃないか。とりあえず手始めに君が今穿いてるぱんつを私に」

「近付かないで、気持ち悪い!」

 ほとんど殴りつけるような勢いでエイルの口にフタをして、私は再び盛大なため息をついた。

 やっぱりこいつ、何言ってんだか全然わかんない――っていうか、どう考えても頭おかしい。

 才能の無駄遣いというのは、まさにこういうことを言うのだろう。なまじ彼の実力の高さを理解しているだけに、残念で仕方が無い。

 こういう輩がいるから、“錬金術ばかり研究していると善悪の判断がおぼつかなくなる”とか、“頭のいい犯罪者の大半は錬金術師だ”とか、堅気の人間から根も葉もない噂を立てられるのだ。健全な精神で日々の研究に勤しんでいる、真面目な錬金術師の方々に土下座して謝れっての。


 少し専門的な話になるが、錬金術とは、神の力を借り受けて引き起こす“奇跡”――いわゆる“魔法”の力を、視覚化・物質化することである。

 そのままでは単なる目に見えないエネルギーでしかない、魔力の根源たる“マナ”を結晶化し、例えば薬や道具のような、どんな人間にでも扱える物質に変換する――それこそが、彼ら錬金術師の本分なのだ。

 一方、魔法使いの私たちが日夜取り組んでいるのは、現存する魔法の可能性をとことん追い求めることだ。新しい魔法の開発や、より良い使用法の研究に始まり、魔法使いとしての高い素質を持つ者を探し求めること、優秀な後継者を育成すること、などなど。総じて“魔道”と呼ばれるそれらは、マナを扱う才能を持つ、ほんの一握りの者にしか出来ないことである。

 万能たるマナの力を操り、展ずることを魔法使いの本分とするならば、錬金術師の本分は、それを民間に下ろし、人々の暮らしを豊かにすることだ――と、少なくとも私は思っている。

 にもかかわらず、エイルのような私利私欲のための研究に没頭する連中が後を絶たないから、いつになっても彼ら錬金術師は、根強い偏見の目に晒され続けるのだ。

 迷惑なのは、私たち魔法使いまでもが、とばっちりで世間からの冷蔑を受けることである。

 関連性は大いにあるが、魔法使いと錬金術師とでは、そもそもやってることが全然違う。それなのに、“同じように引きこもって研究してるし、魔法使いだってだいたい同じだろう”とか、とんでもない大掴みで一括りにされてしまうこちらの身にもなってほしい。

 私たち魔法使いに、人里離れた辺境の地で暮らす者が多いのは、そういう理由があるからなのだ。

「ははは、これは失敬。みんなのいる前でこんな話をするなんて、私もどうかしていたよ。君が照れ臭がるのも無理はないね」

「そんなことを当たり前のように思いつく時点でどうかしてるし、照れてません。心の底から気持ち悪がってるのがどうして分からないんですか」

「ふふふ、強気な物言いもとても愛おしいよ。そうだね、ここでは何だから、ちょっと向こうで詳しい話を――」

「触らないで! この変態!」

 駄目だ、てんで会話にならない。

 こないだはこいつ、“どこへ行っても君の美しい声で癒されたいから、世界中の生き物の声を君と同じに変える研究をする”とか何とか言っていたような気がする。世界中の生き物が自分と同じ声で話すなんて、不気味すぎて想像もつかないし、何より誰が喋ってるんだか全然分かんなくなっちゃうでしょうが。まったく、どんな感性してるんだか。やっぱり頭おかしい!

 かつての研究とやらの進捗状況がどうなっているのか――またそれがどんな経緯をたどって今の研究に変遷していったのかなどということは、聞きたくもないし、興味もない。というか、どれもうまくいっていないことを毎日心の底から願っている。

 とにかく、私の“レオよりもエイルの方が酷い”という話は、このあたりでお分かりいただけただろうか――


「おい、待てよエイル。ルルが嫌がってんだろうが」

 そのとき、煌めく笑顔でじわりじわりと詰め寄ってくるエイルをぐいと脇へ押し退け、レオがテーブルから立ち上がっていた。未乾燥のインクがべっとりとついた羊皮紙を、しっかりとお尻に貼り付けたまんまで。

 誰が親切に剥がしてやるもんかと心に決め、私は出来得る限りの冷たい目つきでレオを一瞥する。

「なあルル。そいつと一緒だと何されるかわかんねえし、俺と向こうへ行こうぜ。何ならお前の部屋でもいいからさ、とにかく二人っきりで話がしてえんだ。いいだろ?」

 何だかこいつ、こういうの慣れてそうなんだよなあ――

 ひっつめ髪を撫で付けたレオは小さくウインクをして、わざとらしく私の肩を抱いてくる。どうせ誰にでも言ってるんでしょ。なんてチャラい男なの。

「場所を移す必要なんてありません。だいたい、私の部屋で一体何をするつもりなんですか」

 すかさず私は彼のいやらしい手を肩からはたき落とし、今度はありありと敵意のこもった目で思い切り睨みつけてやった。すると彼はとても意外そうな顔で両目をしばたたかせ、けろりとこんなことを零しやがったのである。

「何って、お前。そりゃあ、ひとしきりちちくり合った後、そのまんまセッ」

「軽々と言うんじゃない、このセクハラ野郎!」

 ――危なかった。

 すんでのところでチャラ男のみぞおちに拳をめり込ませた私は、下腹を抱えて座り込んだレオをとどめとばかりに足蹴にしていた。

 何をするか事前に説明しておけば、何でもしていいとでも? ほんとに馬鹿なんじゃないの、こいつ。

 根深い変態のエイルと比べれば、単純なレオの方がマシ――?

 いや、全力で撤回する。やっぱりどちらもたいして変わらない馬鹿だとする説を有力視しよう。私は心の中で、繰り返しそう呟いていた。

「お前は俺の嫁になるんだよな、ルル」

「いいや、違うよ。私の妻になってくれるんだよね、ルル」

「しつこいっつーの! いい加減に諦めて帰ってください! 研究の邪魔ですから!」

 まだ言うつもりなの、こいつら。何だか今日はいつにも増してしつこい気がする。

 すっかり呆れ果て、疲れ果てた私は、再び何度目かの長嘆息を漏らしていた。




 分かりやすいスケベで、本能のまま生きる筋肉馬鹿のレオと結婚している私。

 分かりやすい美形で、爽やかな変質者のエイルと結婚している私。

 どちらの自分も想像さえしたくない。心底願い下げである。

 しかしながら私の――たったひとつしかないはずの私の未来は、必ずこの二人のどちらかの行く末と繋がっているらしいのだ。こんなに恐ろしい話が他にあるだろうか。


 それは、私が生まれるずっと前から決まっていたのだそうだ。

 人間の身でありながら、精霊(アナム)の住むとされるこの深い深い谷底において、“幽谷の貴婦人”と呼ばれた大魔女メーヴに育てられることになった私――見習い魔法使いルルことリュシエンヌは、マグ・メル王国の伝説の中にある、王国滅亡の危機を救う“運命の神姫”であるらしい。

 ――とか唐突に語り始めてしまうと、私の頭の方こそアレだと思われても仕方がないレベルの壮大な話ではある。しかしその伝説が、このマグ・メルに古の時代から実在していることは紛れもない事実であり、少なくとも私の周囲の人間は、皆それを当たり前のように信じ、受け入れている。

 伝説の中の一節によれば、運命の神姫は天空神からの神託を受けて、この国の二人の王子を導き、マグ・メルの危機を救うとか。

 そう。この辺りでもう、お気付きのことだろうとは思う。

 私だって未だにほとんど半信半疑ではあるけれど、今目の前にいる二種類の馬鹿は、その伝説の中で運命の神姫が導くとされている王子たちなのだ。

 伝説とか英雄譚なんてものは、そもそも聞く者に勇気や希望を与えるために存在するお話なのではないだろうか。それなのに、実際の二人の残念性能たるや――現実などどうせこんなものだと、世知辛い真理をまざまざと見せ付けられた気分である。

 二人揃って顔だけはやたらと良いところがまた、元々の残念さを悲劇のレベルにまで増幅させている。

 双子はひとつの魂を二つに分けて生まれてくると言うから、原材料が同じなあたりから既に道を踏み外しているのだ。きっとそうに違いない。


 たとえ単細胞だろうと天才と紙一重のやつだろうと、将来大金持ちが約束されるなら、どちらでもいいからとりあえず結婚しちゃえばいいじゃない。

 そんな無責任な意見を押し付けてくる友人もいるが、私はそんなもの絶対に認めない。

 ようやっと私は偉大な師匠のもとで、魔道の研究に勤しむ楽しみを覚えた矢先だと言うのに――

「釘を刺すようで悪いけど、あんたには魔道の才能がないから、これ以上ここで修行を続けたところで、いつまでたっても魔法使いになんてなれやしないわよ。だからさっさと腹をくくって、お嫁に行っちゃいなさい。そうすりゃ、ここにいるよりずっといい暮らしが出来るのは間違いないんだから」

 いくら凄い大魔女だからって、易々と人の心を読むのはやめてください。

 唐突に、広い研究室(ラボ)の隅っこに置かれたソファに深々と背中を預けた師匠――大魔女メーヴが、ゆるくウェーブのかかった銀色の髪を掻き上げ、いつもの妖艶な声でさらりと言い放っていた。

「師匠! なんてこと言うんですか!」

 私は思わずムキになって長椅子から立ち上がり、呑気にぷかぷかと煙管を吹かす師匠に詰め寄った。

「適当なこと言って厄介払いしようなんて、そうはいきませんよ! 私のこと拾ってきたの、貴女なんですからね! 最後まで責任持って育ててください!」

「そんなペットか何かみたいに言われてもねえ……確かにあんたを拾って育てたのは私だけど、それは王様直々のご命令だったからだし」

 そう言って師匠は、腰まである彼女の長い髪を、ソファの後ろで延々と梳いていた弟子の一人を振り返った。

 大胆なスリットの入った、ワインレッドのロングドレスを揺らし、裾からのぞく生白い脚を悩ましげに組み直して、彼女は小さく首をかしげる。

 ――余談だが、ソファの周りにいる弟子は一人だけではない。もっとたくさんいる。

 見目麗しい青年たちが、肘置きにされたり、灰皿や飲み物を持たされたりしながら、彼女の周りを取り囲んでいるのだ。これはもう、ただそこに居るってだけじゃなくて、もはや“侍らせている”と言っていいレベルである。

 私にとってはもう見慣れたもので、今更何とも思わないが、ここへやってきて初めてこの光景に直面した者は、大抵言葉を失う。そして露骨に、何も見なかったフリをする。

 はっきり言おう――これは師匠の趣味だ。たくさんいる兄弟弟子たちが皆美形ばかりなのも、彼女の単なる趣味である。

 こういうの、逆ハーレムっていうのかな。

 とりあえず自分が、世の女性の標準がコレだと思い込んだままで成長することがなくてよかったと思う。

「あんたはとても頭がいいから、誰よりもお勉強がよく出来ることは認めてあげる。だけど、それだけよ。肝心の実技が出来なきゃ、魔法使いにはなれないの。赤ん坊の頃からここにいるあんたならもう、充分よく分かってるでしょう?」

「うっ……そ、それは…………」

 あくまで涼しげに、淡白に。

 次々と残酷な事実を摘まんで並べては、容赦なくそれを突きつけてくる師匠を前に、私はとうとうぐうの音も出なくなってしまっていた。

 そんなことはとっくに分かっている。

 私に魔道の才能なんて、これっぽっちもないことは。

 これまでの人生のほとんどを魔法の研究のために費やしてきた私には、魔道の基礎理論や情報構造、応用のためのプロセスを語らせたら、誰にも負けない自信がある。

 だけど、それだけだ。師匠の言う通り。

 魔法使いに不可欠な“マナを操る力”に著しく欠けているおかげで、私は基礎の基礎にあたるごく簡単な魔法でさえ扱うことが出来ない。今では自分よりもずっと年下の弟弟子にさえ、ドヤ顔で実力差を見せ付けられる始末だ。

 だから私は生まれてこの方、ずうっと見習い魔法使いのまんまだ。それでも、あの偉大な大魔女が目をつけて拾ってくれたのだからと、努力に努力を重ねることは決してやめなかった。それなのに。

 師匠、今結構重大なことをさらっと言いましたよね。言いましたよね?

『確かにあんたを拾って育てたのは私だけど、それは王様直々のご命令だったからだし』

 この一言で、全て納得が行った。これまで感じていた違和感の正体も、全て分かってしまった。

 私は、大魔女に見初められた人間ではない。それゆえに今後も、魔道の才能が開花することなどない。私の“一人前の魔法使いになりたい”という夢は、たった今完全に打ち砕かれてしまったのだ。

 ――うすうす勘付いてはいた。それでも受け入れたくはないと、ずっと押し隠してきたことだったのに。

 哀しくて、悔しくて。私はただ唇を噛み、目頭から溢れそうになる熱をぐっと堪えることしか出来なかった。

「大丈夫だぜ、ルル。俺、勉強なんて全っ然出来ねえけど、それでも普通に楽しく生きてる!」

 黙れ、筋肉馬鹿。あんたのどこが普通なのか説明しろ。

 真っ白な歯列を煌めかせて笑ったレオが、何故だか得意満面でグッと親指を立てているのを見て、私は胸に黒々とした思いが湧いてくるのを感じた。

 またいつものように殴り飛ばしてやろうかとも思ったが、もうそんなことはどうでもいい。

 そんなことよりも今は、長年暮らしてきたここに私が居続ける理由がなくなり、今にも追い出されてしまうかもしれない状況に立たされていることの方が、よほど気掛かりでならなかった。

 いろいろあったけど、私――ここでの暮らしが本当に大好きだったのに。

 そう思った途端、堪え続けていた涙がとうとう零れ落ち、気がつくと私はさめざめと泣いていた。

「お、おいルル……泣くなよ。泣かせるつもりで言ったんじゃねえんだ」

「ルル、元気を出しておくれ。君に泣かれることほど、辛いことはないよ……」

 こみ上げてくる嗚咽のおかげで、珍しくおろおろとし始めたレオとエイルの言葉がよく聞こえない。

 しばし私は、とめどなく溢れてくる涙をひたすら拭っていた。

 ――そんな折のことである。

「ったくもう、馬鹿ね。そんな捨て猫みたいな顔しないの。私はね、あんたが自分の本来の才能をちゃんと活かせずにいるのが勿体無いって言ってるだけなのよ」

「し、師匠……」

 不意に強い力で腕を引かれ、私はソファに座した師匠の胸元へ、覆いかぶさるように倒れ込んでいた。

 ほんのりと甘く、それでいて、朝露に濡れた森林の香りのように清々しい――上質の精油のような芳しい香りがふわりと立ちのぼったかと思うと、それとほぼ同時に、私の涙まみれの顔全体が、マシュマロのように柔らかくて暖かいものに包まれていた。

 こ、こ、これは――!

 師匠の艶っぽい顔の下でいつもぷるんぷるん揺れている、あのたわわな――!

「おっぱい……」

 いや、レオ。そこタイミング合わせてこなくていいから! あと、露骨に喉を鳴らさない!

 突っ込みたい気は満々だったが、何しろ顔面全体がすっぽりと師匠のマシュマロに覆われてしまっているせいで、それも叶わない。

 どんだけでかいの、これ。っていうか、普通に苦しいんですけど――!

 師匠にあったかい言葉をかけてもらえた喜びよりも、今はとにかく息苦しさから逃げたい気持ちの方が断然上回ってしまっている。

 しかし、もごもごと言葉にならない呻き声をあげる私の頭をぎゅっと抱きかかえたまま、師匠は甘い締め付けをやめようとはしてくれなかった。

「この谷を出ればきっと、あんたには選びきれないほどたくさんの道が拓けるに違いないわ。だから時間を無駄にしないためにも、さっさとここを出なさいと言ってるの」

 師匠――落ちこぼれの私のことを、そんな風に思ってくれていたなんて。

 どうにか自力でマシュマロの海から脱出したものの、間髪を容れずに押し寄せてきた嗚咽の波によって、すぐにまた私は、息苦しさの渦の中に引きずり込まれてしまっていた。

「で、で、でも……師匠…………」

 引きつけを起こしたみたいに咽び泣く私の頭を、苦々しく笑った師匠が優しく撫でてくれる。

 すごく、嬉しい。

 だけど、どうしよう――やっぱり私、このままずっと師匠のところに居たいよ。

 ここに居させてもらえるなら、雑用係だってなんだってやるのに。

 そんな風に私が、師匠の深い愛情を噛み締めていた矢先のこと。

「なんという美しい師弟愛だろうか……! 素晴らしいよ、ルル! 涙が止まらないよ!」

「うおおおお……悲しいよなぁ、寂しいよなぁ。そうだよなぁああああ……」

 そういえば、こいつらまだ居たんだった――

 はばかることなく号泣する二人の王子を見て、ひりひりと切ない痛みを放っていた私の心は一気に冷め果て、現実に引き戻されていた。

 私が悩まなくちゃならない原因を作ったあんたたちが、なんでそれを全部差し置いて感動に浸れるわけ!?

 わしゃわしゃと頭を掻いた私は、眼差しを鋭く尖らせて、泣きじゃくる二人の男に再び挑みかかっていた。

「うるさい! 大の大人の男が、わんわん泣くな!」

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