逃走
私の『蒼い目』と、電話口の少女の立花さんの声があれば、余裕で逃げ出せるはず。
そう、思っていたのだが。
「ヤバい!!すぐそこまで来てる!!」
「姉貴!!そっちを右に曲がったほうがいいって!!」
誠の指示に従い、裏路地を右に曲がる。もう、ここがどこだかわからない。
それでも逃げる。捕まれば、死ぬ。
「立花さん!!なんで裏世界の私はこんなに迷いなく追い掛けて来られるの!?」
『分からない……!どうしてなのか、私にもさっぱり……!』
私はわずかに舌打ちし、再び走り続ける。裏世界の私の限界まで、あと20分という所だろうか。
どうしよう。逃げ切れるのかな。
死にたくない。死にたくないよ。
そんな声が、私の脳裏をよぎる。私も誠も、息遣いが荒い。私なんかは普段全然運動しないから、まったくスタミナが持たない。
裏世界の私の限界。それは、本来居るわけがない別世界の住人に課せられたタイムリミットだ。よくわからないが、立花さんによると『もう一人のあなたがこの世界に居られるのは、もって一時間。それまで逃げられれば、あなたの勝ちだよ』らしい。
そしてかれこれ40分。この時間、ずっと逃げては休みを繰り返している。普段全然運動しない私が、ここまで逃げられたのは、ここの地形と誠による案内のおかげだ。
私達が逃げているこの場所は最近都市開発が盛んで、建物が多い。そのため、おのずと『裏路地』の数も増えてくる。複雑にいりくんだこの裏路地は、一種の『迷路』になっていた。いくら足が早くても、こんな曲がり角が多いと走るのは不便なはずだ。
そもそも『足の速さ』というのは、『直線距離をどれだけ速く走れるか』で決まる。なら、曲がり角や障害物の多い裏路地に逃げ込んでしまえばこっちのものだ。
「ありがとね、誠」
走りながら、私は誠に向かって微笑んだ。最初は私が誠の手を引いていたが、今は既に誠に手を引かれる始末だ。何がお姉ちゃんだ。恥ずかしい。
「……別に、これくらい」
少し照れ臭そうに言う誠の姿は、私にとって一種の救いになったかもしれない。
誠は普段この裏路地をよく使っているらしく、曲がり角の多いルートや、直線距離が短いルートなども熟知しているようだった。ほらね、立花さん。やっぱり誠は役に立ったでしょ?それじゃなくても、この子は私の大切な弟だもん。
といっても、やはり裏世界の私の足は速く、全力で走っていなければすぐに追い付かれそうになるほどだった。それでも、先程まではこの複雑なルートで多少撒けていた。
しかし、ほんの10分前くらいから彼女の動きが変わった。どんなに複雑なルートを縫うように走っても、何のブレもなく追い付いてくるようになったのだ。おかしい、絶対におかしい。まるで私に探知機を付けているかのような動きに、私は恐怖を覚えた。
「何……なの!?なんで……こんな……おかしいよ!!」
私は携帯の時計表示を見た。残り10分ほど。ヤバい、逃げ切れるか――――――――
その時、私は不意に何かに足をすくわれたような感覚を覚えた。
私の身体が、宙に浮く。
「ぇ…………」
次の瞬間、私は地面へ豪快に叩き付けられた。
「っ!!」
「姉貴!!大丈夫!?」
うつ伏せになって冷たい地面へ倒れた私に、誠は駆け寄ってきてくれた。倒れた拍子に落とした携帯も、拾ってくれた。
ダメだ、早く逃げなきゃ。このままじゃ、すぐに捕まる。
私は膝を立て、自身の身体を持ち上げた。痛い。今までずっと走っていたからなのか、身体が重い。膝はガクガクと震え、腕も情けないほど力が出ない。
早く。
早く逃げないと、『彼女』が――――――
「見ィつけた」
不意に、不気味なほどに楽しげな声が、周囲に響き渡った。不気味なほどに楽しげな、『自分』の声が。
「あ……あぁ……」
捕まった。僅か五メートルほど先に、私と同じ顔をしたポニーテールの少女が立っていた。
服装は特に珍しくもないような、Tシャツと短パン。Tシャツは黄色い物を着ており、短パンはよく見るとジーンズの裾を切ったようなものだった。
「……っ!来んなよ!姉貴の偽者め!なんで姉貴を狙うんだよ!」
歯ぎしりをした誠が、苛立った口調で裏世界の私に聞く。
ダメ。もしかしたら誠、あなたも殺されるかもしれないんだよ。
一方、裏世界の私は寂しげに笑った。
「偽者……か。酷いこと言うわね、誠。裏世界の誠は『お姉ちゃん、お姉ちゃん』なんて言って可愛かったのになァ」
「うっせぇ!そっちの俺と、この俺は関係ないだろ!ていうかぶっちゃけ質問に対して答えてないだろ!」
のらりくらりとした裏世界の私に、誠はさらに苛立つ。今にも殴りかかりそうな雰囲気だ。
「……何で、私の居場所が分かったの?まるで私に発信器を付けてるような、正確な動きで――――――」
と、その時、ふと思った。表の、この私に『蒼い目』が備わっているのなら。
裏世界の私にも、『蒼い目』があるのかもしれない。
しかし、裏世界の私はまるで私の考えを読んでいたかのように、
「違うわ。私にはあなたみたいな化け物じみた妙な力は備わってない。ていうか、それって『逆世界の反応を認識する力』でしょ?だったらこの世界じゃ私が使えても反応なしで終わるじゃない」
確かに、彼女の瞳は蒼くない。まるでエメラルドのように、綺麗な緑色だった。
なら、どうやって――――――?
「今の時代って便利よね。GPSなんて物が、携帯にまでくっついてるんだから……って何か時代を感じる戦後生まれのおばあちゃんみたいなこと言ってるわね、私」
そう言って彼女が取り出したのは、携帯ほどの大きさの小型端末だった。少し小さな画面には、この付近の地図データのようなものと、赤い点が表示されていた。
GPS。携帯。地図データ。赤い、どこかを示している点。その赤い点は限りなく真ん中に近いところに表示されており、それと接触していることを示しているかのようだった。
「――――――ッ!!」
まさか。
「まさか、私の携帯を頼りに……!?」
「大当たり。今の高校生なんか携帯持ってて当然でしょ?だからそのGPSのデータを……どったらこったら……で、現在に至るわけ。ゴメン、これ『あいつら』に借りたからよく仕組み分かんないのよねー」
そう言って彼女は照れ臭そうに言うが、はっきり言って怖い以外の何物でもない。
だって、今から私はこいつに殺されるんだから。四肢は全て恐怖で震え、もはや何も出来ない。
「まぁいいわ。あと大体……五分くらいか。まぁ、私が触れれば自ずと『法則』が発生するんだし。はい、ちょいとごめんねー」
そう言って、彼女は無造作に私に触れようとする。
と、誠が前に出てきた。私を守ろうとしてくれてるのだろう。
――――――母さん。
「――――――ッ!!ダメ!!誠!!殺されちゃうよ!!」
「大丈夫だって!!こいつ、さっき母さんを殺した時にナイフ突き立てたままだった。ってことは、こいつは今攻撃する方法なんかな……」
そこで、誠の言葉が詰まった。
それは攻撃されたからではなく、押し退けられたわけでもない。
ただ、優しく抱き締められた。ただ、それだけだった。
「……ぇ?」
あまりに突然な、突拍すぎる行動に、誠は固まってしまっていた。
あー、一回ゲーム実況ってやってみたいなー。歌ってみたでもいいけど。
……そんなことできるだけの技量がありませんがね。