最悪の報告
「ハァ……ハァ……」
私は家の裏から抜けた路地裏の、その地べたに直接座り込んでいた。隣で誠も息を切らせている。まぁ、それはそうだろう。もう何分走ったか分からなかった。もう、『彼女』から逃げているというより、訳の分からない現実から逃げていたのかもしれない。
幸い、窓から飛び出した時に庭にありきたりなサンダルがあったため、靴下のままで走るという事態は避けられた。お陰で足を怪我したりはせず、安全に逃げる事ができた。
しかし、私達の心は無事ではなかった。少なくとも、私の心だけは。
だが、それは弟も同じだったようだ。
「母さん……母さん……!」
隣で小さくなりながら泣きじゃくる弟の姿は、どこか子供じみていた。私に顔を見せないようにしているのは、それでも私に弱いところを見せたくないからだろうか。
私は、ゆっくりと息を吐き、未だに『通話中』の文字が表示されたタッチパネル式の携帯を耳に当てる。そして、言う。
「早く教えて……!何であの娘は私を追ってくるの?何の為に?どこから―――――」
『なにやってるの?』
しかし、返ってきたのはとんでもない返答だった。
『弟さんも一緒に連れてきて。邪魔になるだけだよ、早くどこかへやって?もしかしたら囮になってくれるかも―――――』
その瞬間、私の大切な何かがプツン、といった気がした。
「ふざけないで!!そんな事はどうでもいいから、早く教えてよ!!こっちは意味が分からない事ばっかでオカシクなりそうなの!!それに誠は邪魔なんかじゃない、私の大切な弟だから!!大好きな、私のたった一人の弟なんだから!!それを『邪魔』って……あなたは誰!?何様のつもり!?こんな訳の分からない事に巻き込んで……あなたは何なの!?」
立て続けに怒号が飛び出した。隣で誠が、目に涙を浮かべながら驚いたような顔をしている。いや、怯えているようにも見える。
そんなことはつゆしらず、電話の向こうの少女は、落ち着いた口調で話し出す。
『私は……私の名前は、立花真咲。それより、あいつの事を話すね』
立花、と名乗った彼女に、私は未だ親しみを持てなかった。まぁ、当然だろうが。
「あいつって……私達を追い掛けてきた、あの娘のこと?」
『そ。まぁ追っているのはあなた達じゃなくて、あなただけどね』
私はもはやはらわたが煮え繰り返る思いだったが、いつまでも怒鳴っていては話が進まない。なので、私はとりあえず話を聞く事にした。
『まずは……ちょっと遠回りして話すけど、ちゃんと聞いてね。あと、これから話す事は全部本当。ファンタジーじみた話かもしれないけど、最後まで聞いてね』
そう言うと、彼女は小さく息を吸った。
『いい?まず、この世界は……言うなればトランプのカードみたいなものなの。カードには裏と表があるでしょ?それと同じ。この世界にも裏と表があって、私達は表の世界に居る』
私は、必死に理解しようと頭にその言葉を叩き込んだ。
ちょっと待てよ。先程のあの少女。帽子を被り、黒髪をポニーテールにしていたあの娘の事を、電話の少女は『表の榎田舞』と言っていた。
いや、そんな事をいちいち確かめる必要はない。
だって。
深く被っていた帽子の奥で光った緑色の瞳と、髪型の違いを除けば。
私と、まったく同じ顔をしていたのだから。
しかし妖しげに活発そうに笑うその姿は、どう見ても私とは違った。なんというか、まるっきり逆なように思えたのだ。
「私……?あれは……私なの……?もうひとつの世界の……私……?」
『偽者だけどね。所詮、あなたのコピーみたいなものだよ。だけど、運動能力的にはあっちが勝ってる。裏の榎田サンは、運動が得意だってことになってるからね』
運動の得意な……私。なんだか、透みたいだ。何が偽者よ、あっちの方がよっぽど本物らしいじゃない。私なんか一人でウジウジしてるような奴なのに。
「でも……なんで私を殺そうとするの?私、あの娘に何かしたの?」
すると、立花は急に黙りこんだ。向こうで深呼吸するような音が聞こえた。
『……ねぇ、二ヶ月くらい前のニュースを覚えてる?』
「二ヶ月前くらいの……あぁ、あの高校生が四階から落ちたっていう奴?それなら今日の朝―――――」
そこで、言葉が詰まった。
朝。今日の、朝。
母さんが、間違ったのかそのニュースを録画していた。そう、母さんが。
あの時、母さんは不思議そうな顔をしていた。あの顔は、もう見ることが出来ないんだ。笑った顔も、困った顔も、照れた顔も。
膝に、透明な一滴の液体が落ちた。それは私の灰色のジーンズにシミを作った。
それを確認した瞬間、同じものがどっと溢れてきた。
「母……さん……。私が……置いていったから……私が……止められなかったから……。母さん……!!」
頬から何滴も涙が落ちてくる。やだ、なんでこんな……弟の前で……お姉ちゃんなんだから……弱いとこ、見せたくない……!
しかし、立花は構わず話を進める。
『泣かないで。きっと、こっちの方があなたにはショックだと思うから。あの四階から落ちた高校生が、誰だか分かる?』
「え……?」
その瞬間、私は肩を震わせた。
それは、きっと悪い予感が浮かんだからだろう。そんなわけない。隣町には男子高校生なんていっぱい居る。そんな、彼が。そんな訳は…………ハハ、そうだよ。そんなわけない。
「う、そでしょ?そんな訳ないよ。だって、だって。そんな訳…………」
『……うすうす勘づいてるね。残念だけど、これは嘘じゃない』
そんな。朝変な考えが浮かんだけど……まさか、当たってないよね。
「『彼』じゃないよね?誰か別の人だよ。『彼』な訳ない……」
「…………。あの事故で死んだのはね……」
やめて。言わないで。嘘だと言ってよ。
嫌だ、聞きたくない。
彼が、そんな。彼に限って、そんなわけ。
「……やめてよ……!」
しかし、立花は言った。
「神代透。そう、榎田サン。あなたと五歳の頃に別れた、あの神代透君だよ」
夏休みですね、夏休み。わーい、夏休みー(棒)