存在干渉
「ちょっとわりぃ、俺トイレ行ってくるわ」
俺達はあのあと、本を取り、館内の端にある四人用テーブルに座った。大体二時間程経っただろうか。
そして、不意にそう言って、もう一人の俺は席を立った。こっちの世界の、『本物』らしき俺が。
あいつは言ってくれた。『信じる』と。
こんな化け物かもしれない俺を、あいつは信じてくれた。
だから―――――
「ちょっと」
目の前に座っていた立花が、明らかな疑念のこもった目を向けてきた。
「な、何だよ」
ハァ、と立花は一つ溜め息をつく。
「もしもあなたが神代君を殺したりしたら……私、あなたを絶対に許さないから」
思わず肩が震えてしまった。その眼差しは殺意以外の何物でもない。疑念、不信感、悪意……そういったもの全てがその赤色の瞳に集約され、俺に問い掛けているようにも見えた。
続けて、立花は口を開く。
「あなたが別の世界に戻っても関係ない。文字通り、地の果てまで追い掛けるから。絶対に、逃がさないから」
その危険な瞳が、血走った瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。まるでヘビに睨み付けられたネズミのような、そんな恐怖感に俺は思わず生唾を飲み込んだ。
「………………」
何も喋ることが出来ない。怖いのだ。
この少女は俺が何か不穏な動きをすれば、ためらわずに俺を殺すだろう。そんな目だ。
「私、神代君が大好きなの。あなたも確かに神代君。だけど、私は『あの』神代君が好き。こんな私でも分け隔てなく接してくれる、そんなあの人が」
不意に、立花の目から殺意が消えた。
「まぁ、その点だったらあなたも確かにいい人なんだろうけど……それでもあなたは信用出来ない。あなたは神代君じゃない。私の中では、あなたは全く別の人間。だからあなたが不審な動きを見せたら、私もそれなりの抵抗に出る」
それは、きっと真実だろう。生半可な脅しではない。『脅迫』だ。
と、立花は急に表情を和らげた。口の端を歪める。
「……ふふ。私、オカシイかもしれないね。ストーカーみたいに付け回して、あの人をずっと見ていたくて……でも、それでも私はいい。もしもあの人に嫌われても―――――」
その表情は再び真剣になった。
俺が今まで見てきた中でも一番に恐ろしい、それでいて誰かを守る……そう決意したような瞳で、立花はこう呟いた。
「―――――私は、神代君を守る。あの人が、大好きだから」
それは、俺に言ったようにも、立花が自分に言い聞かせたようにも聞こえた。
「あ~スッキリした」
あ、ついつい言葉に出てしまった。やっぱあれだな、トイレし終わった後って物言えぬ解放感を味わえるよな。
そんなわけで、俺は小綺麗な洗面所で手を洗い、トイレのドアノブに手を掛けた。
……しかし、何故かそれを捻る事を躊躇ってしまう。
「……やっぱり汚い奴だよな、俺って」
あの時、俺は確かに『信じる』と言った。もう一人の俺を。緑色の瞳を持った、俺とは正反対な感じの俺を。
なのに、何故俺はこのドアを開く事にこうも恐ろしさを感じているんだ?本当に信じきったのなら、何の躊躇いもなく開け放っているはずなのに。
答えは簡単だ。信じきれていないのだ。
あの俺の分身が、俺の影が、俺にとって無害であると。
そう、言い切れないのだ。
「……開けろよ、俺」
このドアを開けば、その先には緑色の瞳を持った俺と立花が立っているだろう。いや、正確にはトイレを出て通路を通ってからだが。
……違う。そんな屁理屈で時間を稼ごうとするな。そんなおふざけで無理矢理気分を晴らそうとするな。
「……このドアを開けろよ、俺」
信じろ。もう一人の俺を。あの正体不明な、それでも『友達』だと、『仲間』だと言い合ったあの男を。
もしもあいつの意図しないところで俺の命が脅かされても。俺が死にかけて、立花がもう一人の俺を憎んだとしても。
それでも。
それでも、あいつを信じ続けろ!
「…………っ!!」
簡単だった。
今までの俺の気持ちと相反するかのように、そのドアは軽かった。
まるで紙でも押したかのように、ドアは開く。
そして、その向こうに―――――
「……何トイレのドア相手に怖い顔してんだ?」
「ぶっ!?」
その向こうには、もう一人の俺がいた。待ちすぎて痺れを切らしたのか、ドアの前に立っていた。いや、そんなに待たしたか?
と、いうより。
「立花!何でここにお前が居るんだよ!!ここ男子トイレだぞ!?」
もう一人の俺の隣には、立花が立っていた。この図書館のトイレは、駅のホームなどでよく見るような感じの物だ。トイレの前の通路が曲がっており、異性が覗けないようになっている(覗くような異性が居たら恐ろしいのだが)。
で、立花はその健全な男子用通路に恥ずかしげもなく侵入している。やめろよ、おい。もう一人の俺、止めろよお前。
「だってぇ……神代君が心配だったから……」
うぐ。こいつこんな可愛げな、それでいて哀れみを誘うような顔が出来んのか……ちくしょう、さすが俺の彼女。
「……いや、こいつが『またあなたの影響で事故ってるかもしれない』っていうからさ。仕方ないから連れて来て……」
「んなァわけあるかッ!!トイレでどうやって事故るんだよ!!」
バカか。というよりそんなに心配か。お前には俺がどこぞかの幼稚園児に見えてんのか。
連れてくるこいつもこいつだ。俺、こいつのために悩んでたのに。
……でも。
「なんか、楽しいな」
やっぱり他人との会話は楽しい。他人とふれ合うのは楽しい。
人間、一人じゃ生きていけない。そう思った。
「……結局、情報は少なかったな」
「そうだな。もうそろそろ帰ろうぜ。もう一人の俺、今日は泊めてやるよ」
「え、マジ!?泊めてくれんの!?」
「だって友達だしな。それにいくあてもないだろ。お前の家が俺の家になってんだし」
横で立花が『信じられない』というような顔をしているが、気にしない。友達を家に泊めて何が悪い?
そんな事を言い合いながら、俺達は廊下に出た。長い廊下で向かって右がさっき俺達が居た図書館、左が大きな掃き出し窓だった。
この図書館は区役所と併合されている。そして図書館はここのフロア、四階だ。
何となく、窓からの景色が見たくなった。本当に何となくだ。街が一望出来る訳ではないが、それでも結構綺麗な景色なのだ。
そう、それだけだった。
それをするだけのために、窓に手を当てた。体重も、だいぶガラスに向かっていたと思う。
不意に、視界が揺らめいた。今まで見ていた街が視界の上に消え、次に区役所の駐車場が目に飛び込んだ。
「なっ……!?」
間違いない。これは――――――――――
そう口に出す前に、地面が目の前に迫っていた。
そして。
俺の身体が、猛烈なスピードで地面に叩き付けられた。
俺は、死んだ。
今回はいつもと逆です。シリアスの中に、ちょろっとコメディを投入しました。
……それだけです。一応この章のラスト近いです。たぶん。