最後の昼食
「あれ?一登、そんなところにあざなんてあった?」
喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた真紀子は、向かいに座っている一登の左腕の内側にある、赤いあざを見て言った。…かなり大きなあざである。
「え?」
一登が驚いた目で真紀子を見、慌てるようにあざをさすりながら言った。
「うん、あったよ。」
一登はそう言ってから「これ、火傷の痕なんだ。」と付け加えた。
「そうなの。」
真紀子は、そっと手を伸ばして、その火傷の痕に触れた。一登がどきりとしたような目で真紀子を見た。
…一登と真紀子は付き合い始めて3か月になるが、プラトニックな関係を続けている。
「…服、直してもらった?」
一登が突然言った。真紀子は「うん」と答えて微笑んだ。
1週間前、真紀子は職場の飲み会の帰り、酔っ払いに絡まれた。その時、突然一登が飛び出してきて、真紀子を助けたのだった。
服は酔っ払いに掴みかかられた時に、ボタンを引きちぎられたのである。
一登は、アイスコーヒーをひと口飲んでから言った。
「遅くなる時、必ず電話するんだよ。…あ、そうだ…携帯代えたんだよ。」
「えっ!?そうなの?番号も変わった?」
「うん、赤外線行けるよね。変更しといて。」
「うん!」
真紀子は、慌てて携帯電話を取り出した。
……
翌日-
真紀子は手作りのお弁当を持って、一登の仕事場に向かっていた。
一登は、友人と「弁護士事務所」を経営している。真紀子は「家事手伝い」で働いていないため、毎日のように、その一登の事務所に通っていた。
ドアをノックして事務所に入ると、デスクでパソコンを操作していた一登が真紀子に向いた。
その時、どんなに険しい顔をしていても、さっと笑顔に変わる。
その一登の笑顔を見るのが、真紀子の楽しみだった。
「いつもありがとう。」
一登はそう言って、応接ソファーを手で指した。
「…相変わらず忙しそうね。」
「ん…離婚の案件ばかりだけどね。」
「もう1人の弁護士さんは?」
「外に出てるよ。」
「そう…。じゃぁ、一緒に食べていい?」
「もちろん。」
真紀子は「お茶入れるね!」と言って、立ち上がった。
「おー…今日は、鳥の照り焼きかー。」
一登の嬉しそうな声が、背中に聞こえた。
……
その後も、真紀子は一登とプラトニックな関係を続けていた。
真紀子は(キスくらいはして欲しいな…)と思う事もあったが、女から言うのは「はしたない」と思っていた。
…そして、その時が来た。
ドライブを楽しんだ夜、いつものように海の見える場所に車を止め、2人でたわいのない話をしていた。
…一登が急に黙り込んだので、真紀子はふと一登の方を向いた。その時、唇を塞がれた。そして、そのまま抱きしめられた。
「…結婚して欲しい。」
唇だけを離して、一登が言った。真紀子は体が痺れているのを感じながら、微笑んでうなずいた。
一登はほっとしたような表情をして、再び真紀子の唇を塞いだ。
……
翌日-
真紀子はいつものように、一登の事務所に向かっていた。
(今日も一緒に食べられるかな…)
真紀子はそうわくわくした気持ちで、ドアをノックして開いた。
一登がデスクから立ち上がり、笑顔を見せていた。
「いつもありがとう。」
一登はそう言って、いつものように応接ソファーを手で指した。
……
その夜-
真紀子は、車の中で前を見たまま黙り込んでいる、一登の顔を見つめていた。
…何か様子がおかしい。
「…一登?…どうしたの?」
真紀子は、ずっと黙っている一登に言った。
「…ごめん…」
「え?」
突然のその一登の言葉に、真紀子はどきりとした。…もしかして、別れを告げられるのかと思った。
一登はしばらくの沈黙の後、呟くように言った。
「…今まで、どうしても言えなかったんだけど…」
「…?…」
真紀子は目を見開いて、一登の横顔を凝視していた。一登が前を見つめたまま言った。
「…俺…一登じゃないんだ。」
「?…え?」
真紀子が「どういう意味?」と言おうとした時、いつの間にか後ろにいた車のライトが光った。
真紀子は、眩しさに目を細めながら振り返った。
すると、一登がドアを開いて外へ出た。そして車の前を回って助手席のドアを開いた。
「出てきて」
真紀子はそう言われ、一登に手を引かれて車から降りた。
そして、後ろの車の傍に立っている男性を見て目を見張った。
一登がいる。弁護士事務所にいる時のスーツを着ていた。
真紀子は目を見開いたまま、隣にいる一登を見上げた。その一登は、黒いカッターシャツにジーパン姿である。
スーツの一登が、真紀子の方へ向かってきた。いつもの笑顔はなく、悲しげな表情をしている。
「一登?…え?どういうこと?」
真紀子は、動揺したまま言った。スーツの一登が真紀子の前で止まって言った。
「…真紀子ちゃん…ごめんよ。…俺たち…実は双子なんだ。」
「!!」
真紀子は目を見張り、黙って傍にいる一登を見上げた。…傍にいる一登は、うつむいて目を閉じている。
スーツの一登が言った。
「一卵性双生児でね。親ですら見間違えるほど似てるから…真紀子ちゃんが気づかなかったのも仕方がないんだけど…」
「…一卵性…双生児…?」
「そう。実は、君の隣にいるのは弟の「透」だ。」
真紀子は絶句して、両手を口に当てた。
「君が酔っ払いに絡まれた時…君を助けたのは俺じゃない。…たまたま、通りがかった「透」の方だったんだよ。」
「!!!」
「だが、君は俺だと…「一登」だと勘違いした。でも透は、君に本当の事を言えなかったんだ。」
「どうして…」
「透は、君に一目惚れしてしまったんだよ。」
隣に立っている「透」が伏せていた目を開いて「ごめん」と言った。
真紀子は震える声で言った。
「…じゃぁ…じゃぁ、弁護士事務所にいたのは?」
「俺だよ。一登。」
「!!!」
「透が君を助けた日に…もう夜中だったけど…俺は透から話を聞いた。…君を好きになってしまったこともね…。…2人で一晩中悩んだ。…悩んで結局、俺から本当の事を言おうって事になったんだ。…でも…」
一登は一旦そこで言葉を切り、目を伏せて言った。
「次の日、事務所に来た君の笑顔を見て…俺も…結局、本当の事を言えなかった…。」
「…そんな…」
「別に、君の気持ちを試そうとか、そんなつもりじゃなかったけど…それでも…君が気づいてくれるのを、期待していたのは確かだ。…でも…君が何も気づかないまま、透のプロポーズをOKしたと聞いて…本当の事を言うことにした。」
真紀子は、体をガタガタと震わせた。
「一登…」
「もうその名前を呼んじゃだめだ。…君が愛したのは「透」だよ。」
一登が、寂しそうな微笑みを見せて言った。
「それをわかっていても…君の手作りのお弁当を食べるのが、俺に残された唯一の楽しみだった…。…でも…もうそれも叶わないな…。」
一登は背を向けて、運転席のドアを開いた。
「!一登…待って!」
真紀子が、一登に駆け寄ろうとした。だが、その真紀子の腕を透が掴んだ。
「透…真紀子ちゃんを幸せにしろよ。…泣かせるようなことをしたら、俺が許さないからな。」
一登のその言葉に、透がうなずいた。一登は運転席に乗り込んだ。
そして、両手で顔を覆って泣く真紀子の横を、ライトをパッシングさせながら、ゆっくりと通り過ぎて行った。
(終)