8.理解
× × × ×
夕方になって、俺は例の場所にいた。
例の、崖の上だ。
普段なら、絶対にこんなところにしょっちゅう来ることになるとは思わなかっただろう。
しかし、この数日の間に状況はずいぶんと変わった。
動くはずがないと思っていたものが動き、変わるはずがないものが変わった。することがないと思っていたことを行い、考えるはずのないものを考えた。
ずいぶんの密度の高い数日だったと思える。戻ってきたあいつとあった日、その次の日からあいつの隠されていた部分に触れ、その次の日にここへ来た。そしてその次の日、なんと昨日のことだ。あのノートを渡され、現実を知った。
そして、今日。俺は片原さんと再会した。
ありえないと考えてきたことばかりだ。
ここで、明日。さらにありえないことが起こる。
俺は、どちらを選ぶべきなんだろうか。
俺は『あいつ』に殺されたい。
殺されて、俺が奪ってしまった命を『あいつ』に返してやりたい。存在したはずの人生を取り返すことは出来ない。しかし、この先を与えてやることぐらいは出来るだろう。二度目の人生を与えることぐらい、できるだろう。
しかし、『あいつ』は俺を殺さない。
望みが、俺と比べて純朴だからだ。
ただ、俺と数日を過ごしたかっただけ。
何日かを過ごし、そこで幸せをかみ締めたかっただけ。その後に続くことをまったく望まず、だからこそ俺を殺すことなんて考えない。
望みは、完全に相反している。
そして俺の望みをかなえるためには『あいつ』の手が不可欠で、
『あいつ』の望みをかなえるのに俺の手はいらない。
ならば、俺たちはどうすればいい?
あいつに俺を殺させるには、どうするべきだ?
まったくもって、わけがわからない。
この期に及んで、俺は、何一つできないのか?
自分のふがいなさに苛立ちが募った。
『自分の望みと、人の望みはいつもすれ違うものよ』
片原さんの言葉が頭をよぎる。
そのとおりだ。だから、迷う必要なんかないはずなのに。
「もういい」
俺はそうつぶやいた。
誰に言うでもなく、ただつぶやいた。
「………もう、悩むのはやめだ」
悩んだところで、もうどうしようもない。
俺は、望みをかなえられないのだ。
かなえることを、許容されていないのだ。
だったら、俺にはどうしようもない。
だから、せめて最後まで傍観させてくれ。
どんな結果になっても、受け入れるから――――
「あきらめるには、まだ早すぎる」
「…………え?」
ほうけた声が、口から飛び出る。
間違いない、この舌足らずなくせに大人びた口調、背後にあるあるようでない気配、異常がそこにある感覚。これらが示す存在は、
「――――アコ、ヤ………?」
「ええ、私」
どうなっている? アコヤは俺に告げるべきことを告げた。迫るべきことを迫った。そしてその後に、俺にも選択する必要があることを告げるとそのまま消えたはずだ。
俺はもう、全てを知っている。
なら、どうしてアコヤがここへ来る?
何の用もないはずなのに、どうして……?
「何で、」
「現れたかは特に疑問視するべきじゃない。重要なのは、私が何をしに来たか」
確かに、正論だ。
「なら、何しにきたんだ」
俺に、もう用はないはず。
だったら、現れる理屈もないだろう。
俺の言葉をどう取ったのか、アコヤが俺の真横まで移動してくる。
相も変らぬ、影人形。
しかし今回はその顔に当たる部分に、なんとなく翳りが見られるような気がした。
そこでふと思い出す。はじめてあったときのやり取りを。
『その問いには答えられない』
『どうして』
『私もわからないから』
あの時も、ちらりと、この影人形は表情を歪めていたような気がする。案外このアコヤという存在も、完全に無感動というわけではないのかもしれない。
しかし、何で今回はこんな表情になっているんだ?
他人事なのに。
「……………あきらめて、ほしくなかったから」
「へ?」
ポツリと、アコヤがつぶやく。
「あきらめたら、そこですべてが終わる。どうせ終わるなら、最後の最後まであがいて、最後の最後まで考えて、最後の最後のまで行動して、最後の手段まで使い尽くして、そしてそれでも駄目になってからはじめて、あきらめて」
まだあなたには、やれることがある。
そう、アコヤは続けた。
「まだ、やれることがある?」
「ええ」
「まだ、何かできるのか?」
「ええ」
「まだ、俺の望みはかなえられるのか?」
「さっきから、そういってる」
まだ、何かできる? 俺が? でも『あいつ』は俺を殺せない。俺が殺してしまった少女。俺が死なせてしまった少女。どうすればあいつに俺を殺させられる?
むりだ。
いや、
できるはず。
思考をこらす。アコヤの言葉を思い起こす。
最後の最後まであがけ最後?それは明日の夕方それまでに可能な手段すべてには意味があるはずあきらめるな今日俺がしたこと時瀬との会話片原さんとの対話そこにはたいしたものがなかったならその前朝ならどうだ?俺は何かを忘れていないか?最後の最後最終手段禁じ手いかなるものでも行って掴み取る相手を殺すその定義は何だ?どうすれば『あいつ』は俺を
「………なるほど」
そういうことか。
「つまり、俺の望みをかなえたければ――――」
立ち上がってアコヤを振り返る。
向こうも俺の言わんとしていることがわかっているのか、何処か達観したような様子で立っていた。
……………しかし、横に並ぶと小さいな、アコヤって。
が、そんな事はどうでもいい。
「 ?」
今は、
「 、 、 、 」
言葉を交わせ。
「 、 ?」
「 。 」
俺の望みを、かなえるために。
自分のためにすべての意思を無視しろ、他者が何を思おうと、自分の願望を突き通せ。
それが、望みをかなえるということだ。
「―――――そうか」
手段は、見つかった。
後は、実行するだけ。
しかし、本当にいいのだろか?
これを実行するという事は、真の意味で『あいつ』に対する命の押し付けになる。そうであるとしてもなお、俺にはこの願望をかなえる気概があるのだろうか。
…………当たり前だ。
そんなもの、もうとっくに持っている。
『あいつ』が俺の前から消えてしまった、三年前から。
「――――決まったのね?」
アコヤが、いつもとまるで変わらない冷淡な様子でたずねてくる。
「ああ、決まった」
と、なると、俺には少しばかりやるべきことがある。
アコヤに背を向け、慣れ親しんだ森の中へ歩を進める。
っと、その前に。
「……アコヤ、」
「何?」
怪訝な声。それもまあ、当然だろう。
「ありがとな、こんなこと、教えてくれて」
アコヤは何か考え込むように少しの間黙り込み、
「――――気にしないで」
そっけなく、少しぶっきらぼうに返事を返した。