4.悔恨
× × × ×
…………誰かが泣いている。
妙に高い声だ。小さい子供か、あるいは女性か、どちらかはわからない。耳に響いてくるのは何かの原因で涙をこぼす音だけだ。
「……………………――――」
何か、小さな少年のような声が混じった。
嗚咽、ではない。何か、ちゃんと方向性と意味を持った言葉の並び。
何をつぶやいた? あるいは叫んだ?
「………………ご――さい」
悲しい響き。
何かにさいなまれているのだろうか。
「……………………ごめ―――い」
わからない。
そんなに泣くようなものなのだろうか。
何かにさいなまれるとは、そんなにつらいものなのだろうか。
「ごめんな―い」
否、
それは、愚問だろう。
「ごめんなさい―――ごめんなさい―――」
俺自身、今も苛まれている。
そして夢の中の俺も、こうして苛まれることによって、泣いている。
「ごめんなさい…………」
謝ることはない。
謝っても、もう無駄だ。
『あいつ』は、帰ってこない。
だからもう、やめろよ。
「ごめんなさい」
やめろって。
「ごめんなさい………」
いい加減にしろ。
「ごめん……なさい」
もうやめてくれよ。頼むから。
「ごめんなさい」
…………いっても無駄だよな。俺なんだし。
ならせめて、ここから逃げるぐらいは許してくれ。これ以上聞いていると、昔の俺を殴り飛ばしたくなる。
さあ、おきよう。
おはよう。現実の世界。
「ん………………?」
目が覚めた。
何か、とてもいやな夢を見ていたような気がする。
まあいい。どんな悪い夢でも忘れてしまえば何もなかったのと同じだ。それに最近はいくらなんでも『あいつ』のことを思い出しすぎる。
俺にとってはこれぐらいの、つい先ほどまで見ていた夢の内容を忘れてしまうような無神経さが、ちょうどいいのかもしれない。
部屋の中央にしかれた布団、そこから身を起こし、ふと気になって自分の左側、部屋の入り口に向かっても左側に当たる方向に目をやる。
そこにあるのは、小さなかご。中には明るい色の毛布がしかれており、その上では、一匹の猫が体を丸めて眠っていた。
薄い茶色の毛に、白の縦縞。微動だにすることがなく、安心しきっているかのように、眠っている。
そろそろ、餌を用意しておかねばなるまい。
そう思い、俺は布団から抜け出した。
着替えよう。
そしてこいつに飯食わせて、学校へ行くのだ。
家にいてもやることがない。登校ぐらいしよう。
立ち上がって、枕元に置かれてある畳まれた制服に手を伸ばした。
いつもどおり上靴に入れられていた、一人分の手では数え切れない画鋲を排出して足を突っ込み、妙な言葉の弾幕と視線のレーザーを潜り抜け、前日よりも三十秒ほど送れて着席する。いつもどおり時瀬がよってきたが、大して会話も弾まず気のない返事の応酬のようになったところで、
「おはよう、リョウ君」
その声がかかった。
声の方向には、期待したとおりの人物の姿。
「よう、幾夜」
「おはようございます。高浜幾夜さん」
声をかけてきた幾夜に、二人で挨拶する。手にしている普通の学生鞄とやたらでかい包みが気になったが、でっかい包みの中身は期待通りのブツだろう。かなりの気合の入り方だ。
今日の昼が、楽しみである。
「あの、そっちの人は?」
幾夜の視線がその『こっちの人』、つまり時瀬を捕らえる。
「あ、そうだった」
そういえば時瀬のことを紹介していない。紹介してやろうと思って振り向く。
「俺の友達」
「へー。友達、いたんだ」
………おい幾夜、何だその評価は。確かに俺の友人は少ない。と、言うか時瀬以外に友人がいないのが現状だ。けど、それを正面から言ってのけるのはどうかと思うぞ。
「始めまして、高浜幾夜さん。リョウ君の友人の時瀬貢といいます。以後、お見知りおきを」
ぼんやりと考えているうちに挨拶を済ませる時瀬。
しかし何だ、そのやたらの慇懃無礼な挨拶は。そんな挨拶なんてされたほうは間違いなく引
「あ、はじめまして。高浜幾夜です」
かなかった。まったく、恐ろしく図太い神経だ。
それとも、慣れているのだろうか。時瀬のこの挨拶を聞いて、引かなかった人物は一人、それもかなりのお嬢様である人物だけだぞ。
「まあ、名前を聞くのも実際に会うのも初めてではないのですが、よろしくお願いしますよ。以後、友人としてね」
「うん。こっちも、よろしく」
よしよし。丸くまとまって何よりだ。
「で、何か用なのか、幾夜?」
「リョウ君、用がなくても、友人にあったら挨拶ぐらいするのが、世の中の常識ですよ」
「そうそう。用がなくても、話しかけてもいいんでしょ?」
「そこまでは言ってない。話しかけてもいいとだけ言っただけだ」
時瀬はやれやれとでもいうように首を振り、
「どうでもいいじゃありませんか。可愛らしい友人がいて、その友人が話しかけてくれる。それだけで十分でしょう?」
言われて見れば。
「確かにな。悪い、幾夜」
「ううん。いいよ別に。リョウ君がこうなの、今に始まったことじゃないし」
そうだったっけ?
まあ、多少無愛想なところはあったかと思うが。
「しかし、大きな荷物ですね、幾夜さん。中身は何です?」
「え? これ?」
にっこりと笑う幾夜。
見せびらかすように時瀬の目線まで掲げて、
「昼の弁当。リョウ君の分も入ってる」
おいおい、幾夜。ちょっと待て、って手遅れか。
でもそんなことこいつに言ったら、言ったりなんかしたら―――
「ほほ〜〜〜〜〜う。それは耳寄りなお話ですねぇ」
………………こうなっちまうだろうが。
時瀬はこちらに向けて微笑を浮かべる。いつものごとく爽やかホストフェイスならいいのだが、今日のはなんというか、
「いったい、いつ、そこまでの仲に進展したんです? 知り合ったのは、確か一昨日という話でしたよね? いったいその二日の間に、何をしたんですか?」
絶対零度の微笑み、とでも言うのだろうか。
恐ろしい。って、そのままこちらに接近してくるな。
「言っておきますが、逃がしませんからね? 白状するまでは、ですが」
「幾夜! 助けて!」
「えっ? えっと、私たち別にそういう関係じゃ――――」
「情けないですね、リョウ君? 女性に助けを求めるとは。しかし幾夜さん、有益な情報に感謝します」
動揺と困惑の混じった表情を時瀬に向ける幾夜。それにかまわず再び俺に視線が戻ってくる。
「私『たち』? もうそこまでの仲になっていたんですか」
「違う! いい加減変な疑いを向けるのはよせ!」
「いいじゃないですか。友人の潔白を証明してもらうのにも理由が必要ですか? さあ、話してください。早く!」
たらり、と顔を冷や汗が滴る。
知られてまずいことは何一つない。が、このまま話したとしても変なほうに解釈されるのは間違いないと見ていい。
しかしだからといってこのまま話さずに置くと余計にまずい。勝手に『ナニかあった』ことにされてしまう。
畜生、八方塞りか。
チャイムが鳴った。
まさに神の福音。
「ほら、時瀬、鳴ったぞ。さっさと着席しろ。面倒なことになる」
いささか以上に不満そうな顔をしながら時瀬は、
「………………まあいいでしょう。しかし、これで逃げられたとは思わないでくださいね。二人とも」
しぶしぶ、といった様子で自分の席へ向かう。
「ほら、幾夜。お前も急げ。来るぞ」
「あ、大丈夫。席、ここだから」
言って指し示した席は、俺の隣だった。
…………こんなに近くにいて気がつかないなんて、異常だな、俺。
本鈴がなった。
いつもどおり、例の女子生徒も教室に舞い戻り、今日という日が始まる。
本日の欠席者、一名。
知らない人。
さて、
昼休みが、楽しみだ。
× × × ×
ちゃんと中身のある授業と、時瀬から逃走する休憩時間を経て、昼休みである。
やはり先に何かいいことがあるとわかっているからなのか、妙に俺の足取りは軽く、どこかふわふわした感じではあったが、これぐらいは許されてもいいだろう。うまい食事に友人との会話。それ以上の幸いが学校生活において望めようものか。
まあ、そんなわけで。
若干、ではないかもしれないがとりあえず浮ついた足取りで、今日も向かったのは体育館裏である。昨日と違うところといえば、座り込んだのが校外に面した側の地面ではなく、そこから見て左側の面であり、尻の下にもブルーシートがあるという点だ。
幾夜はまだ来てない。今日は別段問題のない一日を送っていたから単に遅れているだけだろうか。
まあいい。それなら待つだけだ。
ぼんやりと上を見上げ、ふと思い立って左手首に目をやる。
赤色のにじんだ、しかし全体としてはまだ十分な白さと清潔感の残る包帯。
あのときにもらった包帯だ。
何気なくそれを取り去る。
現れるのはすっかりおなじみのメスシリンダーな手首。
痛々しく赤く引き攣れたもの、白い痕跡のみを残すもの、乾いたかさぶたを向けるもの、いまだにぱっくりと口を開けているもの。
様々な傷が、そこにある。
そのうちひとつを、なぞってみる。
赤い口を開けっ放しにしてある、深い傷。触れるたびにぴりぴりとした痛みが腕に走り、一瞬だけピクリと手のひら自体が痙攣する。
痛々しい、とは思わない。
これは、あいつの『思い出』だ。
俺が背負いきれない量、あいつにしかわからないようなもの。そんなことに触れたとき、俺は傷を刻む。それだけでなく、あいつの両親、友人、関係者、そんな人々が俺を攻め立てるたび、俺はそれを刻んだ。俺があいつを忘れそうになったときも、同様に。
傷を、刻んできた。
あいつの、記憶とさえいえるかもしれない。
俺はそれを体に刻んで、生き続ける。
それが俺の、贖罪。
俺の、償いだ。
「………………何やってるの? リョウ君」
いつの間にやら体育館裏に顔を見せていた幾夜。少し、というかかなり怪訝そうな表情を浮かべて俺をじど〜〜〜〜っと見ている。
ちょっと怖い……かもしれない。
「いや、べつに。単に傷の具合見てただけだ」
「ホントに………? また切ろうとしてたんじゃない?」
俺は笑い出しそうになる。何でそんなこと気にしてるんだ?
「何にもないのに切るかって。とりあえず飯にしよう。腹ペコだ」
まだ不服そうな顔を向けてくる幾夜。
はて? 何か今の説明に不足があったろうか。
「うん…………まあ、いいけど」
いって弁当を広げてくれる。量的には昨日と変化はないが、あいも変わらず期待させられる大きさだ。
「時瀬、ちゃんと撒いてきたか?」
「…………………たぶん、大丈夫だと思う。わかんないけど」
ってことは今ここにいてもおかしくないってことか。
まあいい。あいつがここへ到達できるとは思えないし、到達したとしてもあいつを巻き込んで三人でも昼食にしてしまえば言いだけのことだ。
「飯にするか」
「うん!」
「リョウ君」
「ん?」
「この後、空いてる?」
「後?」
「昼休み」
「ああ。いつもどおり退屈だ」
「じゃあ、一緒に来てくれる? 行きたいところが、あって」
「……………………」
「駄目?」
「いいや。かまわん」
そして、昼食後。
向かった先は市街地のややはずれ、学校の位置する場所よりもさらにはずれに向かって進んだ農村部だった。
道は狭く長く、サイドにはビニールハウスに畑。
絵に描いたような田舎の部分である。
俺の住む町は田舎にしては割と設備の多い地域なのでこのあたりまで来ると完全にほかの待ちに迷い込んだ気分にさせてくれるが、実はここ、市街地から徒歩三十分と離れておらず、学校からなら五分ほどで、この農村部分に来ることができてしまう。午後からの遅刻の心配がないのはいいが、道が長いので行きたい所までの距離が明確になり、鳴れないと歩くだけで少し気が滅入ってくる。
そんな道を、俺たちは二人並んで歩いていた。
傍目にはどう見えているのだろう。
「…………久しぶり」
不意に幾夜がもらした。
「何がだ?」
言われなくても、大体わかるが。
久しぶりなのは、俺もそうだ。
「このあたりへ来るの。昔、って言っても八年ぐらい前だけど、よく来てたから」
それは奇遇なことだ。
「それなら、俺も同じだな」
「リョウ君も?」
「ああ、よく時瀬と俺と『あいつ』の三人で来てた。そういや時瀬のやつ、あのときからあんなのだったな」
「変わってないの?」
「あんまり。いや、昔は小さかったからあんまり角も立ってなかった。今と比べたらそっちのほうがましだな」
いや、ほんとに。やたらと丁寧な口調で知的というかわけのわからんことを時瀬はよく話していた。もっぱらよくわからないって言ってさじ投げるのが俺。ちゃんと答えて変に失敗するのがあいつ。今朝の幾夜みたいに、よく武器になるようなこともらして、よくからかわれてた。今ぐらいになったらちゃんとあしらい方を覚えたんだろうが、もはやそれは望めない。
「ところで、リョウ君」
幾夜がこちらの顔を見上げてくる。
「『あいつ』って、誰?」
その普段とさして変わらない口調に、視線を景色から幾夜のほうへと何気なく戻し、
ものすごく真剣な、前にも一度だけ見たことのある人形のような顔を、見つけた。
二度目であるにもかかわらず、凍りついた。
自分の表情を冷凍してしまったものが恐怖なのか、それとも単なる真剣さにつられたものなのかはわからない。だが、例の問いと同様、その問いが幾夜にとって、至極重要な意味を持っているのは確かだ。
「さっき言ってたよね? 『あいつ』って。それ、誰なの?」
何なんだ、この異様な雰囲気は。
鬼気迫る、という言葉がある。
それぐらい、読書という文化のたしなみのない俺でも知ってはいるが、現実にそれを感知するのは初めてだ。
なにをそんなに、こいつは知りたがっているのだろう。
「……………どうしても、話さなきゃだめなのか?」
頼む。
俺は内心でそう懇願した。
あいつのことを、俺に語らせるのは、やめてくれ………
だが、
「駄目」
幾夜はその懇願とともに俺の言葉をいともたやすく振り払った。
「話して。『あいつ』って呼んでる人のことを。
それは、リョウ君にとって、どんな人なの?
…………教えて。私に」
くっ。
冷や汗が、俺の頬を伝い落ちる。
幾夜は変わらず俺の顔を見つめている。
「………………『あいつ』は、俺の……………」
言葉を搾り出す。どれだけ辛いことでも。
「俺の、罪だ」
そう表現するのが、最も適当であるように思える。
友人、知人、大事な人、様々な表現を連想することが可能だが、最も適当なのがその表現だろう。
今となっては。
一瞬だった。
幾夜の顔が、驚愕にゆがんだ。
「罪?」
真顔に戻り、繰り返す幾夜。
「ああ。罪だ。だって、俺はあいつを………………」
「いいよ。そこまで言わなくても」
幾夜は俺の脚を止めさせ、
「私、知ってるから」
その言葉を、俺が驚愕にゆがみ精神の安定を消失し理性のほとんどを喪失させ感情のすべてが絶叫し左手のひらが破けるほど強く手を握り締め呼吸が苦しくなるようなことを、
幾夜が、言った。
「なん…………で………」
ナンデイクヨガシッテイル?
ナンデソンナコトバガデテクル?
ドウシテ、ソレヲオレニツゲル?
「何で…………知ってるんだ? 幾夜」
だって、
それを知っているのは俺と、時瀬と、『あいつ』の親と、俺の親だけのはず。
それ以外に知っている人物がいるなんて、ありえないだろ?
ありえたとしたら、それは現実にはありえない――――
「リョウ君の言うところの『あいつ』に聞いたから」
なん、だと?
ありえない。
『あいつ』は、
『あいつ』はもう、
この世には――――
「それじゃあ、不十分?」
もう俺にはわけがわからない.『あいつ』にそっくりな存在があのことを知っていて、しかもどこから来たかといえば『あいつ』に聞いた?
どこからが嘘で、
どこからが本当なんだ?
「行こう? リョウ君。昼休み、終わっちゃうよ?」
「あ、ああ」
俺はひどく重い足を引きずり、歩き出した。
どうなっているんだ? 教えてくれ。
…………………助けてくれよ、『ミヤコ』……
× × × ×
そこは、崖だった。
山の中に走る、一本の獣道。そこを直進すると、この崖に突き当たる。木々の街道からせり出したそこには一本の木も生えておらず、生えている植物もせいぜい雑草程度。かといって荒れているかといえばそうではなく、小さい滝のような水の流れが生じていて、荒れているというより潤っている。木が一本もないのは単なる広さと栄養の問題だろう。その点さえ気にしなければ座り心地よし、眺めよし、広さよし、涼しさよしの最高の空間だ。
妙な思い出がなければ、の話だが。
正直な話、もうここに来ることなんて、ないと思っていた。
「どう? いいところでしょ?」
少なくとも自分からは。もう二度と来たくない、見たくないと考えていた。
それなのに今、俺はここに立っている。
「………………久しぶりに来たな、ここ」
幾夜と共に。
あのことを知る、人物とともに。
「え? ここ来るのも初めてじゃないの?」
崖の淵までとことこ歩いていき、下を見下ろしながら言った。
先ほどまでの鬼気迫る様子とは打って変わって、今はもう普段とまるで変わらない様子である。
「ああ。昔はしょっちゅう来てた。ここ、きれいだったし、広かったし」
俺と、時瀬と、『あいつ』。それと一時期は猫一匹。
ここへ来るときのメンバーはいつもその、三人と一匹だった。
「うん。確かにそうみたい」
言って崖に腰掛ける。
「けど、何かあったら滅茶苦茶危ないんだよな、ここ。一度時瀬が崖から転落しそうになったことがあったんだよ」
「うわっ〜〜〜 それ、相当危なんじゃない?」
俺の幾夜の隣へと移動する。
座りは、しない。
「危ないどころの話じゃない。寸でのところで俺が押さえたからいいけど、そうじゃなかったら今頃、俺らのこと雲の上から見下ろしてる」
「あははは、確かにね」
楽しそうに笑う。
いや、笑い事じゃないって。今でこそあいつのほうが軽いけど、あの時は時瀬のほうが重くて、俺も力なしだった。
思い出すだけでもぞっとする。後ろ向きに転落しそうになったあいつの体を支えたはいいが、結局自分の力不足のせいで二人まとめて落ちそうになりって危ういところを『あいつ』に救われたんだ。それがなければ、今頃俺も時瀬と一緒に雲の上だろう。
ほんとにやばかったな、あの時。
「けど、怪我とかなかったの?」
「落ちたあいつのほうにはなかった」
「それって、どういうこと?」
「………情けないことに、引き上げた俺のほうが後頭部打ったんだ」
「え―――? 本当?」
「ああ。血も出たし、痛かったし、気絶しかけた。ちょうどそこだ。幾夜、お前の後ろのところに石があるだろ?」
「うん」
地面から生えるように飛び出しているのは、ひとつの丸みを帯びた石。いい具合に出っ張っているので、昔はよくそこに座っていたものだ。
「それで後頭部をこう――――ガンッと」
「うわ、痛そう――」
痛いなんてものじゃなかった。危うく気絶しかけたほどだし、もしもう少し角度と威力が上だったら、今頃記憶喪失だったかもしれない。
なんとなく感慨深くなって、崖から下を見下ろした。
かなり、高い。
落ちたら、確実に助からないであろう高さだ。
それが、大人であろうとも。
絶対に――――
「…………けど、楽しい時間だったんでしょ?」
「何が?」
ぼんやりしていたところに、幾夜。
「ここですごした、時間」
「…………………」
ああ、楽しかったよ。
あの一件があるまでは。
「ここで、いろいろあったんだよね? 時瀬君が落ちそうになったり、みんなで遊んだり」
幾夜が、こちらを見上げる。
いつもどおりの、色と表情が明るい目だった。
「けど――――」
「もう会えない。あのころにも、帰れない。だよね?」
「…………………ああ」
できることなら、俺もあの日に帰りたい。
時瀬がいて、『あいつ』がいて、まだ傷のない俺がいる。そんな日々に、帰りたい。なにより、
俺は、『あいつ』に謝りたかった。
「ねえ、リョウ君」
くるりと回って、幾夜が立ち上がる。
「もしも、『あの人』にもう一度会う代わりに、その、会ったあとに死ななきゃならないとしたら、リョウ君は、どうする?」
ちょっとだけ、目の色が変わった気がする。あの鬼気迫る様子はない、少し笑っているような目だけど、どこか真剣さを感じさせる目に。
「それでも、会いたい?」
言われて、俺は考え込むように腕を組んだ。
…………そんなことができたとすれば、俺はいったいどうするんだろうか。
確かに俺はあいつに会いたい。しかしそうするために必要となるのは自分の命、か。
ありえない目標が確実に達成される代わりに、自分の命を差し出すのと、
自分の命を保持できる代わりに、ありえなく目標を達成するチャンスを失うの。
…………少し難しい。
むずかしいけど、俺にとってはひどく簡単な質問だ。
「…………会いたい」
「本当に、リョウ君はそれでいいの?」
悪戯っ子のような、しかし真剣さを漂わせる表情で俺を覗き込んでくる幾夜。
答える言葉は、決まっている。
「ああ。もしそんなことができるなら、俺は間違いなく会うだろうな。命ぐらい、軽くくれてやる。それに、」
「それに?」
「ちょっとの間だけだけど、一緒にいられるんだろ? だったら、それ以外に何か必要なのか?」
一生涯をかけてかなえたいと思っていた願いが、かなう。
それはつまるところ、一生涯の完結だ。
目標のなくなった生涯に、意味はないだろう。
ならば、目標の代わりにしてしまうことに抵抗は要らないはずだ。
「……………………」
俺の返答に何か思うところでもあったのか、幾夜は明後日の方向を見ている。表情からも明るさがすっぽりと抜け落ちて、うつむくような角度で悲しそうな顔をしている。
いったい、何が幾夜にそんな顔をさせてしまったのだろうか。
わからない。
「そうか……………まだ、『たいせつ』なんだね。『あの人』のことが」
「当たり前だ。だって、あいつは、」
「言わなくていいよ。言いたくないんでしょ?」
「………………すまん」
…………『たいせつ』、か。
いわれてみればそのとおりだ。
『あいつ』はあの日から、いや、それよりもずっと前から、俺にとっても周りの人間にとっても『たいせつ』だった。それは『いちばん』ではない『たいせつ』だったかもしれない。けど、『たいせつ』には変わりなかったんだろう。
けど、俺にとっては、それは違ったかもしれない。
たぶん俺にとっては、『いちばん』だったんだ。
「大事な人だったんだよな、俺にとっても」
「うん。そうだったんだよ。きっと」
そういう幾夜の顔は、先ほどよりもさらに悲しそうな色だった。
まるでなにか、縋っていたものを失いかけているかのような。
「じゃあ、リョウ君」
「なんだ?」
「その、『たいせつ』な人のためなら、その人が生きていけるなら、リョウ君はその人に殺されてもいい?」
はあ?
藪から棒になんて事を聞く?
案外幾夜も危ないやつだったんだな、剣呑剣呑。
それに、答えはもう出ているだろう。
「どういう意図なのかはわからないけど、たぶん、『あいつ』が望むんだったら、殺されてやるんだろうな」
あっさりと、俺は言った。
次の瞬間、幾夜の顔に浮いた感情を、俺は忘れることはできないだろう。
幾夜の顔に浮いたのは、驚愕と、戸惑いだった。
「うそ………………………」
あまりにも明確に、その感情は浮かんでいた。
絶対に予測できないものが目の前で起きたような、そんな表情。
ありえないことに直面したような顔。
どう表現したところで、それは変化しないだろう。心中を読むことは、俺にはできない。それは単に、俺に観察力がないとか、そんな次元ではない。そこに表れた感情が大きく、また混濁しているためわからないのだ。
それほどまでに、いったい幾夜は何を思った?
いったいさっきの俺の言葉のどこに、そうさせるだけの要素があった?
「幾夜……………」
俺は幾夜の方に手を伸ばし、
遠くのほうで電子音のようなチャイムを聞いた。
「あ……………」
幾夜が伏せていた顔を上げた。
「昼休み、終わった!」
先ほどまでの様子を隠している。無理している。
それがはっきりわかるような声で、動作だった。
「ごめん、リョウ君。先、行っててくれる?」
「幾夜……………」
どうしてやるのが、正しいんだろう。幾夜の意思を尊重するのか、それとも俺の意思を優先させるのか。
わからない。
「次の授業、どうするんだ?」
だけど俺は、
「ちょっと遅れるかも。大丈夫、気にしないで!」
幾夜のやりたいようにやらせてみることにした。
いや、正確に言えば違うな。
俺は向き合う勇気がなかったんだ。
幾夜の隠しているもの、内側にもぐりこんでいる感情の海に。
だからこれは、意思の尊重などではなく、単なる逃走だ。
「まあ、どうでもいいけど成績ぐらいは確保しとけよ?」
「心配ない心配ない。ほら、急いで!」
言われたとおり、学校へ向かって急ぐことにする。
今できることは、それぐらいしかないだろう。
俺はかつて『あいつ』とともに来た場所に背を向け、駆け出した。
そしてやはりというか、その日、幾夜は学校へ顔を出さなかった。
「どうして…………………………」
一人になって、私はへたり込むようにしてがけの際に座り込んだ。
ここに座るのは、本当は怖い。だけど、今はその恐怖にさえすがりつきたい気分だった。
本当に、今の私は空っぽだ。
「どうして、殺されてくれるの………?」
先ほどまで心の中で荒れ狂っていたものは、空っぽになっている。『彼』が逃げ出すほどの情動を、今の私は持っていない。
「『いやだ』って言ってくれれば、それでよかったのに……………」
わからなくなった。
どうしたらいいのか、わからなくなった。
私はいったい、
何を、選べばいいの?
その問いに答えるものは、いない。
そんなことはわかっている。わかっていても、知りたかった。自分が何を選べばいいのか、自分はどちらを選ぶべきなのかを。
自分か、彼か。
どちらが残るべきなのか。
どちらが、苦しまなければならないのかを。