3.質問
× × × ×
「……元気だな、こいつ」
「ほんと、げんきだね」
森の中、俺たちが「岩肌の広場」と勝手に呼んでいる崖の近くの広場で駆け回るそれを見つつ、二人同時で言った。
目線の先にいるのは、ねこ。
薄い茶色の毛に、白い縦縞、顔つきはかなり可愛げのある感じで、ヒゲが短い。種類はわからないが、元気にあっちこっちを駆け回っている。
あのときの、猫。
結局あの後動物病院に駆け込んで、いろいろと見てもらった末栄養不足で衰弱しているだけであることがはっきりした。そしてそのまま俺のほうじゃなく、この手のことに×××の方の親に来てもらい、一日様子を見るということで病院にその猫を預け、そのまま帰った。
それから、一週間である。
その猫は随分と元気になり、今では、これだ。
「子猫って言うか、子犬みたいだね」
「う〜ん、確かに、そうかも」
子猫といえばもう少しごろごろしてるイメージがあるが、こいつはそのイメージから完全にかけ離れている。かけ離れすぎて、もう猫というイメージが付いてこないのだ。
そういえば、
「「名前、付けてなかった」」
言ったのは二人同時だった。
「どうする?」
「どうする、って……りいは、どんなのがいいの?」
「いや、結局×××が飼うことになったんだろ? だったら俺じゃなくて×××がかんがえたほうが………」
「でも病院でも最後まで心配してたの、りいだよ?」
うっ。
「今もこんな風にして心配してるし、十分名前付けてもいいんじゃない?」
「……けど、俺の付ける名前って変なのばっかりだよ……?」
と、言うのは嘘で今まで何かに名前をつけるという行為自体したことがないので不安なのだ。それに、妙な名前をつけてしまったら猫に悪い。
「いいよ。それで」
「……いいの?」
「うん。どんなに変な名前だったとしても、りいがつけた名前だし。どんな名前でも、ちゃんと中身があれば、ね」
そうそう、とでも言うように猫が鳴いた。
案外細い声だった。
しかし、中身……ね。
どういったものにすればいいんだろうか。基本的に名前にこめる意味として有力なのは『長生き』や『たくさんの人に愛されますように』なんかがある。けどこれは猫だし、それに猫は長生きしすぎると溶解になる、と言う話もある。だったら長生きは避けるべきで、それにあまりに大量の人間に愛されても鬱陶しいだけだろう。
だったらほかに何か、何か…………
「あ、」
「どうしたの?」
興奮気味に×××が俺の顔を覗き込んでくる。
「いっこ、思いついた」
「どんな名前?」
やはり興奮した様子でこちらにたずねてくる。猫のほうも、事情を察したのか駆け回るのをやめて俺の表面へよちよち歩いてくる。
なんだか、ものすごく言いづらい。×××は俺のことじーっと気体に満ちたまなざしで見てるし、猫も猫で何かを期待している目でやっぱりじーっと見つめてくる。
正直な話、とんでもなく言いづらい。
「え…………と」
しどろもどろながら言葉を引っ張り出す。
「『拍手』……なんてどうかな?」
「かしわで?」
いや、猫と一緒に首かしげなさらんでも。
「なんで、かしわで?」
「ずっと俺たちと一緒にいられるように、って」
「………………?」
うう。やっぱり理解してくれなかったか。
「ちょっと前に読んだ本に、死んだ後転生して猫になった人の話があったんだ」
「そこから、とったの?」
うなずく。
「死んだ後も、一緒にいてくれるように?」
もう一回。
…………やっぱり、ちょっと悪趣味だったかな。死後も共にいてほしいなんて、自分たちも気持ち悪いしそれに第一猫に悪い。
やっぱり、違う名前にしよう。
そう思って口を開こうとした矢先、
「……拍手、か。いい名前」
いい名前認定されてしまった。
「……ホントにいいの?」
個人的には即興の名前なんで、いい名前なんていわれてしまうとなんだかかゆい気分になる。いや、だからといって本気で考えろといわれても困るんだけど………
そんなことらの心中をよそに、×××は、
「うん。ほら、この子も――――」
目の前の猫の様子を確認する。
表情が変わっていた。なんというか、先ほどまでの期待いっぱいの表情とは違って、満ち足りた感じ?
「――――気に入ってる、みたい、だね」
「うん。私にもそう見えるよ」
「じゃあ、決定?」
うん、とうなずいて猫、拍手を抱き上げる。
「よろしくね、拍手」
にっこりと満面の笑みを浮かべながら、拍手と目を合わせる。
その様子がなんだか妙にほほえましくみえて、
俺は微笑んで、拍手と×××の頭に手をやっていた。
…………怒られたけど、×××に。
× × × ×
次の日。
昨日の包帯をそのまま巻き、いつもどおり遅刻には程遠い、しかし決して余裕があるとはいえない時間帯に、俺は登校した。
からから、と比較的新しいため、ほとんど音なく開く戸を開ける。すると、
教室内の空気、雰囲気のようなものが、
明らかに、
変わった。
腫れ物に触るかのような目関係を拒絶するかのような視線存在自体を拒絶する態度人ではないもののようなものをみる恐れ自分勝手な同情と悲哀――――
向けられても迷惑なだけのそれらが、俺を、特に左腕に巻かれた包帯を突き刺す。
声をかけてくるものは、いない。
いらない。
俺はもう、一人で『終わって』いる。
自分勝手な感情も、手前勝手な親近感も、抱かれるだけ迷惑な代物。感じることもないものなど、向けられていようがないも同義。
俺はいつもどおりまったく表情と心中を変化させず、窓際後方より二番目、教室内の席ではベストポジションといえる場所にある自分の席に着いた。
「……………………」
特にやることもないので、ぼんやりと窓の外を眺める。
外は、新緑一色である。
人によっては葉っぱしかない木々はつまらないだけでなんでもないというのだろうが、こうしてみるのも情緒があって悪くないと俺は思う。
花のほうも、また違った情緒があってよかったといえばよかったが、窓を開けると花びらが入ってくるのが最悪だった。あれさえなければしっかりと咲いていてくれてもいいのに、と思わないでもないが、あの窓の外一面の花の色は目に痛い。
しかし、それでも――――
それでも中に目を向けているよりはいい。
教室の中と違って、花は行動しない。感情もなければ感覚器官らしきものも、傍目にはわからない、意識の存在を見受けられない。
少しもわずらわしくない。
こうしてみると、昨日あいつに会ったのが本当に夢に思えてくる。
話しかけてもいい、と昨日のうちに言ってあるのだ。正確から判断して教室の空気など気にするタイプではないだろうし、それならこちらの姿を見受けて話しかけてこないはずもない。
となるとあいつは教室にいないか、もしくは存在すらしていないかのどちらかだろう。他人の存在を立証する際、ぼけた記憶ほど役に立たないものはない。
「……………………」
なんとなく放置してある教科書を取り出し、取り出した時点で、取り出さなければよかったと後悔した。
――――何なんだ、この一面金色の教科書……………
別に、ペイントされているわけではない。
ただ表面に、黄色のものが大量に張り付いているだけである。
その金色はどこの教室にもあり、なおかつ微小な殺傷能力があり、そしていじめの定番ともいえるグッズの色である。
平たく言えば、画鋲である。
そんなものがほとんど一部の隙間もなしに教科書に植わっていれば、そりゃあ一面金色にもなる。これだけの量だ。持ち出すにもさすにも、それなりの時間がかかる。目撃者を作らないわけがない。なら見た連中は共犯か、見て見ぬふりをしたか、どちらかだ。
――――嫌われてんな、俺。
とりあえずもう一冊、薄手の教科書を取り出し、平らな部分に引っ掛けて一気に抜こうと試みる。が、予想以上の硬さだ。こんなものでは抜けない。
一本一本、手で引き抜いていく。
…………かなり面倒な作業だ。どんな怪力男がやったのか、刺さった画鋲は完全に根元まで植わっていて、生半可な力では抜けやしない。
「痛っ」
指に画鋲が刺さった。抜くときに端を持ちすぎた。人差し指の先端から出血している。
「…………………」
一本一本抜いていくのが馬鹿らしくなって、俺は刺さっている側の表紙をめくり、すべての画鋲を本体からはずすと、表紙の裏側を机に押し付けてすべてを一気に押し出した。
すこし教科書が破れたが、一気に大量の画鋲が机の上に押し出される。
俺はその画鋲を、一応携帯しているフィルムケースの中に押し込んで教科書を元通りしまった。
最初からこうすればよかったんだ。そしたら痛い思いも、面倒な思いもしなくてすんだんだ。
しかしいまどき古典的な手だな、これ。教科書に画鋲なんて、小学生でもやらないかも知れない。こんなことやるやつの気が知れない。
――――まあ、もうちょっと高次元なことをやっていたところで感想に変化はないのだが。
「くだらねー」
ぼやくように、思い切り椅子にもたれて言ってやる。もちろん半ば以上あてつけであるが、あてつけの相手のやったことがくだらなかった場合、それに対するあてつけもくだらないものに分類されてしかるべきだろう。そんなことは承知している。問題なのは向こうがどう思うかだ。
「……………確かに、下らないことですよね」
俺の机の正面、その席に一人の人間が座ってきた。
「僕も、同感ですよ。片原君」
「だろ?」
嫌味なほど制服が似合う、ある種異様なほどのさわやかな男。
時瀬貢。俺のほぼ唯一の友人であり、小学生時代からの知り合いでもある。中学の時には別々の学校だったので付き合いは薄かったが、それでも友人であることにはかわりなく、高校で再会して今もこのようにして友人をやっている。
ホストのような外見に名前。外見、内面ともに少々変わったやつだが、悪いやつではない。教室の中にいても堂々と俺に話しかけてくることがその証拠だ。いいやつという意味でも、変わったやつという意味でも。
「で、なんのようだ?」
時瀬は正気を疑うような目で俺を見た。そして俺の机に芝居じみた仕草で頬杖をつき、
「友人に話しかけるのに、理由が必要だと思うんですか?」
「……違うのか?」
ちょっとした雑談だってそれ自体『暇つぶし』という立派な『用件』だ。用件は理由に通じることだし、それがないなら普通は話しかけてこないだろう。
それをたずねるのが、変なことなのだろうか。
「………ある意味では、といっておきましょうか。まあとにかく先ほどの質問に答えておくなら『聞きたいことがある』になりますね」
苦笑するかのように口元をゆがめた。
「答えるかどうかは別にして、何が聞きたいんだ?」
なんだか昨日も同じこといったような気がする。
「その包帯についてですよ」
時瀬の目線が俺の左手首、そこに巻かれた包帯に目を留める。
…………そんなにじろじろ見るな。気になるのはわかったから。男に見つめられる趣味はないぞ。
「包帯が、どうかしたか?」
「いえ、たいしたことではないのですが」
「なら聞くなよ」
「あのとんでもない色をした包帯はどうしたのですか? 今まで何度僕がいっても代えようとしなかった、あの飽和するまで血液を吸引したホラー映画の小道具のようなものは、どうしたんです?」
俺の入れた横槍は完全に無視されたらしい。そのまま椅子にかける体重を増加させる。あと少し体重を多く後ろに傾けたら点灯するような、きわどいバランスだ。
「変えた。見りゃあわかるだろう」
「そんなことを聞いているのではありません」
毅然とした口調だった。
「何かあったんですか? あれだけ断固として忌避していた事柄を翻してしまうような出来事か何かが。ひょっとして、」
にやりと、時瀬の表情の方向性が変わる。
……………なんだ、そのこれからいたずらでもしようとしている子供みたいな顔は。
「彼女でも、できました?」
うっかり背中にかける体重を増やしすぎて後ろ向きに椅子ごと倒れた。背中を強打する。
…………かなり痛い。
「………すごい動揺ですね……………もしかして、図星ですか?」
「んなわけねぇだろ!」
勢いよく身を起こして断言する。
ない。絶対にそんなこと、ありえない。『知っている』くせになんてことを!
「……………ですよねぇ」
なに笑ってやがる。
「わらうな」
「いや、失敬。ですけど、彼女云々は冗談として、本気で気になっているのも事実なんですよ」
自分の中で渦巻いていた、もろもろの感情が鳴りを潜める。
「いろいろと片原君には、心配なところが多いですからね。特にその包帯、『彼女』関連のものでしょう? その包帯を変えてしまうなんて、何かの暗喩に思えてならないんですよ」
「時瀬、」
鳴りを潜めた感情が、再び盛り上がってくる。
今度は、大きな闇を引き連れて。
「教室では話すなといっておいただろう?」
自然と、口調が脅しにも似た低いものに変じた。
俺以外であいつのことを知っている、同年代で唯一の人間。
それが、この時瀬貢という人物だ。
それがあったから俺は中学時代の三年間断絶してあったにもかかわらず再び友人関係を構築することが出来たし、時瀬も俺と友人を続けることを出来た。
しかし、俺は。
あいつのことを、これ以上誰かに知られたくは、ないのだ。
自分が、壊れないために。
あいつを、ゆがめないために。
「ああ、すいません。けれど時間的にもぎりぎりですし、移動するわけにも行かないでしょう?」
いつもどおり、ひどくあっさりした様子で謝罪を入れてくる。
引きずるのも趣味ではないので、俺も便乗して話題を元の位置まで持ってくることにした。
「………………単純に変えただけだ。特に何があったとかはない」
嘘は混じっているが、事実だ。が、この程度のうそが時瀬相手に通用するとも思っていない。こいつはこいつで、なかなか鋭いのだ。
案の定、
「…………本当に、そうなんですか?」
このように疑ってくる。
「ああ。本当だ。昨日もいつもどおり、何もなかった」
あったことはあったんだが、それを言うと何を聞かれるか。
前に一度、とんでもない深さでカッティングしてしまい、隠していたところを気取られて、思い出したくもないほど恐ろしい目にあった。
前の二の舞にはなりたくない。
「ですけど、今日の片原君は、少々違って見えますよ? 何か余裕が生まれたような、そんな感じです」
「そうか? わからないけど?」
嘘だ。自分でも自分がちょっとばかり変化したのがわかってる。そういえばその変化の元、遅いな。保健教師の言葉から推測するに、同じクラスのはずだが。
「……………誰かを、待っています? さきほどからみょーにドアのほうへ目をやっているようですが…………」
まずい、気取られたか。こいつ、もうちょっと鈍感になれ。確かに二、三度、一瞬だけだが目をやったのは事実だ。しかしそれで気づくか、普通。
これ以上は、まずい。
「、ところで時瀬。今日の分の予習、やってきたか?」
「…………話をそらさないでください。まあ、一応やってきてはいますけど、それをどうこうするのは質問に答えてからです」
畜生。失敗か。
時瀬は続ける。
「まあ、片原君にこたえる気がなくても、おおよそのあたりはもうつけているんですけどね」
時瀬はそのホストフェイスに笑みを浮かべる。
………何なんだ、そのやけに不適な笑い方は。
「高浜幾夜さん、でしょう?」
……………………ぐはっ
気取られた。
「何でそう思う?」
「現在登校していない生徒のうち、普段からホームルームを欠席している生徒を除いた結果、残ったのは男子生徒六人、女子生徒三人です。男子生徒六人については片原君とは交流がなく、むしろ敵対しているほどです。よほど特別な出来事があったなら別ですが、そうなったとしても関係が急変する事は考えられません。よって男子生徒は除外。
残るのは女子生徒三人ですが、そのうち一人は入院中、もう一人はパターンから言って本鈴ぎりぎりにならなければ教室に姿を現しませんし、そもそも会話が成立するような人とも思えませんよね。第一片原君なら、そのうち来るとわかっている人間を待ったりはしません。よって残ったのは女子生徒一人、普段からホームルームを欠席しがちでなおかつ片原君と会話が成立する可能性がある人物、高浜幾夜さん、彼女しかいません。以上、ついさっき思いついた符号です」
「………たまげたやつだ」
「けど、粗が多くて確定まで持っていけなかったんです。でもこれではっきりしました」
にやり、と笑う。
「正解、でしょう?」
「………ちょっと待て。なんでそうなる?」
「反応です。これだけ長く並べ立てていた推測が大ハズレとなれば、片原君はいつも笑い飛ばすか呆れ返ってものも言えなくなるはずです。それがないということは正解だと、そう判断しただけです」
しまった。表情を装うので精一杯でそんなところまで気が回らなかった。失策だ。あいつの掘った墓穴に自らダイブしたようなものじゃないか。
「で、なにがあったんです?」
始まる。残酷劇が。
いつもなら嫌味なだけなホスト営業スマイルがやけに恐ろしい。
「さあ、白状してください。出ないと前回同様、」
「同様?」
「×××××な目にあわせます」
血の気が引くのがはっきりわかった。
こいつは魔女の拷問係か何かか? これだけ的確に人の弱みをついてくるとはその手の知識を仕入れとるしか思えない。
これはもう、白をきりとおすより
「そんなことしなくたって、話してやる」
と、いうかなんで隠そうとしたのかわからん。自分でも、実に不思議だ。
チャイムが鳴った。
「おっと、」
俺の話したダイジェスト版の説明で満足したのか、未練を漂わせることなくさっさと席を立つ。
「けれどね、片原君」
「何だ? たいしたことじゃないならさっさと席に着け。うるさいからな、担任が」
「いえ、これは十分大したことです」
いって時瀬はこちらに向き直り、
「口を出すことではないと思うのですが、ちゃんと、『わかってあげて』くださいね」
は?
「では忠告どおり、さっさと着席させてもらいますよ。うるさく言われるのは面倒ですからね」
「おい、ちょっと待て、どういう…………」
「では、また後ほど」
言うが早いか、さっさとこちらの声を無視した上で自分の席につく時瀬。追いかけていって問いただしてやろうかとも思ったが、時間が時間だ。後で聞けばそれですむ。
しかし、『わかってあげてください』ね――――
前回そういわれたとき、俺はどうしたんだったかな………
再び、チャイム。
本鈴。授業の始まり。
本日の欠席者、二名。
名も知らぬ人、一人。
知っている人、一人。
さて、
今日も一日、がんばろう。
× × × ×
んでもって、昼休み。
時瀬に対して追求を繰り返すもいつもどおりののらりくらりとした態度で逃げられ続け、そのうちこっちが根負けし、追及を断念。そのまま聞き流し半分で授業を受け、気がつけば昼休みである。
昼休み開始のチャイムと同時に学食、購買部などに向かう、餓えた浅ましい人間たちが出て行き、教室と廊下がすっきりしたところでこちらも購買に向かい、時間差をつけたせいでかなり込んでいる購買部で昼食のパンを二つ(焼きそばパンとカレーパン。計二百五十円也)購入する。
向かった先は例の体育館裏だ。
学内で一番落ち着く場所である。
日によっては時瀬と昼食の席を共にするときもあるが、今日はそんな気分にはなれない。しかし教室で食事となると当然拭く数人の衆目の元で食事を取ることになり、どうも落ち着かない。
やはり食事や睡眠といったリーズナブルな行動は、一人で行うべきだろう。
そんなことをぼんやりと思考しつつ、俺は昨日と同じ場所に腰を落とした。腰と一緒にパンも二つとも落としたが、その程度で食えなくなるような甘っちょろい包装ではない。
拾い上げてカレーパンのほうの包装を剥き、一口。
うむ、なかなか。
やはり学生である以上、この定番メニューをおいしく食べられないようではやってられない。健康な食生活は健康にとっても重要。栄養的には偏りがあるような気もするがそんなもの気にしては――
カタン
「―――――――ん?」
近場ですこし、硬質な音がした。
プラスチックをコンクリートに置いた音、だろうか?
学校、昼休み、すこし重めのプラスチック音。
そのシチュエーションで連想されるものとなると、ひとつしかない。
誰か、来たのだろう。
この体育館は長方形で周りには幅三メートルほどの隙間がある。
俺がいるのはそのうち校舎から一番遠い、学外に最も近い部分である。風向きや日当たりなどから考えると夏場には結構いいスポットになるのだが、如何せん校舎からの距離が遠すぎるため、それほど人は来ないいい場所である。
まあ、残りの面に人が来ることは想定していなかったが、別段おかしなことでもないだろう。ちょっとした気分でわけのわからない行動をすることがあるのが我々『学生』という生物である。
しかし、せっかく回りに人が1人もいない状況を満喫していたのに残念だ。
仕方がないが別の無人スポットを探すとしよう。
下ろした腰を上げ、食いかけのパンを口にくわえ、もうひとつをポケットとにねじ込み、そこで急に魔がさしたのだろう。急にふと思い立って誰が来たのかと確認するため、方向を百八十度転換し、歩き出した。
角を曲がる。
そこで一人の生徒が弁当を広げていた。
女子生徒、体格、顔つきからして同学年。黒い長髪、やや眠たげな薄い茶色の目、ちょっと色の悪い色素の薄い肌。
…………何でこんなところにいやがんだ。
しかも馬鹿みたいな大きさの弁当箱広げて。
半ば異常あきれながら、額に手をやりつつ言う。
「………………何やってんだ、幾夜…………」
驚くべきことに俺の接近に気がついていなかったらしい。弁当箱に注がれていた視線がすこしあわてた挙動でこちらを向く。
「…………あれ? リョウ君?」
「『あれ?』じゃねえだろ」
何で授業に出てなかったやつがこんなところで弁当広げてんだ。それも馬鹿みたいなサイズの、ブルーシートのオプションつきで。
「今日の授業、どうしたんだ? 朝からいなかっただろ? お前」
「朝教室にいたら気分悪くなって、それからついさっきまで保健室。気がついたら昼だった、って感じ、かな?」
かな?
「まあ、そんなところに立ってないで座ったら?」
ぽんぽん。
二回ほど自分の隣をたたく。
……………そこに座れと、そういうわけか?
断言しよう。こいつ、相当無神経な部類に入る。
昼休み、一緒のブルーシート、人気のない体育館裏。
このシチュエーションが、一体何を連想させるか、まったく考えていない。
…………まあいいや。
ここ、たまに犬猫は来るけど、めったに人は来ないし。それに立ってるのもしんどいし。
靴を脱いでビニールシートにあがり、隣に胡坐で座り込む。
「もう大丈夫なのか?」
「うん。いつものことだし。それに午後からは出ないと」
「そうだな……………」
…………ん?
「――――って、ちょっと待て。『いつものこと』?」
「うん。三日ぐらい前、かな。いつもどおりに」
「…………つかぬ事をお聞きしますけど倒れる日と倒れない日、どっちが多い?」
「倒れるほう。ひどい週は一週間に二時間しか授業出てなかったりした」
しれっ、とすさまじいことを言ってのける幾夜。
どんな成績なのか、無性に気になった。
「ちなみに勉強は? してるのか?」
「ううん。ぜんぜん」
「…………………………」
これでトップクラスの成績なんてとってやがったら雲の上に居座ってる全知全能のヒゲオヤジに対して、魔人風車固めで気絶させてやりたい。
まったく、変わったやつだよ。
「? どうかした?」
どういう意図で聞いたか気にしてないんだからな。本っ当にあいつそっくりのやつだ。変なところで察しが悪い。
俺が再び追憶に入りかけたところで、
「あっ、そうだ」
妙に楽しそうな声だった。
何がそんなに楽しいんだ?
「食べる?」
何を?
「弁当」
指し示す先には、あの馬鹿みたいな量が詰め込まれた弁当箱があった。量が量なら種類も種類。ちょっと離れた位置にあるが、この位置からでも詰め込まれているものが大量であることは判別できる。卵焼き、ウィンナー、ポテトサラダ、春巻き、アスパラのベーコン巻きエトセトラエトセトラエトセトラ
とにかくすごい量だ。
「………………」
こんなに食うのか? こいつ。だとすればすごい。こんなほっそいからだのどこにこれだけの量が入るんだろう。いや、そもそもこれだけの量を、
「作ったのか?」
「うん。いろいろとね、得意だし」
うげぇ。
とんでもないやつ。とても真似できない。
「いらない?」
微妙に不安げな表情になってこっちを見る。……かなりいたたまれない。ここで断ったら後ろから刺されても文句言えないな。
「………いや、もらっとく」
完全なマナー違反ではあるが素手で一番無難な一品、厚焼き玉子に手を伸ばし、一口で。
絶句した。
表情が、思わずこわばる。
「……………おいしくない?」
絶望的なまでに心配そうな目でこちらの顔色をうかがう幾夜。
「いや、めちゃくちゃうまい…………」
幾夜の表情の極性が一気に逆転する。
いや、ほんとに。塩味の厚焼き玉子だが、いったいどんな塩を使ったのかなんというか深みがある。おまけにその加減が抜群なものだから、卵自体の奄美と塩見の両方をバランスよく味わえる。
俺も一人暮らしの身分であるため、これぐらいの料理は難なくこなせるが、どうもまだ未熟であったようだ。もっと精進する必要がある。
そしてそのためには、もっと研究が必要だ。
「もっともらってもいいか?」
「もちろん」
当たり前でしょ? とでも言いたげな満面の笑みとともに思い切りうなずいた。
その姿を見て、声を聞いて、やはり似ているな、と思い直して…
「―――――っ……」
どうしてあいつが幾夜じゃないんだろう、と。
柄にもないことを思ってしまい、思わず……………
「……………………………」
あわてて目元をぬぐって誤魔化した。
× × × ×
飯が旨いせいなのか、会話も弾んだ。
「へぇ、遺伝だったのか」
「うん。お母さんがそうでね。お母さん、子供の頃からよく貧血起こしてたみたい。一度車に乗ってるときに起こして、大変だったって」
「そりゃそうだろう」
「お父さんがいたから、そのときはたまたまどうにかなったみたいだけど、そんなことがあってから乗らなくなって、遠出が大変だったって」
「へぇ、常識人だな。俺の横にいるやつとは大違いだ」
「……………ひどいこと言うね」
と、まあこんな具合に。
気がついたらあれだけ入っていた弁当箱の中身は半分をきっており、いつの間にやら幾夜の手も止まっていた。
「……………いつの間に」
「へ?」
幾夜が妙な声を上げる。
「いや、いつの間にこんなに減ってたのか、って思ってな」
「あ、本当だ…………」
自分でも気がついていなかったらしい。
「やっぱり、旨い物は減るのも早い、か」
「おいしかった?」
思いっきりにこやかに接近してくる。
よく笑う奴だ。俺には到底真似できない性質でもある。
「ああ。うまかったよ」
一瞬いやみを混ぜてやろうかとも考えたが、それでは飯に失礼だ。
「じゃあ、また明日も食べる?」
「……………作ってくるのか?」
「うん」
………どうしよう。
確かにうまい飯だった。これをまた明日も食えるとなると、断るのは惜しい。しかし、手間があるだろう、手間が。週に二時間しか授業に出られないほど重度の貧血症だ。無理する可能性もある。それなのに自分の欲求のために頼んでいいのだろうか。
しばらくの間、葛藤する。
「………リョウ君?」
やがて、
「すまん、頼む」
食欲に、負けた。
やっぱり人間、食欲には勝てないよね。それに、俺のより旨いんだし。
幾夜は今日一番の、満面の笑みと呼ぶにふさわしい笑顔を見せた。
「わかった。じゃあ、また明日、作ってくる」
「ああ。楽しみにしてる。ごちそうさま」
言って俺は腰を上げた。
「あ、リョウ君」
「なんだ?」
くるりと振り返り、
そこに今までに見たことのないような、幾夜でも『あいつ』でも見たことがないような真剣な表情を見つけた。
一瞬、体が凍りつく。
それはある種、恐怖にも値する光景だったと思う。
今まで笑ってばかりだった、そっくりなやつも無表情になったこともなかった、そんなやつが今、人形のような真剣な顔でこちらを見上げているのだ。これが夜なら即刻逃げ出しているところだ。
汗が一滴、頬を伝った。
「片翼の鳥は、飛べると思う?」
真摯な顔で、発された声はやはり澄んでいる。
しかし、どういう意味なんだろう。
こいつは何が聞きたい? 何を知りたい?
その意図を告げることなく、一体どんな返答を期待している?
「……………………」
幾夜はただ、真剣な表情でこちらを見上げている。先ほどは人形のようだと思ったが、それでもやはり人間は人間で、よく見ていると少しずつ表情が変化していた。
暗いほうへ。
あるいは、明るいほうなのだろうか。
「………よくわからないけど、一人じゃ、というか一羽じゃ無理だろう」
その一言で、
一瞬で連想できた、さほど真剣に考えずに返した一言によって、
真剣な顔は崩れた。
「そっか。やぱり、そうだよね」
悲しげなほうへ
暗いほうへ、崩れた。
何が悲しいのだろう。何に感情を抱いたのだろう。
うなだれてしまった幾夜に、俺はかける言葉を持たなかった。
正確には、見つからなかった。
そう、表現するべきなんだと思う。
とにかく俺は、幾夜になんと声をかけていいか、わからなくなっていた。
『高浜幾夜』という少女が、わからなくなっていた。
「そうだよね………一人じゃ、無理なんだよね………」
「…………幾夜……」
俺はしゃがみこみ、幾夜と視線を合わせた。
向こうがうなだれているので目は合わない。
とにかく視線の高さは同じだ。その位置から見ると、幾夜は泣いているようにも、哀しんでいるようにも見える。
何かを、言うべきなのだろう。
だから、俺は。
「二人じゃ、だめなのか?」
「え?」
気がつけば、そんなことを、先ほどと同じ、一瞬で連想できた差ほど考えてもいない言葉を口にしていた。
「いや、どういう意味かよくわからなかったから、なんともいえないけど、二人、というか、二羽いれば、飛べるだろう」
比翼のカラスの伝承は結構耳にする。
目、翼、足、それらが左右対称に片方ずつしか持たないカラス。そのカラスは二羽寄り添うことで、常に一緒にいることで飛んでいたという。
そうすれば、片方しかなくても飛べるだろう。
そう思ったの、だが。
「無理だよ」
ポツリ、と零れ落ちるような声によって、一瞬で否定された。
「一緒には、いられないんだから」
…………どういう、意味だ?
何と何が、一緒にいられないんだ?
「どういう……………」
遮るように、言葉が続く。
「ごめんね、変なこと、聞いちゃって」
いって、幾夜は立ち上がった。
その顔に、先ほどまでの暗い影はない。笑っている。しかし、それはどこか無理したような、無理に笑っているかのような、どこか歪な顔。それはある意味で、真っ向からさっきの顔を向けられるより、悲しかった。
「じゃあ、また。明日の昼も、一緒にね」
「あ……ああ」
歪な笑顔を向け、弁当を片付け始める幾夜。
「じゃ、また教室で」
話す言葉は明るく、穏やかなのに、どこか追い立てられたような気分だった。早く言ってくれ、そう暗に含めていわれているような気がしてならない。
俺はすぐさま幾夜に背を向けると、体育館裏を後にした。
そうしてやるのが、俺にとっても、幾夜にとっても最善かもしれない。
そう、思っていたから。
昼休みが終わった後の体育館裏。
そこにはブルーシートが敷かれたまま残っている。
上に載っているのはこぼしたようなわずかな食べ物と思しきものの断片がある。
しかしその横は、雨が降ったわけでも、水をまかれたわけでもないのに――――ぬれていた。