2.淡望
× × × ×
子猫を見つけた。
俺たちがいつも遊んでいる、小さな森の中。その奥のほうには道も通っていないので下手をすれば迷い込んでしまうが、もう何年もここで遊んでいる俺たちにとってはここは自分の庭みたいなもの。迷うはずもないし、迷ったとしてもすぐに自分がどこにいるのかもわかる。
とにかく、そんな森の中でのことだ。
子猫を見つけた。
どこかから迷い込んできたのか、ひどく弱った様子で、森の奥のほうにある大きな岩のすぐ脇に、倒れていた。
「……………ねこ、かな?」
「――――ねこ、だね」
二人一緒に、その猫を覗き込む。
首輪は付いていない。けど毛並みはかなり綺麗で体格もどことなく健康的な感じだ。少なくとも生粋の野良じゃない。という事は、
「――すてねこ、かな?」
「うん。そうじゃ、ないかな?」
言いながら、彼女が猫の背中に手を伸ばし、触れる。
猫は、無反応だった。びくりと痙攣することも、嫌がって逃げることもせず、そのままうつぶせに倒れている。
「………………動かないね」
「うん……けど、かわいい」
どうも彼女には猫の状況がはっきり把握でいていないらしい。
「…………ねえ、×××」
「ん? りい、どうかした?」
猫を抱き上げてしまう×××。それでも猫はぐったりしたまま動かない。
「ねこ、弱ってるんじゃない?」
「よわってる?」
「うん。普通猫って、抱き上げられたりとかしたら、嫌がるよね? けど動かないし、ぐったりしてる」
「え…………」
言って猫を見下ろす×××。ようやく状況が理解できたのか、その顔には不安が浮かんでいた。
「だいじょうぶ、かな………?」
「とりあえず、動物病院に連れて行ったほうが……いいんじゃない?」
「このあたりで一番近いところって…………」
言われて記憶を探
「あ、内陣さんだ」
る、前に思い出せたらしい。と、言うかなんで覚えてるの? ×××、動物、飼ってなかったよね………
けど、今はそんなことを気にしているような余裕はない。猫の状態によっては一刻を争うのだ。
「じゃあ、行くよ。×××」
「あ、待って!」
肩口を引っ張られ、危うくこける――――
あ、こけた。
背中、打った。
「………………痛い」
「あ、りい、ごめん」
身をのそのそと起こす。
あざには、なってないらしい。
「で、どうかしたの? ねこ、連れてくんでしょ?」
「そうなんだけど、はい」
言って差し出されているのは、件の猫である。
「………どうして、俺が?」
「だってこの子、抱っこした最初の頃はわからなかったけど、すっごく弱ってるもん。急がないと、死んじゃうぐらい」
「だったら………」
「だから、どうせ死んじゃうんでもたくさんの人に抱っこされてからのほうが幸せだもん。だから、私だけじゃなくて、りいも……」
「………………………」
そういわれてみれば、そういう考え方も出来るかもしれない。
この猫の命が長くなかったとして、その人生は一体どれほどの時間になるというのだろう。三ヶ月か、四ヶ月か。恐らくはその程度。
そしてその間、一体何人に抱かれてきたというのだろうか。
もし、それがなきに等しかったとして、
そのまま死んでしまったら、それは一体、
どれほど、酷な……………
「…………わかった」
子猫を受け取って、腕に抱く。
軽い。それに、子猫にしては体温があまりにも低いような気がする。
「いそごう。この様子だと、本気で死んじゃうかも……」
「うん。わかった」
二人並んで、全速力。
慣れ親しんだ森の中を、猫を抱いて。
森から出た瞬間、気のせいだろうか。
一瞬だけ、猫の鳴き声を聞いたような気がした。
× × × ×
その少女の名前は高浜幾夜といった。
面白い人物である、と俺は認識している。
なぜなら、
「大丈夫、か?」
付き添って保健室に運び込まれたはずの俺が丸椅子に座っていて、
「うん…………ごめん、変なことになっちゃって」
運びこんだはずの高浜幾夜がベッドに貧血でダウンしているのだから。
一応の経緯を説明すると、こうだ。
俺がまず保健室に運び込まれる。過去最大の出血量に保健担当教師、目を回す。「やりすぎた」と俺が言い訳、というか事実の説明をする。幾夜、やや顔色が悪くなる。保健教師、小言を放ち始める。幾夜、どんどん顔色が悪くなる。俺、小言攻撃から逃れるため、傷口を公開する。保健教師、びっくり。幾夜、ばったり。俺、どっきり。
と、いうわけだ。
保健教師の話だと、彼女は少し重めの貧血症で大体十日に一度ぐらいの頻度でこのように貧血でダウンするらしい。今回保健室で倒れたのはたまたまで、前回は理科室で倒れたそうだ。
「まったく、自傷行為なんて…………やめとかないと、今度は腕が千切れるよ……………」
保健教師の注意(?)をぼんやりとする頭で聞き逃す俺。その間にもぐるぐると包帯は巻きつけられていき、六周ほど巻かれたところでピンを使って留められる。
「…………とりあえずこれでよし。出血の割にあんまり深くなかったから縫う必要はなし。化膿してきたら病院へ。わかった?」
「………わかった」
それならよし、と保健教師(四十代後半、女性、母親気質、未婚。結構横にでかい。通称 ママ)は満面の笑みを浮かべる。
「次の授業、どうする? 幾夜は聞くまでもないとして、リョウのほうは?」
内線電話片手に、ママ。
いわれてリョウこと俺はコンディションのチェックを行う。
上々………ではない。間違いなく。血の気は多いほうだが、なんだかやたらとクラクラするし、だるい。それになんだか吐き気もする。
「……………無理だ」
このまま授業を受けたところで、恐らく終了前にダウンする。
それを聞くとママはあきれたように腰に手を当てて、
「やっぱり。顔色悪いし、覇気もない。授業は休んで、寝てな」
指差す先は、幾夜の隣のベッドだ。
「そうさせてもらえると、うれしい」
「確かクラスは、幾夜と同じだったね。連絡入れとくよ」
同じクラスだったのか、幾夜。
「ほら、気分が悪いなら無理はしない。さっさと寝る」
言われるがまま、というより追い立てられるがまま、俺は三つあるうちの真ん中、唯一カーテンがしまっているベッドの右隣のベッドに横になり、カーテンを閉める。
「お休み、自傷少年」
大きなお世話だ。
ぱたぱたぱた、とスリッパで床を歩く足音が遠ざかり、ガラガラ戸を開け、保健教師が出て行く。クラスに連絡、は普通内線から行うはずだから違うだろう。何か用でもあるのだろうか。
まあなんにせよ、静かになってくれたのならどんな理由でもかまわない。さあ、寝よう。俺は用意されてる毛布もかぶらず、そのまま目を閉じ、
「……………片原、君?」
ぐるりと向きを百八十度変更。ベッド足元から見て左を向く。
「高浜か」
「うん」
と、言うかここには今二人しかいない。妙なことを考えるやつは考えるのだろうが、あいにく俺はその手のことに興味はないぞ。
「なにか用か?」
「ごめん、ちょっと聞いてもいい?」
「質問するだけならかまわないが、答えるかどうかは質問による」
「……回りくどい」
「性分なんでね」
「けど……どうして、リストカットなんてしてるの?」
幾夜の言葉は体育館裏で衝突したときと比べると、同一人物かどうか疑ってしまうぐらい力弱い。さらに、彼女にそっくりになっているので、俺としてはかなり複雑な気分だ。
「……………どうして、そんなこと聞くんだ?」
一応言っておくべきだろうか、と思いながら言った。
「だって、気になるし。どうして自分を傷つけるのか」
気が滅入る。どうして言いそうな事まで同じなんだ。
『あいつ』だったら、俺がリストカッターと知るや否や聞いてきそう、いや間違いなく聞いてくるだろう。
知っても意味がないと知っても、こちらが拒んでも聞き続ける。普段はそれほど人の中に踏み込んでこないのに、何か知りたくなると容赦なく聞き続ける。そんなやつだった。
そこまで同じなのなら下手に隠すより…………
「特に意味はない。ただ、やっておかないと形にならないからな」
「形?」
ああ、と俺。
「誰かの記憶を背負うには、人一人だと重すぎる。
形にしないと、やってられない」
左手首を、顔の前に移動させる。
包帯の巻かれた、しかし奥には確かに赤さが存在する手首。
これは、俺が背負う『あいつ』の分の記憶なのだ。
誰かの記憶を背負うには、人一人では重過ぎる。ならばこのようにして運ぶしか、ないだろう。
そんな理由を察したのか察していないのか、幾夜は「へぇ」とだけ言った。
「けど痛くないの? 自分を切るのって」
「滅茶苦茶痛い。それに危ない」
「なのにやるの?」
「ああ」
「変わってるね」
「お前と同じぐらいにはな」
「?」
リストカットの理由がいまいち不鮮明であるのに「へぇ」で済ませるも人物はいい奴か変わり者かそのどちらかだ。多分幾夜は両方だな。
『あいつ』と同じく。
……………今日はやけに『あいつ』のことが頭をよぎる。
中途半端に追憶して、そこにあまりにもよく似たやつが登場した。当然といえば当然かもしれないが、これ以上、『あいつ』のことは思い出したくない。
『あいつ』は、俺の『傷』なのだ。
思い出して、傷をえぐり続けて、楽しいわけがない。
「……………高浜、」
「幾夜でいい」
「なら俺も、リョウでいい」
「いいの?」
「いいの。そんなことはともかく、」
「なに?」
「黙っててくれるか?」
「へ? 何を?」
呆けた声が聞こえた。
「……………理由のほう。やってること自体はばれてもかまわないが、理由のほうを言いふらされると困る」
「まあ、やってること自体はもうばれてるけどね。いいよ、別に。言いふらす趣味もないし」
と、言うか言いふらすのが趣味の人間ってどんな奴なんだ?
「それならいいんだ。感謝する」
姿勢を再び百八十度回転させ、目を閉じる。
もう眠ろう。俺はもう十分『あいつ』のことを思い出した。
『あいつ』の姿を見るのは、夢の中だけで十分だ。
「あ、リョウ君………」
「寝る」
「………それ、ちょっと困るよ?」
まったく、
「何のようだ?」
明らかに迷惑そうに言ってやると、幾夜は雰囲気でわかるほどにあせり、
「えと、教室、とかで、話しかけても、いい?」
やたらと歯切れ悪く、当たり前のことを言ってきた。
「は? それぐらいなら、別にいいけど…………」
と、言うかこんなへんな出会い方で知り合って妙な打ち明け話までされた相手に普段話しかけるなというほうが無理な話だろうが。
「変な話はするなよ」
「しないしない、そんな話」
いや、『あいつ』とここまで似かよった性格ならありうる。するなということをやり、やれといわれたことをやらない。そんな天邪鬼な性格の上、やけに明るいというのだから始末が悪かったのだ。
「ならばよし」
とりあえずそう締めくくり、俺は目を閉じた。
隣でも衣擦れの音とともに息をつく音が聞こえる。幾夜も、眠りにつくところらしい。
………他人の立てる、寝息か
懐かしい。
本当に、懐かしい。
『あいつ』がああなってから、俺の周りはすべてが変わった。
まだ小さかった俺も、あのときから誰かの寝息というものを聞くことがなくなった。まだあの時はそうなったことを寂しがる歳だったというのに、俺は何も感じていなかったことをよく覚えている。
それだけ俺の中でも、周りの中でも、『あいつ』の存在は大きかったのだろう。
……………話してみるのも、悪くないかもな。
そう思ったとき寝る直前特有の朦朧とした波がやってきて、俺の思考は止まった。
× × × ×
ひどく、いらいらとした気分だったような気がする。
やたらと高く、やたらと赤い場所だったような気がする。
かなり、そのときはわずらわしく感じられたものがそこにいた気がする。
それ以外はよくわからない。とにかく高くて、赤い場所に、わずらわしく感じられたものと、いらいらした気分でいたことだけは確かだ。
わずらわしいものがなにやら話しかけてきた。
いらいらした俺は冷たく、しかもぶっきらぼうな返答を返した。
わずらわしいものがひざに顔を埋める。そこで俺は、それが本格的に鬱陶しいものに感じられて立ち上がった。
何かが耳を打つ。音だったかもしれないし、声だったかもしれない。ひょっとしたら単なる衝撃かもしれないが、とにかく耳に何かの感覚がある一瞬が流れた。
そして背中に衝撃。
本当にイラついて、俺はそれを振り払った。
× × × ×
いやな目覚めというというものは本当にいやなもので、何がいやかと言えば覚醒までの時間がほぼ一瞬であることだ。
まるでいやな気分を忘れるな、とでも言うようにじわじわと思考に沈ませて、いやな気分を持続させられる。
そんなわけで覚醒はひどくいやな感じだった。
貧血は収まったのか、頭はすっきりしている。が、いくら頭の中身がすっきりしていても、それを使う方向が最悪ならば、状態も最悪。頭の中はすっきりしているにもかかわらずいやな気分で満ちていて、しばらくは何もしたくなかった。
とりあえず身を起こし、保健室のベッドから外の様子を見る。
赤みの濃い夕日の日差し。時刻はおよそ六時ぐらいだろうか。最近は日が傾く速度が変わるあたりのため、日の色だけで正確な時刻をつかむことはできない。不便なものだ。
しかし確かなこともいえる。
今日の授業はもうとっくに終わってるな。うん。間違いない。
左手を突いてベッドから降りた。
「…………………痛っ」
左手首に鈍痛が走る。
そういえば貧血起こしたのはこれが原因だった。痛みは引いて、出血ももうないが、寝ている間に多少出血したらしい。白かったはずの包帯に血が
包帯。
いつもの赤黒い緋色ではない、真っ白な。
俺は立ち上がると隣のベットのカーテンをめくった。
そこには白いシーツと同じく白い枕カバー、そして薄い赤の毛布が一枚と、
それに包まる一人の少女。
「……………………………」
その寝息は穏やかで、寝相も穏やかだったらしい。ほとんど黒い長髪も毛布も乱れていなかった。そしてその表情は、やはり驚くほど『あいつ』に似ている。
生き写し、というよりも、そのものと表現したほうが正しいような姿。安心感と、そして罪悪感を同時に抱く姿だ。
「―――ふっ」
思わず笑った。
自嘲なのか、安堵なのか、それとも落書きしたくなるような寝顔だったからなのかは俺にもわからないが、確かに俺は笑った。
そのままそのベッドに腰を下ろし、その顔を見つめる。
伏せられた茶色の目、ベットに広がる漆黒の髪、美少女といってしまってもいい顔、穏やかな、あまりにも穏やかなその表情。
似すぎている。
これは似ているのではない。これでは、同じだ。
もしかして、これは夢なのか? ここに、『あいつ』がいるはずがない。『あいつ』は確かに…………ああなって、そして俺がこうなった。この傷が証明といってもいい。にもかかわらずここに『あいつ』に似た、否、『あいつ』と同じやつがいる。もしかして俺は、今日、あの場で出血しすぎて意識を失って今も夢を見ているだけなのか? あそこから飛び出してぶつかったのも、その後でこいつにあったのも全部夢で、今も俺はあそこに倒れてるんじゃないのか?
左手首を握り締めた。
「……………ぐはっ!」
ものすごく痛い。なんというか、神経を直接わしづかみにされた気分だ。多分、夢ではないのだろう。
けど、こんな明瞭な感覚のある夢ならば見てもいいかもしれない。
現実と変わりないから。
しかし大抵の夢というのは感覚のないもの。感覚がなければ痛みもない。ならばこれは、現実だろう。
「…………………」
その行動に意味はない。あったとしても、至極くだらない、取るに足らないような些細な意味だ。
そんな事は、わかっている。わかっていた。
が、気がつくと俺は、
眼前の、少女の頬に、
手を、伸ばしていた。
……………暖かい。
人肌の、ぬくもり。
俺が一度失ったもの。そして今、ここにあるもの。
かつての俺はおろかな行動ゆえにその温かみを永久に失い、そして二度問えることが出来ない状況に陥ってしまった。
それ以前に、俺はそれを求めてしまう自分自身を、許せなくなった。
しかし、今ここに。
それが、ある。
かつて失った温かみが、
なくしてしまった、ものが。
「……………………」
失いたくない、と思った。
同じじゃなくてもいい。ただ似ている存在でもいい。『あいつ』の代わりができるなら、その存在を失いたくないと、願うだろう。事実俺はここでこうして祈っているし、そしてそのために動く。
「………ごめんな………………」
つぶやいた。
それは『幾夜』への言葉だったのか、それとも『あいつ』への言葉だったのかは定かではない。だけどお願いします。もう一度、あいつと一緒にいさせてください。
「…………………」
罪悪感でいたたまれなくなって、俺は保健室から立ち去った。