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End Days ~再会~  作者: 木村 瑠璃人
10/11

10.終幕


    × × × ×


 ようやく会えたという反動か、それともこの先に待ち受けるものを忘れるためか、俺たちは話し込んだ。


 内容自体は、くだらない。まるで長い間帰ってこなかった友人を迎えるため、どこがどう変わったかを教えるがごとく、俺はミヤコに語ったのだ。

 町のこと、時瀬のこと、拍手のこと、学校のこと、片原さんのこと、俺の行動様式、高校生活の感覚、自傷行為について――――

 と、そこまで語ったところでミヤコがふと漏らした。


「…………そっか―――やっぱり、りいだったんだ――あれ……」

「あれ?」

 もうだいぶ減っている昼飯をつつく。

 うん、とミヤコはうなずき、

「あの崖の下にいるとき、よくわからない記憶が飛び込んできたときがあったから。学校の授業とか、誰かと話してる風景とか、道の上とか、とにかくそういうの。あれって、りいの記憶だったんだ」

「………なんでそんなこと、言い切れるんだ?」

「ん? 何度か『片原』って呼ばれてたから、なんとなく。会うまでわからなかったけど、片原って名乗ってたでしょ、りい」

 にもにも笑いつつ言われてしまったが、随分仰天な自体だ。

 どうも俺があいつの記憶を背負おうと傷をつけるたび、どうもその時点までの記憶の一部がミヤコのほうへ行っていたらしい。文字通り、俺はあいつの記憶を身に刻んで生きてきたわけだ。


 しかし、それももう終わる。

 この後俺じゃなくミヤコが死んだとして、再び俺が傷をつけたところでそれはただの傷にしかならないだろう。

 つまり、ここで。

 俺とミヤコの縁は、完全に切断される。

 終わる。

 どれだけ努力しようとも、どれほど世界というものに攻撃しようとも、終わりの前では、電車に砂をかける行為に等しい。そんなことをしても意味はなく、ただ徒労に終わるだけだ。

 しかし、それを素直に受け入れるかどうかは、また別問題だろう。

 事実、俺はその矛先を変えようとしているわけだ。

 そのための手段も模索した、そのための状況も考え出した。

 できる事は、もうないだろう。

 なら後は、

 その手段を行い、その末を受け止めるしか、ない。



 だいぶ、日が傾いてきた。

 二人でとうとうと三年前から今までに起こったことを話す(主に話していたのは俺だ)内、とっくに昼休みが終わっていることに気づいたのが数時間前。気づいたその瞬間にはもうとっくに授業中となっている時間になっていたので、もうどうしようもないと判断し、会話を続行。気がつけば、もう四時近くになっていた。


 夕方が近付くにつれ、ミヤコの表情が硬くなる。

 この先にある、離別を想像してしまうのだろう。

 無理もない。恐らくこの場を最後の会話の場所に選んだという事は、死に場所を前と同じ、あの崖にするつもりだからだ。

 人生二度目の、転落死を経験しようとしている人間の気分など、俺にはわかるはずもない。一度しかやってこないはずの死を、二度も経験しようとしている人間など、今まで存在すらしなかったはずだ。


「………ミヤコ、大丈夫か?」

 話の切れ目、表情が完全にこわばってしまったミヤコに、ついつい声をかけてしまう。

「…………大丈夫だよ、りい――――」

 普段とは似ても似つかない、思いつめた声音だった。

「――――そう…大丈夫――――りいを……生かしたいんだから…」

 つぶやく。まる聞こえだが、気づいてすらいない様子だ。


 しかし、俺を生かしたいから………ね…………

 ならそのために、今現在存在する自分の命を捨ててもいいのか?

「……………お前は、何がしたくて――――っ」

 言いかけて、口をつぐんだ。

 何がしたくてあの取引に応じたか?

 そんなこと、決まっている。あの物語にも、書いてあっただろう。

 ミヤコは、ただ俺に問いかけたいがために、二度目の死を許容したのだ。


『私のこと、わすれていたの?』

 俺がNOと答えれば俺を殺し、二度目の死は訪れない。そればかりか一度目の死ですらなかったことにして、再び生涯を歩むことが出来るようにすらなる。


 しかし、きっと。


 ミヤコは、俺が自分のことを忘れているとは思っていなかったのだろう。尋ねたかったことも、きっとそうではない。

 恐らく、尋ねたかったのは理由。

 自分の死に場所である崖へとやってきてくれなかった、理由。

 それをたずねたくて、二度目の死を許容した。


 一体、

 一体どれほど思い悩んで――――

「………何、りい?」

「………………いや、」


 視線が、泉のほうへと泳ぐ。

 そして、

「………ただ、お前に言いたいことがあって――――」

 俺は、その言葉を、口にした。

 何を言われるのか、予想が付いたのだろう。

 ミヤコは、伏せていた眼を俺と合わせた。

 茶色の眼。

 それを見つめながら、俺は言う。


「――――悪かった…………」

 ………。

「何もかも、俺が悪かった………

 お前が死んだのも、

 あの崖の下に三年間も一人だったのも、

 こんな風にして、もう一回死ぬ覚悟までさせたのも、

 全部、俺が―――――っ」

 言葉に詰まる。

 当たり前だ。どれだけの罪悪感を抱えてきたと思っている。それだけ量があれば、目詰まり起こすのは当然だ。


「もっと幸せになれたのに、

 もっと大きくなれたのに、

 もっと楽しいことも出来たのに、

 みんなで一緒にいられたのに、

 そういう可能性を、俺は全部壊しちまった………」


 あの時俺があんな態度を取らなければ、

 あんなふうに振り払わなければ、

 ミヤコは、あんなことにならなかった。


 思っても仕方ない、悔恨。

 三年間たまりにたまったそれらが、あふれ出す。もう目詰まりはないな? なら、もう全部出してしまえ。


 それを吐き出せるのは、今日が最後だ。

 どっちに転ぶにしたって、俺はもうミヤコには会うことが出来なくなる。

 だったら、せめてこんな謝罪ぐらいは…………


「許してくれ、なんていわない。

 けど、俺の命ぐらいなら。

 俺の命なら、ミヤコにやってもいいから。

 生きたいのなら、俺の命で、生きてくれ…………」


 ああ、なんてみっともない。

 こんな風に、相手に縋りつくなんて。

 けど、それもいいんじゃないか?

 これが、俺の望みだったんだし。


「……………………………」

 ミヤコは、先ほどから黙って俺の姿を見つめていた。

 その眼に俺は、どう映っているんだろう。

 もしかするとあきれているのかもしれない。あるいは憎悪をたぎらせているのかもしれない。

 けど、それでもいい。

 ミヤコが、自分の口で自分の選択を聞かせてくれるのなら。

 どうするのか、宣言してくれるのなら。

 そのまま、数分が流れる。

 日はもうすでに傾き、色は夕闇だ。

 あの日と同じ、金色の。

 終わりと同じ、金色の。


「―――――いいよ、りい…………」


 ミヤコは、ポツリと言い放った。

 その顔に、微笑を浮かべて。

「もういいよ、りい。もう私に、縛られたりなんかしないで。お母さんも、言ってたでしょ?

 もう私に、縛られる必要はないんだ、って。

 それに、時間のことなら…………」


 ミヤコは座ったまま、俺の左手を取った。

 そこにあるのは、薄く赤みを帯びた布。

 その下には、縦横に走った傷がある。

「ほら、こんな風にして、取り返そうとしてくれたでしょ? それはちゃんと、私に届いてる。それに、昔のことなら私が悪い部分もあるし、お母さんはもう、りいのこと、許してくれたでしょ? だったら…………」




 もう、りいは罪を十分償ったんじゃない?




「――――だから、りいは私のために死ぬ必要なんかない。りいは、これから生きるべき人なんだから」

 左手首の包帯をなぞりながら、ミヤコは言った。

 …………俺は、赦された?

 過去のすべてから、ミヤコから?

 赦されたら、もう死ぬ理由がなくなる。

 だったら、死ぬのは、どっちになる?

 俺? それとも、

 ミヤコ?


「…………おま――」

「あ、そろそろ、時間だね」

 ミヤコは空を仰いだ。

 そこには、金色をすかす緑がある。

 それを見上げながら、ミヤコは立ち上がった。

 制服のスカートを、掃う。

 弁当箱を、きっちり包みなおす。


 それらの動作を、俺は座ったまま見つめていた。


 あきらめの動作と、わかっているのに。


 ミヤコが歩き出す。


 いつもと変わらぬ足取りで、いつもと変わらぬ雰囲気で、いつもと同じく振り返ることをせず、いつもとまったく違ったところを見せず、行ってしまう。


 と、

 泉の広場、そこから出る唯一の獣道の入り口で、足を止めた。

 振り返りもせず。


「……………………じゃあね、りい」


 言って、




 ――――さよなら




 ミヤコは泉の広場から、立ち去った。


 行ってしまう。


 また、行ってしまう。


 行かないで。


 そう思っているのに、


 足は、動かなかった。


 歩み寄ることもできず、


 静止させることすら出来ず、


 立ち上がることすら出来ず、


 ただその背中を眺めるしかない俺をおいて、



 行ってしまう。



 どんどんその背中は、遠ざかる。当然だ、死ぬ前にどれだけここで遊びまわったと思っているんだ。ここの足元であれば、アスファルトよりも早く歩ける。そもそもアスファルトなんて引っかかりのない地面は歩きにくくてしょうがないし風景にもまったく面白みがない綺麗でもなければ奇妙でもない延々と続いていればそれはかなりシュールだとは思うがその風景に価値があるかどうかとなるとそれは完全に別問題そういえば時瀬言ってたな人工物は面白くはあるが美しくはないなんてわけのわからないこといやわかるんだけどそれほど紳士に考えなかったことあれ紳士って言葉これで感じあってたっけああ漢字って字も違う気がするどんなのだっけしんしって紳士進誌真死芯詩親視心視真摯お最後の当たりかそうだこんなややこしい字だっけでも心視って言うのもいいななんだか便利そうだって姿が見えなくても心が見えればどういう人なのかもわかるじゃんこういう風にして妙な気分を味わうこともないし――――――――





「………………………ミヤコ……………?」




 おいおい、冗談だろ?


 俺はもしかして、また大事な人を殺しちまったのか?


 止めることすらせず、


 死にに行くのをわかっていて、見送ったのか?


「ああ…………………」


 シニニイクノヲ


「ああああああぁぁぁ…………」


 ワカッテイテ


「あああああああああああぁぁぁ…」


 トメナカッタノカ?

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 ミヤコ。


 俺の大事な人。


 それがまた、俺の手で?


 いやだ。


 そんな結末、俺は認めない。


 しかし、その結末は、変えられるのか?


 俺は物語の作者なんかじゃない。物語を描くことなんて出来ない。それにあがくための手段も、ない。

 なら、もうあきらめるしか――――



――――あきらめたら、そこですべてが終わる。どうせ終わるなら、最後の最後まであがいて、最後の最後まで考えて、最後の最後のまで行動して、最後の手段まで使い尽くして、そしてそれでも駄目になってからはじめて、あきらめて



「!」

 よぎったのは、アコヤの言葉。

 そうだ、俺は一体何をしていたんだ。

 あいつを生かすための手段を模索して、考えて、覚悟を固めて、いろいろ心の中で腹積もりもして、実行する前にあきらめる気か?

 そんなことして、いったいなんになる?


 でもここにミヤコはいない。

 ――――追いかければいい。


 追いつけるのか?

 ――――歩いていただろう? 追いつけるに決まってる。


 向こうの気持ちとか、全部無視で?

 ――――自分の望みかなえるのに、他人を気にするな!


 腹は、決まった。

 立ち上がって、走り出す。


 走れ大丈夫お前もここで昔走り回っていた。脳は忘れたとしても、体はその感覚をそう簡単には忘れたりしない。地面の記憶がなくても、それに対応するための体はしっかり覚えているだろう? 三年前は長く感じたこの距離、今では歩きで十五分、走れば五分以内に崖までいける。ミヤコがどれだけ急いだとしても、性別から来る体力の差は変えがたい。なら追いつくはずだ。走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ

 途中何度か躓きそうになる。だが、そうになっただけだ。大丈夫、転んではいない。まだ走れる。

 追いつけ追いつけ追いつけ追いつけ………………


 見えた。

 崖だ。

 ミヤコは………いる。

 崖のふちに腰掛けて、

 背中を丸めて、何かをしている。何をしているかまでは見えない。視力はそこまで良くないし、何より背中で隠れている。


「ミヤコ!」

 その背中に向かって、俺は叫んだ。

 ミヤコが、振り返る。

 そこではじめて、俺はそこでミヤコが泣いていたことに気づいた。

 ―――やっぱりか。

 死ぬのは、誰だって怖いよな。

 ああ、俺も怖い。

 けど、それで何か大きなものが得られるのなら…………

 明るみまで、あと数十秒。

「ミヤコ! 待て!」

 叫びながら、走る。

 急げ、ミヤコが、行動を早まらないうちに。

 止めろ!

「まだ、時間はあるだろ!」

「…………っ」


 明るみまで、あと二十秒ほど。

 一瞬、ミヤコがためらうようにこちらを見た。

 明るみまで、あと十五秒ほど。

 しかし直後に視線を崖に戻し、

 明るみまで、あと十秒。

 そしてもう一度、こっちを見る。

 明るみまで、あと七秒ほど。

 そして、一言。

 明るみまで、あと五秒。

 ア、

 あと四秒。

 リ、

 あと、三秒。

 ガ、

 二秒、

 ト

 一秒――――

 ウ

 届く……………


「くっ!」

「きゃっ!」


 俺はミヤコの腕を、左手で握った。

 瞬間、ミヤコの全体重が俺を崖のほうへ引きずり、胴体がわずかな温かみを持つ岩肌に叩きつけられる。そのまま全身が少し崖のほうへ移動したが、体の下に敷かれた小川の跡に引っかかり、体が固定される。


 ――――間一髪。

 俺の手の届く範囲に来た瞬間、飛び降りたミヤコの右腕をとっさに出た左腕でつかむことが出来た。当然ミヤコの体は宙に投げ出されるが、落ちる事はない。

 けど、この状況は………

 ――――かなり、まずいな

 俺の左手の握力はないに等しい。何度も自傷を繰り返すうち、幾度も腱を傷つけたことがあるため握力がどんどん落ち込んでいったのだ。その握力、せいぜい八キロ。右手を補助に出せば少しは増し出そうが、それでも長続きはしないだろう。

 しかし、引き上げるとしてもここへ到達するまでの全力疾走で全身がガタガタだ。腕を上げようにも腕が重く、頭を働かせようにもぼんやりとしていて上手く働いてくれない。

 これでは、いつミヤコを落としてもおかしくない。

 せめてもの抵抗に、右手を補助に回してミヤコの右手を離さないようにする。向こうからつかんでは、くれないだろう。

 俺の視界、ミヤコの向こうに見えてるのは、絶壁だ。


 落とせば、確実に命はない。

「――――りい…………」

 上を見上げて、ミヤコ。

「どうして、とめるの……?」

 その声音には少しのおびえもない。俺が来たことで逆に覚悟が固まったのか、普段どおりの声になっていた。

 けどちょっと涙声だな。

「……………死なせたくっ、ないからだよ…………」

 まずい。腕に力が入らない。あの全力疾走は、やはり無茶だったか。

「……りい、私、このままだと消えるよ? みんなの中から、記憶の中から、きえるんだよ? だったら、その前に死なせて。りいも、私の記憶、消したくないよね………」

 確かに、そのとおりだ。

 左手首に、痛み。見ればこの前の自傷のときの傷が思い切り引っ張られたことによって開いていた。

 あの時と同じように、盛大に出血し出す。

「でも――っ」

 血が白い包帯を赤く染めていく。早い。このままだと、飽和してあふれ出すのにそう長い時間はかからない。


「最後の一秒まで、生きたい、とは、思わないのか、よ……」

「思うよ。普通に。でも…………」

 血のにじみが、大きく広がる。

 左手が、冷たくなっていく。

「そうしたら、どうなると思う?」

「どうって…………」

 畜生。両腕の付け根が痛みを訴えてきやがった。もっとがんばれ。

「わかるでしょ? りいなら…………」

 ミヤコは顔を伏せた。

「たぶん………」

 一息。左手首内側が完全に赤く染まる。

「私、死ねなくなると思う」

「――――――――っ」

「ためらってためらって、最終的にはタイムリミット。そうなって、みんなの中から消えると思う。だから、そうなる前に、こうしようって…………決めたの」

 血が一筋、包帯から流れ落ちる。

「………そうなったら、そうなったりなんかしたら…………」

 ミヤコが、再び顔を上げた。

 その眼に、迷いはない。

 ゆっくりと、全身から力を抜くのがわかる。

「……お願い、りい―――そんなことになる前に………」


 死なせて。


 伝い落ちた血が、手のひらに滲む。力を抜かれたことによって俺にかかる重量がだいぶ増加し、全身が少し崖に向かって滑った。

「―――くっ……………」

 早く死なせてくれ。

 その願望を、俺は、


「………ふざけんな………」


 振り払った。

「俺は、ぎりぎりまでお前を生かす。

 そう、決めてんだよ…………っ」


 血が隙間に入り込んできたことにより、すべりが良くなる。恐らく、後数十秒とたたないうちにこの左手は摩擦力を失うだろう。

 出血は、止まらない。流れ落ちる血はすでに一筋から幾筋にも増加し、流れ落ちる量も明らかに増えている。


 急がねば。

 力の入らぬ全身に鞭打ち、力を入れて引っ張り上げる。

 左手が、滑った。

「………やめて、りい―――生かそうとなんて、もうしなくていい。だから、早く、手を………離して」

「断るっ」


 言いながらも、更に力を入れる。が左手がすべるせいで上手く力をこめることが出来ず、思うように引き上げることが出来ない。

「まだ、お前に聞きたいことが、あるんだよ………っ」

 それを聞くまでは、死なせるか。

 ひざを支点にし、更に引っ張り上げる。

「それに、聞かせてないこともな……っ!」

 左手首の傷が大きく開く。それだけの力をこめて、更に上へ。

 全身の筋肉が、悲鳴を上げる。

 が、

「……ぐっ」

 ミヤコが、俺の手を否定するかのように自ら身を下へ進ませるよう、力をこめてきた。

 あえなく力負けし、再び崖のふちへ這い蹲る。


「そんなの、もういいよ………………早く、死なせて。私がこれ以上、執着しないうちに………」

「いいのか、ミヤコ?」

 俺は支えるための最低限の力を残し、力を抜いた。


「お前、まだ聞いてないだろ? あの答え………」

「?」

 疑問がその顔に浮かぶ。

 そして、

「……!」

 一瞬の後に、驚愕に変わった。

「それって………」

 ああ、気づいたらしい。

 命を繋ぎとめるための、最初のピース。

「そうだ」

 あの日、お前が知りたがったこと。

 そして、とうとう知らずに終わったことだ。



「あの日の告白の、返事だよ」



「!」

 とうとう左手全体に血が広がり、滑った。

 右手にかかる荷重が一気に増え、体が持っていかれそうになる。が、まだ持っていかれるわけにはいかない。まだ俺には、やるべきことがあるのだ。その後なら、この体の一つや二つ、もって行かせてやる。


「あの返事、まだしてなかったよな?」

「……………うん」

「………だったら、今からしてやる。言うぞ」

 思えば、いつからだったのだろう。

 ミヤコが俺にほれたのは。

 そして、



「俺も、お前が好きだ」



 俺が、ミヤコに惚れたのは。

 気づいたのは、あいつが死んだ後。

 もうすべてが手遅れになった、その後のこと。誰にも言っていない、俺だけの感情だ。もちろん時瀬は知らないし、知っているとしたら部屋でポツリともらしたとき一緒にいた拍手ぐらいだろう。


 言いたかったこと、その二。


 やっと、いえた。


「……………それ………本当………?」

 ミヤコが、全身から力を抜いた。

 荷重が増える。が、その程度に耐え切れないわけがない。

「ああ、本当だよ」

 再び、引っ張りあげるための力をこめる。腕がだいぶ疲労しているため、かなりさっきよりも重く感じるが、どうにかならないレベルじゃないだろう。

「…だから、お前からも聞かせてくれ」

「……わたしから?」


 引っ張り上げようとする俺に対して抵抗もせず、ミヤコは弱弱しく言った。

「そうだ。お前からも、聞かせてくれ。あの日の言葉は、今でもそうなのか?」

 聞かせてくれ。肯定でも否定でも、どっちでもいいから。

「………聞いて、どうするの? 私、もうすぐ死ぬのに……」

「それでも、いい。聞かせてくれ」


 ただ、知りたいのだ。俺は。

 ミヤコが、今の俺の事をどう見ているのかを。

 さあ、教えてくれ。

 お前は、俺をどう思ってるんだ?


「………………………………………………………」

「………………………………………………………」


 ミヤコは、沈黙した。

 沈黙して、俺に引き上げられるがままになっている。このまま何もしなければ、あと数秒もすれば完全に引き上げることが出来るだろう。

 胴体が、崖の上へと出る。


 瞬間、

「りい……………」

 ミヤコが、自力で崖から這い上がる。

 そして、



「……今までずっと、大好きだったよ」



 気がつくと、俺はミヤコに抱きすくめられていた。


「崖の下で一人だったときも、アコヤに会ってからも、ずっと。言いたかったけど、へんな未練残さないように我慢して我慢して我慢して――――さっき言いたかったけど、けっきょくいえなくて、言いたかったけど言葉が出てこなくて……けど、本当は言いたくていいたくて――――」


 俺の肩の上にあるミヤコの顔。そこから、言葉が流れ出る。

 それほどの感情、それほどの情動、それらを、俺は。


「……………ミヤコ――」


 抱きしめた。

「ありがとな」

 抱きしめて、そのまま立ち上がる。

 ミヤコはその動きを否定することなく、付き従って立ち上がった。

「お前の気持ちを、教えてくれて………」

 一歩、前進する。

「おかげで――――」

 更に、一歩。

 その先は、もう崖である。

「もう、思い残しはなくなった………」

「………りい」


 眼前に眼をやる。

 金色だった夕闇は、今では群青色を交えている。

 時間は、そう残されていないだろう。

「……選ばなくちゃ、な」

「……そうだね」

 ミヤコが、腕の力を緩める。

 だけど俺は、


「………りい?」

「…………………」

 俺の腕は、ミヤコを抱いたままである。

 そして、一言。





「お前だけを、死なせない。

 だから、一緒に逝こう」





「――――――――――――――――――――――――――!」

 何かを言いかけたミヤコを抱きとめ、

 俺は一歩を、踏み出した。


 そこに、地面はない。

 あるのは、奈落である。

 俺の体はバランスを崩し、一気に重力に引かれて落ちる。




 ああ、落ちる風が心地よい。

 ああ、腕のぬくもりが愛しい。

 ああ、空が綺麗だ。



 益体のない考えが次々と脳裏を掠め、




 こんな風なら、死ぬのも悪くないな。



 そう思って、




 俺の意識は、とてつもない衝撃によって喪失した。


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