1.錯覚
―――― しゃらん
金属質にも、柔らかにも聞こえる音が耳に届いて、俺は思わず顔を上げた。
そこには、何もないいつもの光景。無機質な緑色のフェンス、その向こうに見える葉桜。音の原因もただその葉が揺れただけ。
「―――――――」
ひとつ諦観にも似た表情を浮かべると、何もなかったかのようにその場に腰を下ろした。
辺りを見回し、人影がないことを確認してそれを取り出す。
洗練された機能美としての外見を持つ一本の金属。
装飾が貧しいわけでもなく、だからといって派手であることもない、一本の、フォールディングナイフ。
何かを切断すること以外の用途を一切必要としない、破壊のための一品。しかし、切断のためだけのその道具は、この少年の左手首に巻かれた緋色の包帯と重なったとき、ある種の狂想的な印象に変わる………
あるところに存在する、進学率よりも就職率に念頭を置いた高校の敷地内。少年が位置しているのは、その体育館裏。そんな場所でフォールディングナイフを持ち、左手首に古びた緋色の包帯を巻いて、何か暗い表情をした少年が及ぶ行為といえば、単純に想像するところひとつしかない。
緋色の包帯を解き放つ…………
縦横に走った傷跡。
その上を横切る真新しい傷口。
繊細な神経を持つものでは正視に耐えないほどの、痛々しさ。
明らかな、自傷行為の痕跡。
何の感情も抱いていないかのように、俺はフォールディングナイフのロックをはずし、刃を展開して固定する。
そして………………
「……………っ」
静かに痛みをこらえるような音が漏れた。
白熱した金属を押し込まれたような感触。
肉が断絶する、生々しい感覚。
そして手首を伝い落ちる、血液の感触。
刃が、手首に埋まる感触。
痛い。が、しかしそれでも俺はまだ足りずに再びフォールディングナイフを左手首に埋めた。
「…………………っっっ!!」
びくん、左手が痙攣する。
ゆっくりと左手首にできた溝に液体がたまり、やがてあふれ出す。
「……………………ぅっ」
小さくうめき声を上げる。が、そんな自分を律するかため、再び刃を己の左手首の中に埋め、溝をさらにもう一本走らせる。
「ぐっ!」
声を抑えきれず、うめき声がもれた。
「―――――っ」
しばらくして、息が整ってくる。
新たに生じた痛みの根源を確認するため、俺は左手首を見下ろした。
赤い命を今直あふれさせる、深い三本の溝。その周辺は傷跡瘡蓋裂傷含め、一見しただけで二桁を数える傷が刻まれている。
「―――、―――、―――…………」
乱れた息を整えるように呼吸しつつ、緋色の包帯を拾い上げ傷口に押し当てた。
そして、思う。
これは、自分に対する罰なのだ、と。
俺はこうしておかなければならない。あいつの分の苦しみを、楽しさを、思い出を、背負って生きていかねばならないのだ。回りがなんと言おうと、こればかりは譲らない。
否、
譲れない。
あいつの言葉を知っているのは、俺だけだ。
あいつの夢を知っているのも、俺だけだ。
あいつの傷を知っているのも、俺だけだ。
傲慢かもしれない。知らぬ人が聞けば激怒するかも知れない。しかしこれは俺の責任だ。
なにせ、あいつを俺は―――――
「………………………痛っ」
思わず傷を押さえる手に力が入っていた。あわてて緩める。が、その瞬間値が再び噴出すように流れ出で、やっぱりあわてて強く握りしめる。
少々まずいかも知れない。
この高校の敷地は狭い。基本的に生徒数も少ないもので、昼休みの、それも体育館裏など人が来るようなところではないが、それでもまったく人が来ないわけではない。血のあとが残ってしまうと、面倒なことになってしまうかもしれないのだ。
とりあえず、ここを去るときは注意しよう。
それだけ思い、止血続行。
血は、まだまだ止まらない。
…………まあ、そんなことしなくても、俺がこれだって言うことはもうばれてるんだけどね。
事実、俺の周りの者、たとえばクラスの連中は、俺がリストカッターであることを知らないバカタレはいない。と、言うか人の噂の伝達速度というのは俺が思う以上に相当怖いものらしく、いつの間にか教員連中を除いたすべての生徒が知ってるなんて事態になっていたらしい。
それはいい。こんな現場を見られたところで、対して意味を持たないだろう。
面倒なのは、事情を知らない教員連中にこの場を押さえられてしまうことだ。
そうなった場合は最悪。今まで微かなうわさを耳にした教員も、俺の左手首の包帯を眼にして想像力を働かせている教員も、俺が決定的なボロを出していないため追求できないだけだ。そんな中でこんな現場を押さえられたらもう容赦はいらない。
遠慮容赦なく、理由が全国通知されてしまうだろう。
それだけは、避けねばならない。
これだけは、墓場までもっていく必要がある。
誰がなんといおうと、墓場まで守り通すべき秘密だ。
知っているものは、俺を除けばわずかに一撮み。それもその当事者とも言える人間だけだ。
これ以上、その理由を知るものを増やしてはならない。
ゆっくりと追憶する。彼女の髪を、薄い茶色の目を、白い肌を、柔らかな笑い方を、楽しげな物言いと雰囲気を、そしていつも聞こえていたあの音を…………
足に冷たさを感じた。
いや、冷たさ、というよりも…………
湿り気?
冷たさを感じた右足を見下ろす。
「………………げっ……!」
右足が、濡れていた。
それはもう、靴下の色が変わってしまうほどの濡れ方だった。
そんな濡れ方をしているものだから当然、履いているスニーカーも変色していた。
その濡れる元は、赤い色をしていた。
赤というよりは緋色で、そして鉄の匂いがしていた。
その源泉は、左手首だった。
当然そこにあるのは、三本の溝である。
もちろんちゃんと抑えている。ぎゅっと握り締めており、いつも通りならもうとっくに出血が止まっているはずなのだ。
しかし、今日はやたらと景気よく出血している。腕に開いた溝から、包帯の繊維の隙間から、押さえている指の隙間から、次々に流れでて、腕を伝って流れ落ちる。
………………やばい、このままじゃ、
冷や汗一滴。
………………死ぬ………
包帯で二の腕の真ん中辺りを縛る。止血帯、というやつだ。直接圧迫じゃもう駄目。多少の雑菌は仕方がない。直接手で持って止血法を併用しつつ保健室に。
駆け出した。
頭がくらくらする。貧血だ。かなりまずい。急がなければ。
リストカットで事故死なんて、洒落にならない。
それでも秘密が守り通せるのならそれもありだが、間違いなく時瀬はその理由を世間に放映してしまうだろう。妙に義理堅いのだ、あいつは。
体育館の裏手から出る。
ここから安全圏たる保健室までは全速力で大体三分程度。
十分間に合うは
人にぶつかった。
「……………きゃ!」
「うわっ!」
ぶつかったほうも、ぶつかられたほうも、二人仲良く転倒した。
…………かなり痛い……
思い切り全身で体当たりしてしまったらしい。これでは向こうにつたあった衝撃は相当なもの。すぐに謝るべきだ。自分のためにも、相手のためにも。
「…………すいません………ちょっといそいでて………」
顔を上げる。
「……………えっ?」
そこで思わず固まった。
ぶつかってしまった相手は、女子生徒だった。
体格、顔つきからして同学年。黒い長髪、少し涙目になっている薄い茶色の目、色素の薄い肌、ゆったりとした余裕の感じられる雰囲気。
ありえない。
『彼女』が、そこにいた。
成長していればこうなっていたであろう姿で、
俺と同じ学校の制服を着て、
俺のタックルを受け、へたり込んでいる。
そんなこと、ありえるはずがない。
だって、あの日、『彼女』は…………………
「えっと…………大丈、夫?」
「………………あ」
その人物が立ち上がった。心配するかのような表所で、制服を掃いもせずこちらを見ている。
「いや、悪いの俺だし、それにそっちのほうが軽かった。衝撃もそんなに……………」
「そうじゃなくて、」
とがめるように指差したのは、俺の左腕。
「………あ、こっちか」
出血は相変わらず止まっていなかった。本気でまずい。急いで処置しないと、大変なことになってしまう。
「大丈夫じゃない。すまなかった」
言って急いで立ち上がり走り出
「待って!」
そうとしたところで肩を引っ張られ、危うく転倒しかけた。
なんというか、懐かしい。
前にも一度、やられたことがある。
確かあの時はあいつ、子猫抱いてたか。
しかし今は感傷に浸っている場合ではない。運動したことで血の巡りが良くなっている。急がないと貧血で失神しかねない。
「悪い。話ならまた後で………」
走り出す瞬間の姿勢のまま肩口を振り返り、彼女そっくりの少女に言う。すると少女は不満そうな表情になって、
「そうじゃなくて、」
じゃあ何なんだ。
ごそごそと制服(ブレザー。現在夏服のため、ワイシャツである)のスカートのポケットを探る。
「これ、使って」
ポケットからサルベージした一品を突きつける。
まっさらの包帯。俺が使っているもののように古びているわけでも、緋色に染まっているわけでもない、さっき開封したばかりのような純白のもの。
「その包帯じゃあ、危ない」
「あ、ああ」
確かに真っ赤に染まった包帯を止血帯にして、手首を押さえながら、しかもその指の間からもだらだらと出血している、となれば二重の面で危ない。雑菌などから以上に、下手な教師に見つかれば余計に面倒なことになってしまう。
「急いで巻いて。付き添ってる振りすれば、多少はごまかせるから」
「わかった」
反対する理由は、ない。それどころか感謝が必要な場面だ。
「いくよ」
「ああ」
あわてて腕に包帯を適当に巻くと、隣に並んで歩き出した。
何気なく肩を貸すような形でもたれかかってくる少女。
その感触が、なんとなくかつての彼女に似ていて……………
「………………………」
奇妙な居心地の悪さを感じながら、俺は黙って歩くことにした。