笑顔の裏の毒リンゴ
僕の名前はヒロ。顔立ちや話し方が幼いとよく言われるけど、24歳のごく普通のサラリーマンだ。
僕は東京のアパートで同居人のタダシと2人暮らしをしていて、血の繋がりはないものの彼を「兄さん」と呼んで慕っている。
兄さんは端正な顔立ちと温厚な性格の持ち主で、7歳年下の僕を実の弟同然に愛して何くれとなく面倒を見てくれるのだ。
僕のシャツのボタンが取れかかっていれば「貸して」と針を通し、残業で遅くなれば「胃に優しいものを作っておいたよ」と微笑む。
けれど、最近の兄さんはどうも様子がおかしい。
「兄さん、また飲むの?」
「いいんだよ、ヒロ。疲れてるだけだ。」
ここ数週間、兄さんは帰宅するなりネクタイを乱雑に解いてワインボトルを開けて飲んでいる。
以前の彼は金曜日の夜の楽しみとして優雅にワインを嗜んでいた。
でも今は違う。苛立ちを胃の奥へ流し込むような、どこか自暴自棄な飲み方だ。
眉間に刻まれた薄い皺が以前より深くなっている気がして、僕は胸がザワつくのを抑えられなかった。
翌日に、兄さんが休日出勤で家を空けた午後。
どうしても原因を知りたくて、良くない事だと分かっていながらも兄さんの机の引き出しを開けて1冊のノートを取り出し、几帳面な字で綴られた彼の日記を盗み見た。
そこに書かれているのは、僕も知っている男の名前だった。
『4月3日
コウイチ君が入社して、俺と同じ部署である営業三課に配属された。噂通りの男だ。
立ち居振る舞いが美しく、仕事ができる後輩を持てて誇らしい。』
『4月12日
コウイチ君とランチに行った。彼は本当に優秀だ。
俺のフォローも完璧である事に課長も満足そうだった。』
コウイチさん。最近入社してきた後輩で、僕とは部署が別だけど何度か挨拶した事がある。
映画の世界から飛び出してきたのかと思うほど強烈にハンサムな顔立ちで、それでいて仕事も完璧にこなし、神様が二物も三物も与えたような男だ。
最初は兄さんもコウイチさんを可愛がり、彼と仲良くなれた事を喜んでいた。
けれど、ページをめくる毎にだんだん雲行きが怪しくなっていく。
『5月20日
俺が準備した資料なのに、今日の会議で全てコウイチ君の手柄になった。
周囲の目が俺を通り越して彼に向かう事が悔しくてたまらない。』
『6月5日
俺は彼の引き立て役でしかないのではないか。
隣にいるだけで、自分が薄汚れた影になったように感じる。
ヒロにはこんな情けない姿を見せられない。
自分が消えていくような感覚を、酒でかき消すしかない。』
あんなに優しくて誰からも信頼されている兄さんが、職場で少しずつ自信を削られて自分の居場所を失っている。
その弱音を同居人である僕にすら言えず、ワインの渋みに溶かしていたのだ。
「そんな事ないのに……」
日記を閉じると、涙で視界が滲んだ。
コウイチさんという強すぎる光に照らされて、兄さんは自分自身の価値を見失ってしまったのだろうか。
コウイチさんがどれだけ仕事ができても、僕にとって一番の光は兄さんだ。
僕が今日までやってこれたのは、兄さんが僕をずっと見ていてくれたからなのに。
玄関の鍵が開く音がして、僕は慌ててノートを引き出しの中に戻してリビングへ走った。
「おかえり、兄さん!」
少し疲れた顔をしている兄さんに、僕は努めて明るい声を向けた。
今夜は僕が夕飯を作ろう。
そして、日記を読んだ事は伏せて、兄さんが日陰者なんかじゃない事を言葉の端々に込めて伝えよう。
「あのね、兄さん。今日、会社で改めて思ったんだ。僕にとって世界で一番かっこいいのは兄さんだって。」
兄さんは一瞬目を見開き、それから困ったように、でも少しだけ憑き物が落ちたような顔で「急にどうしたんだよ」と笑った。
「だって本当の事だもん。あ、そうだ。兄さん、座ってて。僕が夕飯作るって決めてたんだ。」
「ヒロが? 珍しいな。」
「うん。今夜は兄さんの大好物を作るよ。」
僕は兄さんをソファーに促すと、エプロンを締めてキッチンに向かった。
フライパンを熱してバターを溶かし、香ばしい匂いがリビングに広がる。
作ったのはオムライスだ。
兄さんが作るオムライスはお店みたいに卵がトロトロで、デミグラスソースがかかっている洗練されたものだけど、僕が作るのは実家の母さん直伝の薄焼き卵でケチャップライスをきっちり包んだ昔ながらのオムライス。
形は少し不格好だけど、心を込めてケチャップで「おつかれさま」と文字を書いた。
「はい、お待たせ!」
テーブルにオムライスを並べると、兄さんは目を丸くした。
「わあ……久しぶりだな。」
「ふふ、兄さんのには負けるけどね。」
向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。
兄さんはスプーンでケチャップの文字を少し崩し、一口運んだ。
「……美味しい。」
その一言に僕は心底ホッとした。
兄さんは一口、また一口と心底愛おしそうにオムライスを食べてくれた。
その横顔を見ながら僕はさりげなく、でも確信を持って言葉を紡いだ。
「兄さん。さっきの言葉の続きだけどさ、会社でコウイチさんの事を皆が噂してるよ。すごく優秀でハンサムだって。」
兄さんの手がピクリと止まり、視線がオムライスに落ちる。
「……ああ、そうだな。彼は本当に、何をやっても完璧だ。」
声が少し沈んでいる。
やっぱり、コウイチさんの名前は今の兄さんにとって鋭い棘なんだ。
「でもね、兄さん。完璧な事と、人を幸せにできる事は別だと思うんだ。」
「え?」
兄さんが顔を上げた。その瞳には深い戸惑いが宿っている。
「コウイチさんは太陽の光みたいに眩しいかもしれない。でもその光は強すぎて、近くにいる人を疲れさせちゃう事もあるんじゃないかな。」
僕は自分の胸に手を当てた。
「僕はね、兄さんの優しさが好きなんだ。僕のシャツのボタンを直してくれる、その丁寧な手。残業で疲れた時に胃に優しい料理を作ってくれる、その気遣い。僕が迷っている時に静かに話を聞いてくれる、その穏やかさもね。」
「……」
「兄さんは暖炉の火みたいなんだ。眩しくはないかもしれないけど、近くにいるだけで心から温かくなれる。僕にとってその温かさは、どんな光よりも価値があるんだ。」
一気に語り終えると、兄さんは呆然と僕を見ていた。
静寂がリビングを包み、心臓が早鐘を打つ。少し言い過ぎただろうか?
やがて兄さんの目から涙が溢れた。
「兄さん?」
「……ごめん、ヒロ。」
兄さんは両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせた。
「俺、自分が情けなくて、コウイチ君に嫉妬して、自分が日陰にいるみたいで……ずっと、辛かった……誰にも、言えなくて……」
掠れた声で、兄さんは心の奥底に溜まっていた泥を少しずつ吐き出した。
「兄さんは情けなくなんかないよ。コウイチさんには絶対に真似できない、兄さんだけの凄さを僕は知ってる。」
兄さんは僕の肩に顔を埋め、子供のように泣いた。
その温かさを感じながら僕は確信した。
コウイチさんという強すぎる光に、兄さんは一時的に視界を奪われていただけだ。
この優しさは、この温かさは何物にも代えがたい、兄さんの『光』そのものなのだ。
「……ごめん、泣き崩れちゃって。」
しばらくして兄さんは涙を拭い、照れくさそうに笑った。
その顔は以前のような穏やかで優しい兄さんに戻っていた。
「ううん。兄さんが笑ってくれたら僕はそれでいいよ。」
「……このオムライス、本当に美味しかった。ありがとう、ヒロ。」
兄さんは残りのオムライスを一口、また一口と、今度は慈しむように味わってくれた。
窓の外には相変わらず東京の喧騒が広がっている。
でもこの部屋の中は、暖炉の火のような確かな温かさで満たされていた。
僕が絶対に兄さんを守る。
そう心に誓った翌週のある日、僕は営業三課のフロアに社内郵便を届けに行く事になった。
昼休みに入った直後で、フロアには人がほとんどいない。
兄さんのデスクへ向かおうとしたその時だ。
「ッ、コウイチさんだ……」
僕は近くのパーテーションの陰に咄嗟に身を隠した。
兄さんのデスクの前にコウイチさんが立っているのだが、彼の表情を見てゾッとしたのだ。
いつも通りのハンサムな顔で、高級なスーツを完璧に着こなしているが、まるで獲物を追い詰めた肉食獣のような残忍な表情を浮かべている。
彼は兄さんのデスクの上に置かれた分厚いファイルを手に取った。
それは、兄さんが何日も徹夜同然で作成していた来月の大型プロジェクトの提案資料だ。
コウイチさんはその資料をパラパラとめくると、フッと鼻で笑った。
「相変わらず無駄に丁寧で面白みのない資料だ。無能な善人ほど組織の足を引っ張るものはないな。でも……データは使える。」
彼はそう言うと、重要なデータが記載されたページだけを兄さんの資料から数枚引き抜いた。
そして、あろう事か残りの資料を躊躇なくデスク脇のゴミ箱に投げ捨てたのだ。
「……ッ!!」
僕は思わず声を上げそうになり、必死で手で抑えた。
全身の血が凍りつくような凄まじい衝撃を受け、心臓が早鐘を打った。
(嘘だ……コウイチさんが、こんな……)
コウイチさんは引き抜いた数枚のデータを自分のデスクへと持って行き、自分のパソコンを開いて何食わぬ顔で作業を始めた。
恐らく兄さんのデータを自分の資料に組み込み、あたかも最初から自分が作成したかのように上司に報告するつもりなのだろう。
これが、コウイチさんの『実力』の正体だった。
兄さんの優しさと真面目さに付け込み、その努力を横取りして兄さん自身を日陰へと追いやっていたのだ。
(許せない……絶対に許せない……!!)
兄さんがどれほどの思いであの資料を作っていたか。
どれほどの苦しみを抱えながらコウイチさんの隣で大人の対応をしていたか。
僕は怒りで震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動した。
「……撮らなきゃ。」
これは兄さんを守るための、そして、コウイチさんの裏の顔を暴くための決定的な証拠だ。
僕は、パーテーションの隙間からスマートフォンを構えた。
ゴミ箱に無惨に捨てられた兄さんの資料。そして、何事もなかったかのように兄さんのデータを使って作業をするコウイチさんの冷酷な横顔。その全てを動画に収めた。
怒りと悲しみで、録画ボタンを押す指が小刻みに震えている。
昼休みが終わってフロアに人が戻り始め、僕は社内郵便を届け終えて自分のデスクへ戻った。
パソコンの画面に向かっているフリをしながら、スマートフォンに保存された動画を何度も見返す。
(兄さん、ごめん……もっと早く気づいていれば……)
涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
僕が愛する兄さんは、こんな悍ましい悪意の中で1人で戦っていたのだ。
「ヒロ、どうかしたのか? 顔色悪いぞ。」
隣の席の先輩が心配そうに声をかけてくれた。
「いいえ、何でもないです。少し、頭痛がして……」
僕は努めて明るく答え、パソコンの画面に視線を戻した。
撮った動画を兄さんに見せるべきだろうか。
兄さんは優しいから、コウイチさんの裏切りを知ったら自分を責めるかもしれないし、上司に報告するのを躊躇するかもしれない。
でも証拠を掴んだ以上このままにしておく訳にはいかないし、兄さんの居場所をコウイチさんのような悪魔に奪われたくない。
僕は厳重にロックされたフォルダにスマートフォンの動画ファイルを移動した。
この動画は、兄さんの優しさを守るための僕の武器だ。
コウイチさんの裏の顔を知った衝撃と、兄さんを守るという強い決意が心の中で暗雲のように渦巻き、帰宅後にコーヒーを啜る兄さんの前にスマートフォンを置いた。
「兄さん、これを見て。驚かないで聞いてほしいんだ。」
画面の中で、コウイチさんが兄さんの努力をゴミ箱へ投げ捨てる。
その冷酷な横顔と、兄さんの文字が躍る資料が無惨に丸められる光景が流れた。
兄さんは絶句し、持っていたマグカップがカタカタと震えてコーヒーの表面に細かい波紋が立つ。
「嘘だろ……コウイチ君が、俺の資料を……?」
「彼は兄さんの優しさを利用してたんだ。兄さんが影になったんじゃない、彼が兄さんの光を横取りしていたんだよ。」
兄さんはしばらく黙って画面を見つめていたが、やがて深く重い溜め息をついた。
それは悲しみというより、長く続いた呪縛から解き放たれたような静かな諦念のように見えた。
後日、僕と兄さんは本社ビルの応接室に呼び出された。
重厚な扉を開けるとそこには直属の課長と人事部長、そして――。
「何かの間違いですよ。僕がそんな事をするはずがない。彼は日頃からミスが多いですから、僕が形にしてあげたというのが正解ですね。」
いつもの完璧な笑顔を張り付かせ、余裕を崩さないコウイチさんが座っていた。
だが、デスクに置かれたタブレットの再生ボタンを課長が押した瞬間にその余裕は一変した。
僕が提出した動画が流れ、コウイチさんの冷笑と、兄さんの資料がゴミ箱に叩きつけられる音が応接室に響き渡る。
「これは、君じゃないのかね?」
課長の低い声が飛ぶ。
コウイチさんの顔から血の気が引き、陶器のような肌がたちまち青ざめていく。
端正だった眉間には醜い焦燥の皺が寄った。
「そ、それは……その資料には不備があったので、僕が善意で修正を……」
「嘘をついても無駄です!」
僕は遮るように言い放ち、耳の奥が熱くなるのを感じた。
「あなたはデータだけではなく、兄さんとチームの皆が費やした時間と仕事への誇りを盗んだんですよ。人の心を踏みにじって手柄を横取りする事の何が有能なんですか? もう二度と僕達の前に現れないで下さい!」
僕の魂の叫びにコウイチさんは言葉を失った。
ガタガタと膝を震わせていて、プライドだけ高いただの臆病者に成り下がっている。
「コウイチ君。君の行為は重大な背任行為であり、社内規定に基づき本日付で懲戒解雇とする。荷物をまとめて、すぐに立ち去りなさい。」
人事部長の毅然とした宣告。
コウイチさんはこの期に及んで喚こうとしたが、警備員に腕を掴まれて引きずられるように応接室を後にした。
帰り道、夕暮れに染まる街を2人で歩いた。
兄さんの足取りはどこか吹っ切れたように軽かった。
「ありがとな。ヒロが言ってくれた言葉で、少しだけ自分を許せそうな気がするよ。」
「当たり前だよ、兄さん。僕がずっと、一番近くで見てるんだから。」
僕は兄さんの腕をギュッと掴んだ。
もう兄さんを日陰へ追いやる影はない。
「兄さん、今週の金曜日は美味しいワインを買って帰ろう? 苛立ちを流し込むためじゃなくて、お祝いのためにね。」
兄さんはかつての穏やかで美しい微笑みを浮かべて、「そうだね」と優しく頷いた。
東京の空はいつの間にか夜へと溶け始めているが、僕達の前を照らす街灯の光はあの日よりもずっと温かく透き通って見える。
兄さんの再起と僕の勇気が、兄さんとの絆をより一層強いものにしたのだ。
コウイチさんが去ってからは職場の空気が劇的に変わった。
兄さんの緻密な仕事ぶりが正式に評価されて、課長からも「君がいなければこのプロジェクトは立ち行かなかった」と正式に謝罪と感謝を伝えられたらしい。
兄さんは照れくさそうに報告してくれて、本来の穏やかな知性と輝きを取り戻した事が表情に表れていた。
そして金曜日の夜、僕達は約束通りにお祝いの食卓を囲んだ。
リビングのテーブルにはオムライスを乗せた大皿と、どこか誇らしげなラベルの赤ワインが置かれている。
今夜のオムライスは、悲しみを溶かすためのものではない。
僕はお祝いを込めて、薄く焼いた卵の上に『祝・兄さんの勝利』の文字をケチャップで書いた。
「ふふ、大袈裟だよ、ヒロ。」
左側に座る兄さんは柔らかいニットを纏い、心底リラックスした様子で微笑んだ。
その端正な横顔に、無理に作った笑みはもうない。
「大袈裟じゃないよ、兄さんの努力がちゃんと形になったんだから。さあ、乾杯しよう☆」
僕達はグラスを掲げて、カチンと心地良い音が静かな部屋に響いた。
兄さんはワインを一口含み、慈しむように目を細めている。
芳醇な香りを楽しみ、勝利の余韻を味わう大人の余裕を感じる飲み方だ。
「乾杯! ヒロも嬉しそうだな。」
「僕は、兄さんの暖炉の火みたいな優しさが世界で一番価値があるって信じてたから。それが証明されて、自分の事みたいに嬉しいんだ。」
「暖炉の火、か。いい言葉だね。」
兄さんは少し照れたように視線を落とし、それから僕を真っ直ぐに見つめた。
「これからは自分のために、そして俺を信じてくれるヒロのために胸を張って仕事をしようと思う。誰かを温められるような大人でありたいんだ。」
僕達は笑い合い、賑やかにスプーンを動かした。
日陰の時代は終わり、これからは2人でこの穏やかな光の中を歩いていける。
そんな確信に満ちた、最高のお祝いの夜だった。




