蒼の約束1
セナ、12歳。
ティアナ、8歳。
俺の家は裕福じゃない。
どちらかといえば、貧乏だった。
それでも父は、街で一番大きな製造工場に勤めていた。
朝早く出て、夜遅く帰る。
油と鉄の匂いをまとって、それでも笑っていた。
――数か月前までは。
工場の不手際で、父は大怪我をした。
機械の整備不足。誰の目にも明らかな事故だった。
けれど、工場は何も保証しなかった。
治療費も、補償もない。
それどころか、父に告げられたのは「解雇」だった。
母は妊娠していた。
もうすぐ、家族が一人増えるという時期だった。
父は、あの怪我ではしばらく働けない。
だから――俺が、働くしかなかった。
できる仕事は限られていた。
新聞配り。それくらいしか、12歳の俺にできることはなかった。
それでも足りなかった。
俺は、工場長のもとへ行った。
頭を下げた。必死に説明した。
だが、返ってきたのは嘲笑だった。
「怪我? 機械が古いからなぁ。
でも関係ないだろ」
工場長は、俺を見もしなかった。
「ゴミが怪我しようが、どうだっていい。
代わりはいくらでもいるんだよ。
それより、儲けの方が大事だ」
その言葉を聞いた瞬間、
頭の奥が、真っ白になった。
(――殺してやる)
はっきりと、そう思った。
その時、ポケットの中に手応えがあった。
さっきまでパンを切っていた、小さなナイフ。
指が、それを掴もうとした瞬間――
「だめよ。まだ、ね」
静かな声だった。
振り向くと、そこにいたのは
俺よりずっと小さな、女の子。
年は…俺より下か?
柔らかな服を着ているのに、不思議と浮ついた感じがしない。
その子は、俺を見上げていた。
責めるでも、怯えるでもなく。
まるで――
俺が今、何をしようとしているのかを、全部知っているみたいに。
「今じゃないわ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
その瞬間、
胸の奥で燃え上がっていた衝動が、ふっと揺らいだ。
――それが、
ティアナお嬢様との、最初の出会いだった。
俺は初めて会った少女と近くの公園にきた。
「……今じゃないって、どういうことだ?」
初めて会った少女に、俺は思わずそう問い返していた。
年下相手にする質問じゃない。
それでも、彼女は落ち着き払っていた。
「準備が必要ってことよ」
「準備?」
「そう。何の証拠もないのに、子供が訴えたって無駄でしょう?」
その言葉は冷静で、残酷なくらい現実的だった。
「言い逃れができないところまで、彼を追い込むの」
――まるで、裁きを語る大人のようだった。
「……そんなこと、できるのか?」
半信半疑で聞くと、少女は少しだけ首を傾けた。
「できるわ。私と、あなたならね」
そう言って、ふんわりと笑う。
その笑顔が、なぜか嘘に見えなかった。
「俺は、セナ。12歳だ」
「私はティアナ8歳よ」
「8歳!?」
思わず声が出た。
俺より4つも下じゃないか。
それなのに、この落ち着きようは何だ。
恐怖も、迷いも、表に出さない。
「それで、具体的にどうするんだ?」
「まずは証言を集めるの」
ティアナは指を折りながら言った。
「あのバルト男爵――かなり黒いわ。
仕事場での様子、事故の扱い。
同じような目にあった人たちが、きっといる」
「……話を聞くってことか」
「ええ。できれば署名も」
なるほど、と喉の奥で呟く。
復讐じゃない。
これは――戦いだ。
「わかった。俺、やってみる」
そう答えると、ティアナは少しだけ目を細めた。
「無理はしないで。命より大事な証言はないから」
……本当に、8歳か?
俺たちは手分けをして、人を訪ねた。
だが、現実は甘くなかった。
「そんなことしたら、うちがクビになる」
「悪いが、証言なんてできない」
「気の毒だが……帰りな。
こっちにも、生活があるんでね」
扉は閉ざされ、視線は逸らされ、
同情だけが、遠くに残された。
俺は何度も頭を下げた。
それでも、答えは同じだった。
(……くそ)
怒りより先に、悔しさが込み上げる。
正しいことを言っているはずなのに、
誰もそれを口にできない。
――その時、俺は初めて理解した。
ティアナが言った「準備」とは、
勇気だけじゃどうにもならない世界で戦うための、
冷酷なまでの現実対策だったのだと。
このままでは、何も変えられない。
それでも――
俺は、引き返す気にはなれなかった。




