終息3
マリアンヌの部屋を出ると、
回廊の壁にもたれて腕を組む男がいた。
見覚えのある、赤茶の髪。
「……盗み聞きは趣味じゃない」
視線を逸らしたまま、低い声が落ちる。
「でも、出てくるのは分かってた」
「……お兄様」
その呼び方に、マルクの眉がぴくりと動いた。
「やめろ。慣れない」
「でも、そう呼べと」
「……言ったが」
歯切れが悪い。
少しの沈黙。
どちらから言葉を切り出すべきか迷っていると、
「……無事でよかったな」
それだけを、ぶっきらぼうに告げられた。
「はい」
短く返すと、彼は舌打ちする。
「……それだけか」
「来てくれるとは、思いませんでした」
そう言うと、マルクは困ったように視線を泳がせた。
「……俺は」
一度、拳を握りしめる。
「……あのとき、お前を庇ったのは
義務でも、命令でもない」
ゆっくりと、こちらを見る。
「妹だからだ」
胸の奥が、かすかに熱を帯びた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いでもない」
そう言いながら、彼はまた視線を逸らす。
「……母上にも言われた」
「これからは、ちゃんと前を向けと」
少し間を置いて、
「だから――」
「俺は俺で、進む」
不器用な宣言だった。
「……遅いですよ」
そう返すと、マルクは気まずそうに目を伏せる。
「お母様、ビシバシいくと仰っていました」
「……それは、恐ろしいな」
ぼそりと呟きながらも、
その口元は、わずかに緩んでいた。
そして、ぽつりと。
「……今度の誕生日だが」
「はい」
「花は……自分で持って行く」
あの約束を、覚えていたらしい。
「楽しみにしています、お兄様」
一瞬だけ顔をしかめてから、
「……呼ぶなと言っただろ」
そう言いつつ、
否定はしなかった。
回廊の窓から、風が吹き抜ける。
少し冷たくて、
それでもどこか、やさしい風だった。
血は繋がらなくとも。
すれ違い続けた時間があっても。
――今は、確かに。
兄と妹として、
同じ未来を見て立っていた。
◇
執務室は、いつもより静かだった。
書類の匂いと、磨かれた木の机。
聞き慣れたはずの空気が、今日は少しだけ違って感じる。
私は、ソファに腰掛けていた。
もう痛みはない。
けれど、体の奥に残る疲労だけが、戦いの名残を告げている。
「……無理は、していないな?」
向かいの机から、父――アドルフが視線を寄こす。
「はい。もう大丈夫です」
そう答えると、彼は一度だけ書類から目を上げ、私を見た。
「医師の言葉を、信じていいという顔だな」
「疑っているように見えました?」
「少しな」
私はスッと息を吸う。
「……蝶の会で、
私はお父様の姿を見かけたんです」
静かな声だった。
私の記憶――
それは、母・アイリスと父が言い争っていた場面だと、ずっと思っていた。
けれど、それは違ったのだ。
一度、息を整える。
アドルフは、否定も肯定もせず、ただ黙って聞いている。
「……サーフェスと話しているお父様も、見ました」
顔を上げる。
「あの時から、
お父様も動こうと決めていたんですね」
正直な言葉だった。
「来てくださるとは……思っていませんでした」
父は、迷いなく答える。
「当たり前だ」
低く、だが揺るぎのない声。
「娘一人に、すべてを背負わせるわけにはいかぬ。
殿下とは話をしていた。
いずれガイルを叩くため、協力もしていた」
そして、一拍。
「だが――
すべてを終わらせたのは、お前たちだ」
視線が、まっすぐ私を射抜く。
「本当によくやった」
胸の奥が、静かに震えた。
「……それから」
父は、少しだけ言いにくそうに続ける。
「マルクもな……
自分から“行く”と言った」
私は、思わず目を瞬いた。
「あいつの気持ちを、私は分かっていなかった」
短い沈黙。
「だから、今度は見守りながら指導していくことにした」
それは、拒絶ではなく――
確かな、受け入れの言葉。
私は、ゆっくりと頷く。
「……そうですね」
その一言に、
今の私が込められるすべてが詰まっていた。
「……で」
ふいに、父が切り出した。
「殿下とは、どうするつもりだ?」
その問いが来るとは思っておらず、
私は一瞬、言葉を失った。
「え?」
素っ頓狂な声が出る。
「……結婚するのか?」
「い、いえ!
あ、あくまで……契約上の関係なので!」
必死に否定する私に、
父は特に驚く様子もなく、短く頷いた。
「そうか」
その反応が、逆に落ち着かない。
「……だが」
父は、少しだけ目を細める。
「殿下は、お前を手放すつもりはなさそうだな」
「……は?」
「殿下が、ティアナを本気で想っているのは分かっていた。
だからこそ――預けていたのだ」
淡々とした声だった。
だが、その言葉の重みは、十分すぎるほどだった。
胸の奥が、むず痒くなる。
(……お父様、そんなことまで)
私は視線を逸らし、
どう返せばいいのか分からないまま、黙り込んだ。
「……まあ、いい」
父は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「好きにしなさい」
こちらを見る視線は、もう探るものではない。
「お前が決めればいい」
それは放任ではなく、
“信じている”という許しだった。
胸の奥に、あたたかいものが静かに落ちる。
「……はい」
短く返したその声は、
自分でも驚くほど、まっすぐだった。




