終息2
そんなある日。
廊下を歩いていると、
向こうから来た人物と視線が合った。
ふわりと、ジャスミンの香りが漂う。
それだけで自然と背筋が伸びた。
「お母様。おはようございます」
深く頭を下げると、
「いまさら、その呼び方をしなくてもいいわよ」
柔らかな声が返る。
「少し、話しましょうか」
私は一瞬だけ戸惑い、
それから静かに頷いた。
「……はい」
並んで歩き出す廊下に、
午後の光がやさしく差し込んでいた。
◇
応接室。
マリアンヌは優雅に紅茶を口に運んでいる。
私は向かいの席で、
どこに視線を置けばいいのか分からずにいた。
「あ、あの……」
「なに?」
「……私が、アイリスの娘だと知っていて、
今まで黙っていてくださったんですよね」
戸籍を、アドルフとマリアンヌの子としていたこと。
それを彼女が承諾していたこと。
すべて、知ってしまったあとだった。
「ええ」
カップを置き、彼女は小さく微笑む。
「これで、借りは返せたかしらね」
「……それは、どういう意味ですか?」
「少し、昔話をしましょう」
紅茶の湯気が、ゆっくりと立ち上る。
「私とアドルフ様はね、契約結婚だったの。
そこに愛なんてなかったわ」
淡々とした声。
「でも――マルクは違う」
その名を口にした瞬間、
彼女の声音がわずかに揺れた。
「私にとって、あの子は宝物よ」
そっと、自分の腹部に手を当てる。
「出産のときに出血が酷くてね。
もう、子どもを産めない身体になったの」
沈黙が落ちる。
「そのあと、アドルフ様はアイリスと恋に落ちたわ。
……大して珍しいことでもない。
正直、それでもよかったの」
「マルクが、いたから」
けれど――と、彼女は続けた。
「マルクは身体が弱く、生まれてすぐに死を彷徨ったの」
医師たちが首を振り、
誰もが“もう無理だ”と思った。
「私も、アドルフ様も……覚悟したわ」
そこで、彼女は静かに目を伏せる。
「――でも」
「アイリスが、力を使ったの」
「共鳴……ですか?」
「ええ」
マリアンヌは、はっきりと頷いた。
「見た瞬間に分かったわ。
これは、使ってはいけない力だと。
禁忌のものだと」
それでも。
「彼女はマルクを助けた」
「自分を犠牲にしてでもね」
胸が、締めつけられる。
「見殺しにすることも、できたはずよ」
そうすれば――
「跡取りのいない、
子も産めない私ではなく、
アイリスが正妻になる道もあった」
マリアンヌは、真っ直ぐに私を見つめた。
「それでも彼女は、そうしなかった」
「だから私は、決めたの」
「――あなたを守る、と」
初めて聞かされる真実。
そして、
知らぬ間に守られていたという事実。
胸の奥が、熱を帯びていく。
言葉にしようとすると、
喉が震えて何も出てこなかった。
マリアンヌは、ふっと微笑む。
「……アイリスは、優しい人だった」
午後の光が、カップの縁できらめいた。
その輝きの中で、
私はようやく気づいた。
ずっと嫌われていると思っていた。
でもこの人はずっと――
私を守り続けていたのだと。
「……勘違いしないでね」
マリアンヌは、紅茶のカップを置きながら言った。
「私は、貴女のことを気に入らないの」
「はい。存じております」
即答すると、彼女はわずかに目を細めた。
「でもそれは――」
「マルクが、貴女と自分を比べて傷ついていたからよ」
胸の奥が、静かに痛む。
「……そうですね」
マリアンヌは小さく息を吐いた。
「私が甘やかしすぎたのね。
あの子の弱さも、不安も……全部」
視線を伏せ、そしてきっぱりと顔を上げる。
「だから、これからはビシバシしごいていくことにするわ」
「……はい」
思わず苦笑いをする。
「覚悟なさい。逃がさないわよ」
その言葉には、冗談めいた響きと同時に、
確かな“母の覚悟”があった。
マルク がんばれ。
しばし沈黙が落ちる。
やがて――
「ねぇ、ティアナ」
初めて、名を呼ばれた。
私は思わず顔を上げる。
「マルクを、引っ張ってくれてありがとう」
一瞬、言葉を失った。
「……いえ。私は、何もしていません」
本心だった。
「むしろ……庇ってくださったことの方が、驚きでした」
あのとき、
剣を構え、迷いなく前に立った背中。
「彼が行動を起こしてくれたからこそ、
私は今、ここにいます」
マリアンヌは静かに聞き、
それから、ふっと微笑んだ。
「そう。」
午後の光が、彼女の髪をやわらかく照らす。
厳しく、誇り高く、
けれど確かに“母”の顔だった。
私は胸の奥で、小さく息を吐いた。
ここにいることを、
ようやく許された気がした。




