寄り添い合う心9
「もう遅い、部屋まで送ろう」
「はい」
2人でゆっくりと歩く。
あっという間に部屋の前まで来た。
扉の前。
夜の回廊は静かで、遠くの灯りだけが淡く揺れていた。
「……ここだな」
「うん。送ってくれてありがとう」
そう言ってドアノブに手をかけた、そのとき。
「……ティアナ」
呼び止められて、振り返る。
ディランは、ほんの一瞬だけ言葉を探すように黙った。
伸ばしかけた手が、宙で止まる。
指先が、私の髪に触れそうで――触れない。
その距離は、息がかかるほど近いのに、
彼はそれ以上踏み込まなかった。
「少し……触れたいと思った」
正直すぎる言葉に、心臓が跳ねる。
「だが」
その手は、ゆっくりと引かれる。
「今は、まだ……君が迷っている」
「その間に、俺の気持ちで縛るようなことはしたくない」
静かに、まっすぐな声。
「だから、ここまでだ
……おやすみ、ティアナ」
深くもなく、軽くもない。
けれど、とても大切にした挨拶だった。
「……おやすみなさい、ディラン」
扉を閉める直前。
彼はまだそこにいて、
背を向けず、目を逸らさず、
まるで“触れなかったこと”を、
何度も自分に言い聞かせるように立っていた。
扉が閉まる。
その向こうで、彼の足音が遠ざかるまで、
私はしばらく動けなかった。
触れなかった指先の距離が、
なぜか一番、熱を残していた。
◇
ディランside
――扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
ティアナの部屋の前。
灯りの落ちた回廊に、ひとり立ち尽くす。
……触れなかった。
触れなかったのに、
指先にはまだ、彼女の温度が残っている気がした。
ほんの一歩、近づけばよかった。
髪に触れるだけでも、
手を取るだけでも。
それすら許されないほど、
彼女の迷いは繊細だった。
「……愚かだな」
小さく呟く。
理性で抑えたはずなのに、
胸の奥では、欲が静かに疼いていた。
抱き寄せたかった。
守るためではなく、
王子としてでもなく。
ただ、一人の男として。
だが――
彼女の目にあったのは、
答えを探す迷いと、過去の影。
そこに自分の想いを重ねれば、
それは優しさではなく、逃げ場を奪う行為になる。
(それだけは……したくなかった)
歩き出す。
靴音が、ひとつ、ひとつ。
誰もいない回廊で、ようやく息を吐いた。
「待つと決めたんだ」
自分に言い聞かせる。
彼女が選ぶまで。
たとえ、その答えが――
自分の望まぬものであったとしても。
……だが胸が、まだ熱い。
彼女が来てくれた。
ただそれだけの事実が、
胸の奥で何度も想いだされる。
用事があったわけでも、
呼びつけたわけでもない。
眠れない夜に、
“自分のことを思い出して”足を運んでくれた。
それが、どれほど嬉しかったか。
王子として求められる好意ではなく、
婚約者としての義務でもなく、
ただ――ディラン個人に向けられた一歩。
それだけで、
長く冷えていた場所に火が灯った。
紅茶の湯気越しに見た、彼女の横顔。
言葉を選びながら、
それでも真っ直ぐこちらを見ていた瞳。
初めて人に打ち明けた兄の話。
胸の奥に沈めていた記憶が、静かに浮かび上がり、彼女は容易く心に触れてきた。
だからこそ。
今はまだ、
答えを急がせてはいけない。
彼女の歩幅で、
彼女の気持ちが追いつくまで。




