婚約発表1
扉の向こうが、ざわめいている。
人の気配と、抑えきれない期待と緊張。
その手前の控えの間は、不思議なほど静かだった。
「……緊張してる?」
振り返ると、ディランがそこにいた。
人前で見せる表情とは違う、少しだけ柔らかい顔。
「少しだけ」
正直に答える。
「でも、不思議と怖くはありません」
「それはよかった」
ディランはそう言って、私の隣に立つ。
距離は近いのに、触れない。
いつも通りの、逃げ道を残す距離。
(……やっぱり)
この人は、最後までそうする。
「今なら、まだ引き返せる」
ディランは視線を前に向けたまま言った。
「扉が開く前なら、誰にも責められない」
分かっていた。
きっと、そう言うだろうと。
「……ディラン」
私は、一歩だけ近づく。
「さすがに、しつこいですよ」
小さく息を吐く。
「私はもう、ここにいます」
殿下が、ほんのわずかに目を見開いた。
「婚約者という立場も。
その先で、私が手放される可能性も」
言葉を選ばず、はっきりと続ける。
「全部、分かった上でです」
沈黙。
ディランは、しばらく何も言わなかった。
「……君は、本当に」
言葉を探すように、息を吐く。
「俺のことをよくみてるね」
「結果と行動を、見ています」
私は答えた。
「肩書きや噂ではなく」
ディランの表情が、少しだけ崩れた。
「それが、一番欲しかった評価だ」
低く、正直な声。
「……だから、怖い」
その一言に、胸がきゅっと痛んだ。
「それでも」
私は指輪に視線を落とし、もう一度顔を上げる。
「ディランがどんな選択をしても、私は逃げません」
「――逃がすつもりだった」
ディランは、苦笑する。
「君だけは、守りたかった」
「知っています」
私は、静かに頷いた。
「それでも、隣に立つと決めました」
殿下は、ゆっくりと私を見る。
「……もう、逃げ道はないね」
一拍置いて、微かに笑う。
「まあ、もう逃すつもりもないけれど」
「はい」
小さく微笑んで、答える。
「一緒に、進みましょう」
扉の向こうで、名を呼ぶ声がした。
ディランは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
そして、手を差し出した。
「――行こう」
その手を、私は迷いなく取った。
扉が、ゆっくりと開いた。
一歩、踏み出した瞬間――
空気が変わったのが、はっきりと分かった。
ざわめきが止まり、無数の視線がこちらへ向けられる。
好奇心、探るような目、値踏みする視線。
そして、期待と緊張。
(……すごい)
思っていた以上だった。
殿下の腕に、そっと手を添える。
その動きひとつで、視線の熱がさらに増すのを感じた。
(逃げ道は、もうない)
けれど、不思議と足取りは揺れなかった。
歩くたび、ドレスの裾が静かに揺れる。
照明を受けて、アレキサンドライトが別の色を帯びる。
――誰かが、息を呑む音がした。
(見られている)
けれど同時に、私は気づく。
(……見られているだけだ)
肩書きも、噂も、憶測も。
ここではすべてが剥がされ、残るのは“今”だけ。
ディランは、堂々としていた。
さすがだな。
けれど、わずかに指先に力が入る。
(……大丈夫)
私は、そっとその手に応える。
するとディランは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
会場の端で、見知った顔が目に入る。
レオが硬直したまま立ち尽くし、
ルイは得意げに微笑む。
アレンとロベルトは、同時に視線を逸らした。
テオは、満足そうに口角を上げ、
セナは一度だけ、静かに頷く。
ユウリは胸に手を当て、安堵したように息をついた。
少し後方、全体を見渡す位置で、レイさんが立っている。
そしてお父様…
何も語らず、ただ状況を見極める目。
その視線は確かにこちらに向けられていた。
(……見守ってくれている)
そう思えた。
壇上へと続く道を歩きながら、私は息を整える。
(これは、試されている場じゃない)
(選んだ結果を、示す場所だ)
殿下が、一歩前に出る。
会場の空気が、ぴんと張り詰めた。
ディランが、一歩前に出た。
それだけで、会場の空気が張りつめる。
ざわめきは完全に消え、誰ひとりとして息を乱さない。
ディランは、ゆっくりと視線を巡らせた。
貴族たち、教会関係者、王城の重臣――
そして、私。
最後に、はっきりとこちらを見る。
「皆に、伝えることがある」
その声は、よく知っている落ち着いた調子だった。
けれど、いつもより少しだけ強い。
「本日、ここに」
一瞬の間。
「私は、蒼紋ラピスラズリ伯爵家 ティアナ ラピスラズリを――正式な婚約者として迎える」
空気が、止まった。
次の瞬間、ざわりとした波が広がる。
驚き、戸惑い、そして確信へ変わるざわめき。
ディランは続けた。
「彼女は、肩書きや噂によって選ばれた存在ではない」
その言葉に、胸がわずかに震える。
「私は、彼女の行動と結果を見て判断した」
視線が、再び私に向けられる。
「私の選択を理解し、
それでも隣に立つと決めた人だ」
会場が静まり返る。
「だから私は、彼女を選んだ」
その一言が、まっすぐ胸に届いた。
ディランは、私の方へ手を差し出す。
一歩、前へ。
視線が集まる中、私はその手を取った。
「彼女と共に、私は進む」
殿下の声は、揺れていなかった。
「この国と、未来と――
逃げずに向き合うために」
息を吸う音が、どこかで聞こえた。
ディランは最後に、はっきりと言い切る。
「ここに、婚約を宣言する」
その瞬間、会場に押し寄せる反応。
囁き声、息を呑む音、
そして、遅れて広がる拍手。
私は、ディランの隣に立ちながら、静かに思う。
(――逃げなかった)
(選んだ)
(選ばれた)
アレキサンドライトが、照明を受けて色を変えた。
それは、揺らぎではなく――
確かな決意の色だった。




